第八話 『友達』
プールへ向かう途中、透は言った。
「今日は水泳部が遠征に行ってるんだ。だから少しくらいなら使っていいってさ」
「でもどうして学校のプールで泳ごうと思ったの?」
「二学期からはこの体で学校に通うことにしたんだ。だからまあ、慣れるのにいいかなって思ってさ」
女性用の水着を着ることが、透にとってどれほどの負担になるのか。アキトはよく知っていた。
だからこそ、アキトは透が前へ進もうとしていることを強く実感できた。
透が更衣室で着替えている間、アキトはプールサイドのベンチに座ってぼんやりと空を眺めていた。午後三時をむかえた夏の空にはひとかけらの雲もなく、太陽からは焼けるような日差しが容赦なく降り注いでいた。
やがて、どこか柔らかみのある足音を立てながら、透がアキトのそばへやって来た。
学校指定の女子生徒用の競泳水着を身に着けたその姿は、正真正銘の女性だった。
「あー、あっちいなマジで。まあおかげで、絶好のプール日和なんだけどさ」
そう言いながら透は入念に準備運動に取り組む。
何をするでもなくアキトはその様子を眺めていた。
しなやかな手足も、美しい曲線を描く腰回りも、窮屈そうに圧迫された胸も。
その身体のすべてが、透が女性であることをアキトに印象づけていた。
「なんだよアキト。そんなじろじろ見て。お前にとっちゃ見飽きた体だろ」
「男としてならね」
「……まあ、そうだよな。なんかごめんな。自分のことばっか考えてた。今まで男同士のつきあい方だったのに、急に変えたらお前だって困るよな」
「どうして変わりたいって思ったの。うまくいく保障なんて、どこにもないのに」
「前にも言ったろ。彩が前に進んだからだよ。可愛い妹が勇気をもって前へ踏み出したのに、俺だけずっと同じ場所にいたくはないんだ。それに」
透はニヤリと笑い、アキトの腕を力強く引っ張って、プールを目指し走り出した。
突然のことにアキトは戸惑ったが、すぐに透と足並みを合わせて走った。
そして二人は、そのままプールへ思い切り飛び込んだ。
二人の体は水面を砕き、大きな音を立てながら水しぶきを上げた。
アキトは火照った体に水の冷たさが染み渡っていくのを感じた。
その心地よさが水の圧迫感へと変わった時、彼は水中から顔を出した。少しの間をおいて、透も顔を出す。
「思い切って新しい場所へ飛び込むのも、案外悪くねえだろ」
「まあね。でも今はもう、濡れた服の気持ち悪さで頭がいっぱいだけど」
「脱いじまえばいいさ」
「簡単に言ってくれるね」
透は笑い、アキトも笑った。
いつまでも笑っていられるような気がした。
アキトはプールサイドに上がって濡れた服をベンチにかける。透は更衣室から鞄を持ってきて、セーラー服を取り出した。
「服が乾くまでこれでも着とけ。風邪ひいちまうぞ」
「風邪ひいたほうがマシだよ」
「それな」
「……ごめん」
「冗談だよ、気にすんな。こっちなら大丈夫だろ」
透はセーラー服をしまい、体操服とハーフパンツを取り出した。
「家から学校へ来るまではこれを着てたんだ。街中で制服を着るのは、まだちょっとな」
アキトはうなずき、体操服を受け取った。
更衣室で着替えを済ませ、プールサイドにもどる。透は体の具合を確かめるように丁寧に泳いでいた。アキトはベンチに座り、服が乾くのを待ちながら透の様子を眺めた。
以前のアキトなら、透が身に着けていた服を着ても特に何も感じなかっただろう。
けれど、今はちがう。
アキトは透の体操服から『彼女』の匂いを、気配を、肉体の生々しい雰囲気を感じていた。
彼女が履いていたハーフパンツを自分が履いているということに、今まで感じたことのない奇妙な熱を感じていた。
おそらく、透はアキトにそう感じてもらうことを求めているのだろう。
前に進むために。
ひたすら泳ぎ続ける透に、アキトは声をかける。
「ねえ、そろそろ休憩したほうがいいんじゃない」
聞こえていないのか、透は泳ぐのをやめなかった。
「おーい。聞こえてるー? 聞こえてないー? どっちー?」
返事はない。
ふと思いつき、アキトは言う。
「透はさー。僕のことをー、男として見たことあるー?」
すると透は泳ぐのをやめ、アキトのほうへ振り向いた。
「お前は俺の友達だ! 男とか女とか関係ねえ! お前は俺の友達なんだ!」
その言葉に、アキトも大きく声を出してこたえる。
「僕も! 透は僕の友達だ! 僕は透のことが好きだ!」
「俺もお前のことが好きだ!」
この時、アキトは確信した。
自分の『好き』と透の『好き』が同じだということを。
今まで彩が自分に言い続けてきた『好き』とは異なるものだということを。




