第三話 『たった一歩の距離』
昼下がりの部室で、アキトは黙々と夏休みの課題に取り組んでいた。
部長は一字一句を吟味するように、キーボードを打って物語を紡いでいた。
開かれた窓からは時折そよ風が入り込み、夏の空気を届けてくれた。
グラウンドや体育館からは運動部が練習に励む音が、校舎からは吹奏楽部の楽器の音色が聞こえてくる。
そして、それらすべてを包みこむように、セミたちの鳴き声が激しく響いていた。
長い間、二人は言葉を交わさなかった。
それでも部室には穏やかな空気が満ちていた。
ふと、アキトは手を止めて部長のほうを見る。
その視線に気づき、部長も顔を上げた。
「どうしたの?」
「いえ、べつに……」
アキトはごまかすように課題へ目を移した。
二人が出会ったのは去年の春の終わりの頃で、およそ一年の付き合いになる。なのでアキトは部長のことをある程度は知っているが、一歩踏み込んだ先のことは知らなかった。
普段は特に気にならないことだったが、長い時間を二人きりでいると、自然と意識がそちらへ動いてしまう。そういうことは過去に何度かあったが、今日は少しちがった。
本当にただなんとなくなのだが、彼は一歩踏み出そうと思ったのだ。
「部長って」
その先の言葉を遮るように、部室のドアが勢いよく開いた。
「おお、いたいた。やっぱここだったか」
現れたのは愛嬌のある姿をした古ぼけたロボットだった。
「透? どうしたの」
「ちょいとお前につきあってほしいことがあってな……」
透が部室に入ろうとした時、部長は「待て!」と険しい声で言った。
するとロボットの足はぴたりと止まり、部室へ入る寸前のところで動かなくなった。
「おいてめえ! 勝手に命令すんじゃねえよ!」
「当然のことをしただけだよ。ここは僕たちの部室で、君は部外者なんだから」
「えらそうなこと言うな。そもそも三人しかいねえんだから、部じゃなくて同好会だろが」
「文句があるなら直接言いに来なよ。それなら僕の指示に従わされることもないでしょ」
「この野郎……」
「まあまあ二人とも落ち着いて。それで透。つきあってほしいことって、なに?」
ロボットは引き下がり、カメラのレンズをアキトに向ける。
「今日の四時から運動公園で代生の水泳の補習があるんだ。彩もこっちに来て泳ぐらしいんだけど、お前も一緒にどうかなって思ってさ」
「うーん。見学だけしようかな。水着持ってきてないし」
「決まりだな。彩の水着姿を拝めるのはたぶん今日で最後だ。しっかり見とけよ」
「ほんと、よくそういうこと言えるね……。実の妹でしょうに」
「実の妹だからさ。俺はもう現地にいるから、彩と二人で来てくれ。たぶんあいつはもうバス停にいるだろうから」
「わかった。すぐに行くよ」
「じゃ、またな」
ロボットが去った後、部長はうんざりしたようにため息をついた。
「あいかわらず失礼な人だね。彩君があれの妹だなんて信じられないよ」
「部長も挑発するようなこと言うからですよ。なんで透が代生やってるか、知ってるでしょ」
「それはそうだけど……」
「じゃ、僕はもう行きますね。腹いせに透が借りてるロボットにいたずらしちゃだめですよ。あれ、学校の備品なんですから」
「わかってるよ。それよりアキト君。これを」
部長は通学鞄から学校指定の水泳バッグを取り出した。
「さっき水着がないって言ってたでしょ。僕のを貸してあげるよ。男女兼用のオールインワンタイプだから、ちょっと着慣れないかもしれないけど」
「たまになんですけど、部長がとんでもない器の人に見えることがあります」
「そう?」
部長は不思議そうに目を瞬かせた。
本心から不思議がっているのだ。
「それじゃあ部長。また明日」
「うん。また明日。彩君によろしくね。気が向いたらいつでも部室に来てって」
それと、と部長は続ける。
「彼女にも、よろしく」