第二話 『物語は始まってすらいない』
午後六時のくたびれた空に、夕陽の残り火のような暗い赤色が広がっている。
学校からの帰り道を歩いていたアキトは、不意に立ち止まり、空を見上げた。
今、あの家で、自分の帰りを待っているのは、本当にハクアなのだろうか。
確信を得るための手段が、アキトにはなかった。
自宅の前に到着した時、彼は窓からもれている黄色い明りを見た。
誰かがこの家にいる。
アキトは玄関へ駆け寄り、鞄から鍵を取り出す。
しかし彼が鍵を開ける前にドアは開いた。
「おかえりなさい、アキト。今日はずいぶんと遅かったのね」
ハクアだった。
彼女は普段からそうしているというように、ごく普通にアキトを出迎えた。
これはもはや無視できない異常事態だった。
ハクアが先にドアを開けて出迎えることなど、今までに一度もなかった。
「どうしたの? 少し顔色が悪いわよ」
「大丈夫。ちょっと、疲れてるだけだから」
「そう。お風呂の準備はできてるから、先にはいって。その間に夕食の準備をするから」
わかった、とアキトはうなずき、まっすぐに風呂場へ行って体を洗い湯船につかる。
そして、記憶の糸を手繰る。
今朝、僕は学校へ行く前にハクアを眠らせたはずだ。
なのにどうして、ハクアは起きているんだ。
いや、そもそも僕は本当に、ハクアを眠らせたのだろうか。
わからない。わからない。わからない…………。
風呂からあがり、ハクアが用意した夕食を食べる。白米とみそ汁、夏野菜の炒めものに冷ややっこという献立で、それはアンがよくつくってくれたものと同じだった。味も同じだ。
アキトがそう感じているだけかもしれないが、そう感じていることが問題だった。
食事をしている間、ハクアはリビングのソファに座って図書館から借りている本を読んでいた。それは海外の古典SF小説で、期末考査が終わったころから読み始めたものだった。
アキトはハクアのそばに近づき、さりげなく様子をうかがう。
本のページは、目次のページで止まっていた。
ハクアは読書をしているのではなく、読書をしている姿をアキトに見せているようだった。
何も起こらないまま時間が経過し、アキトが眠る時間になった。
ハクアはまだ、読書をしている姿をしていた。
「そろそろ、寝るよ」
「そう。おやすみなさい」
「ハクアは、眠らないの?」
「もう少し本を読んでから眠るわ。ほら、返却期限が近いから」
アキトはハクアのそばに近づき、もう一度ページを見る。
開かれているのは、目次のページだった。
「わかった。あんまり遅くならないようにね」
そう言って、アキトは自分の部屋に向かう。
ドアを開け、ベッドに横になり、部屋の明かりを消して、暗い天井をじっと見る。
ハクアを眠らせることができなかった。
不意に、父親の高笑いがよみがえり、頭の中に響き渡る。
アキトは目を閉じ、まぶたの裏に広がる暗闇を見つめ、長い時間をかけて眠りについた。




