第一話 『七月の終わりへ』
真夏の暑さが猛威を振るい始めた七月の終盤。
ここが生涯最後の大舞台と言わんばかりにセミたちが狂い叫ぶ中、アキトは部室へ向かっていた。
明日ですべての補習授業は終了し、いよいよ夏休みが本格的に始まる。校内には解放感と期待感に満ちた活気があふれていたが、アキトにとってはどうでもいいことだった。今の彼の頭にあるのは、部室へ行って昼食をとることだけだった。
部室には部長と彩がいた。部長は時計の針が時を刻むような調子でキーボードを打ち、彩は黙々と昼食をとっていた。
部室は明らかに危険な暑さに達していたが、ここには健康で文化的な最低限度の生活を送るために必要であるエアコンという設備が存在しない。とうに耐用年数を超えた扇風機が一台あるだけだ。
長い時の中で本来の白色を失ったその機械は、悲鳴を思わせる音を立てながら首を左右に振って風を送り、力尽きるその瞬間まで自らの使命を果たそうとしていた。
たとえそれが自らの意思ではなく、人間に定められた宿命であったとしても。
「どうしたの、アキ。じっと扇風機なんか見て」
「……人間は、なんて残酷な生き物なんだろう」
「え?」
アキトは荷物をおろし、パイプ椅子に腰を下ろした。
「ハクアが目を覚ましたんだ」
「本当? よかったじゃない。特に変わった様子はないの?」
大丈夫、とアキトは答える。
部長は手を止め、アキトのほうに顔を向けた。
「でもどうして急に目を覚ましたんだろうね。アキト君、何か心当たりはあるの?」
「どうなんでしょう。まあでも、ハクアが目を覚ましてよかったです」
そう言うと、アキトは何事もなかったかのように弁当を食べ始めた。
彼は嘘をついた。
彩と部長に、初めて嘘をついた。
そして、自分自身にも。
ただいま、アキト。
昨日、目を覚ましたハクアは最初にそう言った。
まるで、その時にいたるまで何があったのかを理解しているかのような言葉だった。
なによりも、ハクアはアキトのことを「アキト」と呼んだ。
それを聞いた瞬間、アキトの頭にはアンと最後に過ごした頃の記憶が一気によみがえり、彼は頭を握りつぶされるような痛みと吐き気にもだえ、その場にうずくまった。
「大丈夫?」
ハクアはアキトに寄り添い、背中を優しくなでる。
アキトは力を振り絞って顔を上げた。
そこにいるのは、確かにハクアだった。
けれど、ちがう。
何かが、ちがう。
「…………ちがう」
「え?」
アキトはふらつきながら立ち上がると、自分の部屋にもどった。
ハクアがそばに来たとき、知らない香水の匂いを感じた。
アキトはハクアに、恐怖心を抱いた。
今のハクアは、アキトが知っているハクアとは何かが決定的にちがっていた。




