第十一話 『セミは唄っていた』
アキトの母親が眠る墓地は、海辺の都会を西へ行った地域に広がる丘陵地帯にある。
墓地に到着すると、父親は機嫌よく口笛を吹きながら車の荷台から雑巾や剪定用の鋏が入ったバケツを取り出した。アキトも車から降りて、正午間近の夏の日差しを感じた。
「さあて、一仕事といきますか。ああ、もちろんお前は何もしなくていいからな」
父親は母親が眠る墓を丁寧に掃除した。慣れた手つきで植木を剪定し、枯れ葉やゴミを拾い集め、敷地内の雑草を一本一本引き抜き、愛でるように墓石を磨いた。
まるで、愛する人の体を愛でるように。
この一連の行為を通じて、父親はこの場所に眠っている母親の魂に触れているのだろう。
夏の暑さが激しさを増した頃に作業は終わった。
父親は道具をかたづけ、墓石の前に立ち、目を閉じて手を合わせた。
アキトは手の甲で顔の汗をぬぐい、父親の姿を見ていた。
「私はね、ここに母さんが眠っているとは思ってないんだ」
父親は墓石に背を向け、アキトと向かい合った。
「私がこんなことをしているのは、私自身の中に母さんの存在を確かめるためなんだよ。お墓はね、死者との間に結ばれた絆を再確認するための場所だと私は思っているんだ」
アキトは何も言わず、じっと父親を見ていた。
「この場所にあるのは母さんの一部、骨のかけらだけだ。お前は見たことがないだろうけど、火葬というのは実にすごいものさ。ほんの少し前まで人間の姿形をしていた死者が、人の形をなぞるような白い骨の欠片だけになる。だから嫌でも思い知らされるのさ。その人が死んでしまったという事実を」
「そう」
「かといってすべてが失われるわけじゃない。私の心には今も変わらず母さんが存在している。私の心は母さんの心とともにある。そうさ、私は今でもあの人を愛しているんだ!」
物語のクライマックスを劇的に飾るように、父親は高らかに声を響かせる。
「大切なのは自分の心のあり方なんだ。自分がどう思い、感じ、信じているか。それが世界のすべてなのさ」
「そう」
「そう! そうそうそう! あっはっはっはっは!」
父親は笑い続ける。アキトは何の感情もない目を父親に向けていた。
「さて、もう用は済んだ。帰るとしようか」
父親は荷物をまとめて駐車場へ向かう。もちろん、アキトは彼の後に続いた。
アキトは毎年お墓参りに行くが、墓前に手を合わせたことは一度もない。
彼には母親についての記憶がなかった。
何も知らない人に対し、その人のことを思って手を合わせることは、アキトにはどうしても理解できないことだった。




