第九話 『いのちかけて』
昼過ぎに部長は帰宅し、アキトはただ一人部室に残った。
何をするでもなく、ただぼんやりと時間をつぶす。
鞄には夏休み中の課題が入っているが、それをする気にはなれなかった。
本当に、何もする気がなかった。
開け放たれた窓の外からは、セミの鳴き声がやかましく聞こえてくる。
アキトは十歳の時に、この鳴き声が求愛のためのものだと知った。
それを教えてくれたのは、アンだった。
夏の暑さと、セミの鳴き声と、奇妙な疲労感が、アキトの思考をぎしぎしと動かしていく。
愛とは、こんなに声を大きくしてまでも、求めてしまうものなんだろうか。
声を上げるために、自分の命を削らなければならないとしても。
それだけの価値があるんだろうか。
愛するということは。
僕は、誰かを、愛することが、できるだろうか。
彼はいつの間にか思春期特有の痛々しい思考の袋小路に入り込んでいた。
もっとも、人生にはこういう時間も必用なのだろう。
自分の心と向きあうことは、悪いことではないはずだ。
アキトもまた、心を持つ人間なのだから。
たとえそれの在り処が、わからなくても。
静止した時の中に囚われたかのように、アキトは椅子に座ったまま窓の外を眺めていた。
もちろん、時間は止まらない。
窓の外に広がる空は、真夏の青空から美しい夕空へと移り変わっていく。
部室には長く引き伸ばされた深い影が入り込み、セミの鳴き声はひっそりと消えていった。
それでもアキトは動かなかった。
彼には、自分が目覚めているのか眠っているのかも、わからなくなっていた。
空気が破裂したような、鋭く、乾いた音が鳴り響く。
頬に確かな痛みを感じた。同時にアキトは、目の前にいる彩の姿を見た。
「よかった……。やっと気づいてくれた」
彩は安心したように息を吐いた。
「もう、びっくりしたよ。アキってば魂が抜けたみたいにぼーっとしててさ、いくら呼んでも全然こたえないから、どうしちゃったんだろうって思って」
「ごめん。少し、考え事をしてたんだ」
「考え事?」
「うん。セミの鳴き声を聞きながら、愛の価値について」
「…………」
「そういう目で見られると、なんか、いたたまれないね」
「大丈夫だよ。私がアキのことを好きって気持ちは、変わらないから」
「ありがとう。僕も彩のことは好きだよ」
二人が言う『好き』の意味は、それぞれ異なっている。二人ともそれはわかっていた。
それでも彩は笑った。
「帰ろう、アキ。もうすぐバスの時間だよ」
二人が校門前のバス停に着く直前に、バスは発車してしまった。次のバスが来るまで二十分ほど時間がかかる。
その時間が、彩には何かの啓示のように感じられた。
バス停のベンチに並んで座り、しばらく無言の時間をつくった後、彩は言った。
「ハクアは、まだ眠ったままなの?」
「うん」
「修理に出したほうが、いいんじゃない?」
アキトは何も答えなかった。
「ハクアが今みたいなままだったら、アキだってさびしいでしょ」
「僕は、ハクアがそばにいるだけで十分なんだ。だから修理には出さない。それに、ハクアと約束したんだ。ハクアのことは、アンドロイドとして接しないって」
「だから修理には出さないの?」
「うん」
「自然と目を覚ますまで待つの?」
「そうだね」
「じゃあもし、目を覚まさなかったら、どうするの?」
「その時はその時だよ。さっきも言ったけど、僕はハクアが」
「私は、嫌だよ」
彩はアキトの言葉を遮った。
「私はもっと、ハクアと話がしたい。アキが一緒にいたいって思える人がどんな人なのか、もっと知りたいから。それに、私がハクアのことを本当はどう思っているのかも知りたい」
彩は赤く燃える夕空を見上げる。
「私はね、ハクアには私たちと同じように心があるって、思ってたんだ。体はアンドロイドでも、中身は人間と同じだって思ってた。ねえ、どうしてだと思う?」
わからない、とアキトは首を振った。
「くやしいけどさ、アキがハクアと一緒にいる時は、本当に楽しそうにしてたんだよ。そう、お互いの心がしっかりと通い合ってるみたいで」
その瞬間、アキトの頭に何かが浮かび上がった。
しかし直後にバスが到着し、アキトはそれを手にすることができなかった。




