9 雷嵐の夜
雷の描写があります。
苦手な方はご注意ください。
※「雷嵐【らいらん】の夜」です。
玄関ホールにシャールたちが駆け込んでくるのとほぼ同時に、大きな雨粒が空から落ちてきた。最初の雨粒が庭の敷石を叩き黒く痕をつける。瞬く間に雨は景色を白く染め上げた。雨の匂いが濃く立ちこめる。
「シャールも皆も大丈夫? 濡れなかった?」
図書室は裏庭に面している。窓からシャールたちが小路を走って戻ってくるのが見えたので、玄関ホールへと向かった。
「ありがとう、お姉さま。大丈夫よ。それよりもほら。これを見て」
シャールは背負っていた藤籠の中味を得意そうに見せる。藤籠の中には、まるでついばんでいるかのような小鳥の嘴がついた、丸くて紅い柘榴がたくさん入っていた。
「今年は豊作だったの。ケインが砂糖漬けをつくってくれるって」
シャールはケインに嬉しそうに微笑んだ。ケインはたっぷりとした白い口ひげを蓄えている、気のいいコック長だ。先代のころから男爵家の厨房で働いていた。
柘榴を砂糖に漬けて出来たシロップは水で割って飲む。子どもの頃からのシャールとわたしの好きなものの一つだった。砂糖は貴重品だ。しかしケインは食材費の予算をうまくまわして、毎年そのための砂糖を購入してくれていた。
ヴィーリアは遠慮するベルの藤籠を持った。
「雨の前に収穫できてよかったですよ」
ケインがたっぷりとした口ひげと同様のお腹をさする。雨が降り出す前にと、走って戻ってきたために切れた息を弾ませていた。
皆で柘榴がいっぱいに詰まった藤籠を厨房へと運んだ。
大粒の雨はすぐに本降りになった。激しい雨音を立てて屋根や窓を打ちつける。風が強いため、雨が流されて横から降っているようだ。
秋の始まりには、激しい風と雨をともなった嵐が稀にくる。
「この風雨だと果樹園や作物が心配ですね」
ベルが厨房の窓から雨で白く煙った外を眺めた。実りの季節にこの嵐は痛手となる。
自然相手ではどうにもならないのがもどかしい。嵐が早く治まるように祈ることしかできない。しかし、もう祈る資格も持たないわたしは、ヴィーリアにでも願えばいいのだろうか。
「今夜は荒れそうですね」
振り向くと、執事のブランドがコディとフェイと一緒に厨房の入り口に立っていた。ブランドとコディは古びたシーツを抱えている。フェイはバケツと雑巾を持っていた。
「念のために雨が当たる窓は水が入らないよう塞いでおきますが、お嬢様たちのお部屋もお気をつけください。なにかありましたらすぐにお呼びください」
「わかったわ。ありがとう」
ここ数年は屋敷の修繕が充分とはいえなかった。目に見えて傷んでいる箇所はないが、このような嵐の日は注意が必要だ。なにが起こるかわからない。
……お父様とお母様は大丈夫だろうか。
ちらりとヴィーリアを見上げると、まるで心を読んだかのように肯いた。
すっと耳元に顔を寄せて心配はないと囁かれる。わかりやすく不安が表情にでていたらしい。
ヴィーリアは好青年とはかくあるべしといった、にこやかな微笑みを浮かべている。ブランドたちにも愛想がいい。わたしと二人きりのときの、尊大で慇懃無礼な態度はみじんもない。外面はとにかくいいのだ。
屋敷で働く者たちにもヴィーリアはすっかり受け入れられていた。
夕食の頃には、樹々の枝葉を大きくしならせ、落葉のときを待たずして葉を散らせていた強風は、おおかた治まっていた。
雨はまだ降り続いていたが、次第に雨脚は弱まっている。風が弱くなるにつれて雷鳴が聞こえてきていた。獲物を狙う獣の低いうなり声のように、遠くから徐々に、まるで屋敷を目指して近づいてきているようだ。
食事を終えると早々に部屋に戻った。こんな夜は早めに寝てしまうに限る。
寝台に横になり目を閉じていても、カーテン越しに雷の閃光が瞼を刺激する。少しの間をおいて、空間を無理やりに裂くような轟音が鳴る。お腹の底にまで響いてくる。
雷は苦手だ。
反対にシャールは幼い頃から、雷が鳴ると窓に張り付いて稲妻を観察していた。
怖いからやめなよと、シャールの小さな手を引っ張った。雷鳴で大気が震え、びりびりと振動する窓から離そうとしたが、頑として動かなかった。とてもきれいだから一緒に見ようよと、無邪気に笑っていた。
シャールは柔和な可愛い顔立ちに似合わずに、幼いころから意外と豪胆な面がある。部屋で遊ぶことよりも、野原を走りまわって草木や虫を観察することが好きだった。新型の耕作機の展示会や、蒸気機関車のお披露目にも目を輝かせていた。今夜も窓辺で、雲間から幾重にも走る雷光を楽しそうに眺めているに違いない。
「―――!」
瞬間、ひと際白い閃光が弾けたかと思うと、ほんの少しの間をおいて、轟くような雷鳴が耳をつんざいた。
素早くブランケットに潜りこんだ。膝を丸めて両腕を抱え縮こまる。
怖い。雷は歳を重ねても慣れない。昔よりも苦手になっているような気もする。これは本能的な恐れだから理由なんてない。苦手だから苦手。嫌いだから嫌い。怖いものは怖い。そういうことだ。
ブランケットの中で背中を丸めて震えていた。ヴィーリアが昼間に厨房で、心配ないと囁いた微笑みが思い出された。今夜、ヴィーリアはどう過ごしているのだろう。まだ食堂で、お気に入りのリモール産の紅茶でも楽しんでいるのだろうか―――。
「ミュシャ」
「ぎゃああああああああああ――――――!?」
わたしの絶叫はタイミングよく鳴り渡った轟音の雷鳴にかき消された。そうでなければ屋敷にいる者たち全員が、何事かと部屋に駆けつける事態になったはずだ。
「……また貴女は。そんな声を出して」
飛び起きて寝台の上にへたり込んだ。
はぎ取ったブランケットを持ったヴィーリアが寝台の脇から見下ろしていた。
心臓の鼓動がこれ以上はないというくらいに、早鐘を打っている。雷も怖い。けれどこれは……心臓が口から飛び出るほどに驚いた。いや、少し飛び出しかけていたような気もする。なんなら髪の毛が全部、栗のいがのよう逆立っていてもおかしくはない。
一人きりの部屋でいきなり名前を呼ばれて、包まっていたブランケットをはがされれば誰だってこんな声も出るというものだ。決してわたしが悪いわけではない。絶対にヴィーリアのせいだ。
「な、な、なんでヴィーリアがいるの?」
驚きすぎて胸が苦しい。胸に手を充てて早すぎる鼓動をなだめる。本当に寿命を縮めようとしているんじゃないだろうか? それともまさか、この時間に依代を徴収しにきたのだろうか。夜間では歯止めがきかないというから早朝にしたのに。
とっさにもう片方の手で左耳をかばう。出血多量で連れて逝かれるのには、まだ早い。
「貴女に呼ばれたような気がしたものですから」
「呼んでないよ!?」
呼んではいない。確かに呼んではいないけど、ヴィーリアは今どうしているのだろうとは考えた。
……あれ? なに? わたしたちなにか通じ合っているの?
ヴィーリアは寝台に膝を乗せて上がり込み、勝手に隣に身体をおいた。肘をついてこちらを向いて横になる。窮屈そうに、タイの結び目を片手で弛めている。紫色の瞳はうっすらと燐光を放っていた。白銀色の艶やかな髪が寝台にこぼれて広がっている。ぱちんと指を鳴らすと、いつかの青い蝶が部屋の中を舞い始めた。
「……雷が怖かったのですか?」
「そんなこと、ないわ」
「嘘が下手ですね。ブランケットに包まって震えていたくせに」
「……それは……」
早鐘のようだった鼓動が、ヴィーリアの穏やかな口調と、しっとりとした声にあやされるように落ち着いてきた。
「まったく。私を呼び出すような大胆さがあるかと思えば、雷などが怖いとは……」
呆れたように、からかうように哂われて顔に血が集まっていく。
「そんなこといったって……怖いものは怖いんだから仕方がないじゃない」
「貴女の妹の方が度胸はありそうです」
「シャールは昔から雷が好きなのよ」
「……雷のことだけではないですが」
強烈な白い閃光と同時に、轟然たる雷鳴が響く。反射的に身がすくんだ。
「―――!」
近くに落ちている。雨が降っているから心配はないとは思うが、山火事のことが頭をよぎる。
「大丈夫です」
ヴィーリアの腕が、寝台にへたり込んだままのわたしの腰に回された。そのまま強く引き寄せられ、ヴィーリアの隣に倒れ込む。さらに引き込まれて、温度を感じない胸元に顔が埋まりそうだ。タイを弛めたときに、シャツの釦も外していたらしい。ヴィーリアの白い肌が襟元から覗いていた。
「ちょっと!」
「いい子にしていなさい」
腕を突っ張って囲いから逃れようとしたが、やはり力では敵わない。
暴れても仕方がなさそうなので、言われた通りにヴィーリアの胸の中に囲われた。
白い肌が覗く襟元から視線を逸らして、大人しくしている。安心させるように、背中をぽんぽんと調子よく優しく叩かれた。まるで、ミルクを飲んだあとの赤子をあやしているようだ。
左耳に口づける気配もない。これは……依代の徴収ではなく、心配して様子を見に来てくれたのだろう。……それにしてもいい子にしていなさいだなんて、まるきり子ども扱いだ。
一向に止む気配もない閃光は、断続的に室内を青白く浮き上がらせる。雷鳴も鳴り止まない。
そんな夜の中でヴィーリアに抱き寄せられていると、不覚にも護られているという安心感を覚えてしまう。
……恐ろしい雷の夜に、一緒にいてくれることが心強い。背中に回された手の重みが心地よい。ヴィーリアが心配してくれたことが嬉しい。揺りかごの中で、絶対的な安心感に包まれて微睡んでいるようだ。
青い蝶が、悪い夢のような雷の夜に優雅に室内を翔ぶ。そのままヴィーリアに身体を預けて瞼を閉じた。早く雷も嵐も去ってしまえばいいと思う。その反面、嵐が続けばこのままでいられるのにとも思う。全ては刻印された影響なのかもしれないが、魔法陣を刻まれた召喚者は、魂の契約をした『人の理の外の者』にこのような気持ちを抱くのが常なのだろうか?
しばらくヴィーリアの胸に収まっていると、わたしの体温がヴィーリアのシャツを伝い彼の身体に移っていった。ブランケットに包まっているうちにブランケットが暖かくなるのと同じ原理だ。熱が移動しただけのこと。
地下室で初めて触れられたときから、ヴィーリアの身体は冷たいと感じていた。体温というものがないように冷たい。生きているものの温度ではない。汗や皮膚の匂いもしなかった。だから今までは、抱き寄せられても耳に口づけされても、端正に造られた人形に触れられていると思えた。
触れられ、見つめられると恥ずかしい気持ちにはなる。でも、相手は美しい人形だ。現実としての実感や、道徳観への抵抗は薄い。それにそもそもヴィーリアは人ではない。
だから、意識しないようにしていた。
……でも、人肌は温かい。
それだけのことだ。たったそれだけのことなのに。
そう思おうとすればするほど、ありありと、生々しく意識してしまう。
筋肉がしっかりとついた胸元や、白い首に浮き出た喉仏。固い腕や、筋張った長い指の感触。
なぜ今までは人形のようだなどと思えたのだろう。触れられても、なぜ平気でいたのかさえ、不思議と思い出せなくなる。
いったんそのような思いに囚われてしまったら、恥ずかしさでじっとしていられない。顔が熱い。部屋が暗くてよかった。
図書室で匂ったような、重厚な甘い香りを感じた。昼間よりも濃厚に、より甘く香っている。吸い込んだ途端に、くらりと引き込まれるように眩暈がした。
図書室で感じた意識が飛び散る感覚には遠く及ばないが、なにかに酔ったように意識がぼんやりとしてくる。思考に白い膜がぴったりと張り付いたかのようだ。
「……この香り?」
「……貴女のせいですよ」
ヴィーリアがついたため息が額にかかった。
「……わたし?」
「昼間に貴女の魂に触れたといったでしょう? ……魂が繋がった余韻が緒を引いているようです」
「どういうこと……?」
はっきりとしない、ぼんやりとした思考のせいで理解することに時間がかかる。
「魂の一部が混ざって……思考と感情が一時的に混線しているようです」
「……混線? わたしと誰が……」
「私です」
「……」
「……貴女が考えたことや感じたことが伝わってきます。もちろん全部ではありませんが、強い思念や情動を発したとき……特に欲情など……」
…………ああ。だからどうりで、ヴィーリアと気持ちが通じ合っているなんて気がしていたのか。そうか。そうだったのか。
魂が混ざっちゃった? それなら仕方がないよね。わたしの気持ちがヴィーリアに筒抜けだったっていうことだよね? ええと、なんだっけ? 特になんて言った? 欲情? あの気持ちはそういうことなの―――?
なんて一瞬、微かに一瞬、ほんの一瞬。
そんなことを思いかけてしまった。
……想定外過ぎる衝撃だった。
お酒を飲んでもいないのに、ほろ酔いどころか酩酊気味だった意識が全速力で駆け戻ってくる。
―――はぁ? なんなのそれ?! 通じ合っているなんて、そんなのんきな! 仕方がないなんて思えるわけがないよね!? 納得なんかできないよね!? だって、嘘でしょう? 筒抜けだよ? つ・つ・ぬ・け! しかもなに? 欲情? ってそんなわけないよ! ……ないと思う。…………ないと思いたい。
……恥ずかしい。恥ずかしすぎる。……明日といわず、今からでも合わせる顔もなにもあったものじゃない。顔から火が出るどころの騒ぎじゃない。炎上! 大炎上! さっき思ったことは全て取り消すから! 絶対全部取り消すから! こんな、こんな恥ずかしい気持ちもヴィーリアに丸ごと伝わっているなんて! それなのにわたしのせいって!
「……そんな顔をしないでください」
そんな顔以外にどんな顔をしろというのか。
感情や思考が伝わっているのなら、わたしの言いたいこともわかるはずだ。もう気持ちはぐちゃぐちゃだ。
「貴女の言い分もわかりますが、これは事故のようなものです。惹く力が強いと起こりやすい。……混線しているといったでしょう? 私も同じですよ」
「……どう同じなの? わたしにはヴィーリアの考えていることなんて、伝わってこないよ」
もう恥ずかしすぎて泣きそうだ。泣いてもいいかな? 目から出るのは汗だけど。
「匂いがしませんでしたか?」
匂い? 匂いはした。重厚で甘い香り。吸い込むと眩暈がした。酔ってしまうような、バニラよりも濃厚で魅惑的な甘い甘い香り。
「人間には私の思考は捉えられない。そのかわりに香りとして感じます」
髪を掬うように頭を撫でてくる。なだめるように何度も、何度も繰り返される。
「……ずるい。香りはしても、結局ヴィーリアの考えていることはわたしにはわからない」
「一時的なものです。明日には元にもどるでしょう」
「……それでもやっぱり……ずるいよ」
「……では一つだけ。……強く感応すると、香りはより濃くなります」
その香りは昼間よりも濃厚で、蠱惑的で、とてもとても甘く薫った。……思わずヴィーリアを上目で見る。
「……強く……感応? ……さっき欲情って?」
「つまりは以心伝心です」
「……それ、いい感じに言っているだけよね」
ヴィーリアは真顔で、臆面もなく堂々と言ってのける。悪びれもしない。
……なんだか、恥ずかしがっていることがバカみたいに思えてくる。
おかしくなった気持ちも、雰囲気も、すでに霧が晴れるように消えていた。思わず笑ってしまう。
「物は言いよう、だね」
「本心ですよ」
ヴィーリアは指を鳴らして青い蝶を消した。
「さあ、おやすみなさい。雷が去るまではこうしています」
「うん……おやすみ。ヴィーリア」
瞼を閉じた。明日には消えてしまう繋がりであるなら、今はもうなにも考えない。腕のなかで夜が過ぎるのを待っていよう。
それから、うとうとと浅い眠りを繰り返した。夜半過ぎには閃光と雷鳴の間隔が徐々に遠くなった。雨音がしなくなった頃に、ヴィーリアの腕の中で深い眠りに落ちた。
読んでいただいてありがとうございます。(*'▽')