8 炭鉱の鉱石
慌ただしい朝食が終わると、お父様はお母様とヴィーリアを伴って執務室にこもった。
昼食の前には炭鉱の責任者たちが数人の客人を伴い屋敷を訪れた。執事のブランドが執務室へと案内する。ブランドにそれとなく訊くと、商会の筆頭や輸送責任者、宝石、鍛冶、装飾分野の関係者だという。
ブランドの家系は代々ライトフィールド男爵家の執事を務めている。先代執事はブランドの父親だった。
ブランドはお父様が産まれた頃には、執事見習いとして屋敷で働いていたという。
片眼鏡を掛けている真面目で忠誠心が篤い好々爺だ。孫のコディも見習い兼下働きとして屋敷に残ってくれていた。
昼食の時間になってもお父様たちは執務室から出てこなかった。
わたしとシャールは午前中に書類の整理をして昼食は二人で取った。午後の仕事を始める前に、シャールと裏庭に秋蒔きの葉物野菜の種を植えた。
空は高く澄んでいる。秋晴れの気持ちのよい日だ。
「ねえ、お姉さま。炭鉱から出た鉱石って、やっぱり宝石だったのかな?」
シャールは大きな緑色の瞳をさらに大きくした。畑仕事の邪魔にならないように、淡い金色の髪を一つに結んでいる。
しゃがみ込んで、種を撒いた溝に小さなスコップで土を盛っていた。
シャールの横顔を眺める。頬はまだほんの少し丸みを帯びている。そこにはあどけない少女の名残があった。
「きっとそうよ」
安心させるように笑う。心配しなくても、もう、大丈夫。
「ふふふ。もし、そうだったら……そうしたらわたし……」
シャールは緑色の瞳を潤ませた。声は小さく、震えていた。
腕を伸ばしてシャールを抱きしめる。ふわりと暖かい陽光の香りがした。
「シャール。大丈夫。なにもかも全部うまくいく。わたしを信じて」
「お姉さま……」
「わたしの勘は当たるんでしょ?」
優しく頭を撫でる。シャールが腕の中で小さく頷いた。
「ベナルブ伯爵様には、シャールはもったいないもの」
「……でも、お姉さま。実はわたし、伯爵様のお顔は嫌いじゃないのよ」
シャールは眦を指で拭いながら、悪戯を告白するように微笑んだ。
「ええ? いつ伯爵様にお会いしたの?」
驚いた。
お父様もお母様も、独身の伯爵と年頃のわたしたち姉妹を極力会わせないようにしていたからだ。お人好しの両親ではあるが、思うところはあったのだろう。
わたしは過去に二回ほど偶然に庭で会ってしまい、挨拶だけは交わしたことがある。
しかし、シャールが伯爵と会ったことがあるというのは初耳だった。
二年前に伯爵からシャールへの申し出があって以来、お父様とお母様は伯爵領へと出向いて話し合いを持っていた。領地を出ないわたしたちは、伯爵と顔を合わせる機会はなかった。
「お会いしたわけではないの。……うちの領地を助けてくれたと聞いて、どんな方だか気になって。屋敷にみえたときに陰からちょっと覗いてみたの。……そうしたら伯爵様と目が合ったような気がして……。微笑まれたお顔が優しそうで素敵だったのに」
シャールが思い出すように目を閉じた。
……そうだったのか。伯爵はシャールを気に入ったのだ。なにしろシャールは可愛い。
陽に透けるふわふわの金髪は、綿あめのように柔らかくて甘そうだ。緑色の大きな瞳は、好奇心の塊のようでころころと表情を変える。ふっくらとした桃色の唇は鈴のように響く声を紡ぐ。いつも笑顔を絶やさない。シャールを嫌いになる人間はいないだろう。
ベナルブ伯爵が借金の形に男爵領を要求することを、今までは、男爵家の正しい血統を持つシャールを娶ることで正当化しようとしているだけだと思っていた。
まあ、それも理由の一つではあるのだろうが。
「でも……お父様やお母様、お姉さまをこんなにも困らせることをなさるなんて……」
困らせるどころの話ではない。領地を乗っ取られる上に、シャールまで婚姻という形で攫われ、ライトフィールド男爵家は没落決定寸前まで追い詰められていたのだ。
ベナルブ伯爵の顔を思い浮かべる。
二年以上前にたったの二回、それもちらりと挨拶を交わした程度の伯爵の容貌はうっすらとしか思い出せない。
肩までの栗色の髪に、切れ長の目をしていたように思う。瞳は確か……髪と同じ栗色だった。口元にあった黒子は、妙に印象的だったので覚えている。わりと細身だったとも記憶している。背はお父様よりもずいぶんと高かった。聞いていた歳よりも若いように見えた。
窮地に陥った男爵領を助けてくれるという伯爵に、感謝と尊敬の念を抱いた。
悪い印象など、みじんも抱きもしなかった。しかし、それがまさかこんなことになろうとは……当時は知る由もない。
「シャールは伯爵様を好きだったの?」
シャールの頬がみるみる赤く染まる。
「好き、というのはよくわからないわ。でも、声を聞いてみたいと……お話をしてみたいとは思っていたの。……今は、わからない……」
「……」
伯爵は、お父様の信頼とシャールの淡い憧れまで壊したのだ。
小さくて薄い背中を宥めるようにさすった。
吹いてきた風が、裏庭に咲きこぼれる橙色の菊の花たちを揺らす。
ベルがお茶を淹れましたと呼びに来た。
△▼△▼△
お父様たちが執務室にこもった翌日、お父様とお母様は炭鉱へと出発した。
最短でも一週間は帰れないからと、お父様は恐縮しながらも、ヴィーリアに自分たちが留守の間のわたしたち姉妹の守りを頼んでいた。
炭鉱から出た鉱石の正体については結果待ちになると教えてくれた。鑑定士の精査が必要ということだった。
ヴィーリアは湖で無花果を収穫したときに、わたしから依代を採取して以来、まだ陽が昇らない朝の早い時間に部屋を訪れては左耳の魔法陣に口づけた。
いつの間にか部屋にいて、わたしが寝ていてもおかまいなしで寝台に上がり込む。そして冷たい唇と舌で耳を食む。
寝台のきしみと、左耳の熱と疼きでさすがに目が覚める。
ぼんやりと目を開けると、ヴィーリアの人形のように端正な顔がすぐそこにある。それと同時に、左耳の魔法陣から広がる熱と疼きを知覚する。
……もうね、毎朝やめてほしい。心臓に悪すぎる。もしかして魂の回収を早めるための作戦なのかとさえ思う。目覚めてすぐの心臓には負担が大きい。せめて目覚めは穏やかなものを希望したい。
例えば可愛らしい小鳥のさえずりや、焼きたての、小麦の香りが芳ばしいパンの匂いなら文句はない。
早朝から起こされて、へんに目が冴えてしまってもまだ外は暗い。鼓動の速い心臓を落ち着かせてから二度寝をすると、今度は陽が昇っても起きられない。なんという悪循環だろうか。
依代の徴収は早朝ではなく、せめて寝る前にと頼んでみたが拒否された。
深夜だと歯止めがきかなくなるかもしれないと、小さく呟かれてぞっとする。
依代としての血液を吸われ過ぎたら貧血どころか死んでしまう。そのままヴィーリアに魂を連れて行かれるのは……まだ、嫌だ。
仕方がないので、不承不承、承知した。
しかし、あんな起こされ方をされては、このままでも確実に寿命が縮まりそうな予感を否めない。
予定していた一週間が過ぎてもお父様とお母様は戻らなかった。
屋敷に戻ってくる予定だった日の夕方に、滞在日程がしばらく延びるという知らせが届いた。
帰ったら良い報告ができそうだと、手紙には書かれていた。
△▼△▼△
今朝から空は厚い雲の層に覆われていた。
ところどころに黒い雲が湧き上がっては、あっという間に形を変えて流れていく。空の上は風が速いようだ。空気は湿り気を含んでいて、雨の匂いがする。まだ降ってはいなかったが直に降り出すだろう。
ヴィーリアとわたしとシャールで昼食を終えた後、図書室で資料を探しながら書類の確認作業をしていた。
ヴィーリアはわたしの向かいで優雅に紅茶を楽しんでいる。山間部で初夏の頃に採れたリモール産の紅茶だ。芳醇な香りと、甘味とわずかな渋みがある。ヴィーリアはこの紅茶が気に入ったらしい。香りを吸い込んでは満足そうにしていた。
シャールは、雨が降って実が落ちてしまう前に、ベルたちと湖畔の森へ無花果や柘榴を採りに行っている。
窓の側でも室内は灰暗かった。ランプに灯りを入れていた。
書類を捲る手を止めて、テーブルの横の窓から外を眺める。鈍色の暗い空を背景に、樹々の枝葉が裏返りながら大きく揺れていた。風が朝よりも強くなってきている。嵐がくるのだろう。
「……ねぇ。魂を連れて行ってどうするの?」
陰鬱な空を眺めているうちに、疑問に思っていたことが不意に口をついた。
「気になりますか?」
ヴィーリアが紅茶のカップを置く。長い前髪を斜めに分けて耳にかけていた。その前髪の隙間から、ランプの灯りに揺らめいた深い紫色の瞳が見える。
「それはまあ、ね」
なにも知らないのと、少しでも情報があるのとでは雲泥の差がある。不安の度合いも、覚悟のほども違うというものだ。
「……魂の扱いは手に入れた者によってさまざまです。収集する者や己の力の一部とする者、傍らにはべらす者やより気に入った魂と交換する者、愛玩用、鑑賞用、使役することもあるでしょう……まあ、いろいろです」
「……ヴィーリアは?」
「今、知りたいですか?」
瞳がさらに濃い紫色へと変わっていく。黒と見紛うような深い深い紫色だ。
どこからともなく重厚で甘い香りが漂ってくる。明らかに紅茶の香りではない。この濃密な甘い香りの中でヴィーリアの瞳に見つめられると、くらりとした眩暈を覚えた。
身体の内側を柔らかい生温かいなにかが這うような、あの感覚がくる。魔法陣に口づけられるときよりも、もっと鮮明で強烈だ。
身体は重く沈み、ここにあるのに意識だけはどこかへ飛んでいく。
自分という意識が細かく千切れて、白く光る霞がかかって、それでも意識は連続していて、その欠片が四方に散り散りに乱反射していくような感じ。
不思議と恐ろしさや気味の悪さはない。ヴィーリアの気配をいつもよりも濃く、強く、感じていたからだろうか。
「ミュシャ」
ヴィーリアの声が心地よく鼓膜を震わせた。はっと図書室に引き戻される。
「あ……? わたし、今……?」
甘い香りはもうしなかった。ヴィーリアは頬杖をついて目を細めている。
「どうですか?」
「どうっていうのは……?」
「確かめるために……貴女の魂にほんの少しだけ触れました」
「―――!?」
いや、さらりと言うけど。魂って触れるものなの?
……もしかしてあの感覚って、まさかそういうこと?
「なにか不快でしたか?」
「……ううん」
どちらかというと恍惚とした安心感さえ覚えたが、それは言葉にするのはためらわれた。
「そうでしょうね。そもそも魂が合わなければ、私たちは召喚たとしても渡りません」
「……そうなの?」
初耳だ。あの魔術古文書、本当に肝心なことが書かれていない。さすが店主公認投げ売り価格。あの魔術古文書で召喚できたことが、すでに奇跡なのかもしれない。
「召喚たからと言って誰にでも応じるわけではないので。惹かれる依代を持つ者の召喚にのみ応えます。依代に惹かれるということは、魂が合うということにほかならない」
「わたしの血に引かれたの?」
ランプの灯りを受けるヴィーリアの瞳が、なぜだかうっとりと艶めいた。
「……わずか数滴でしたが、渡る理由には十分なほどに」
傷をつけた薬指を強く掴まれて、滲みでた血を吸われたことを思い出す。もったいないとも言っていた。
わたしの血の依代はヴィーリアをこちらの世界に引いた。
日頃からの、野菜でも、肉でも、魚でも、果物でも地産地消の新鮮採れたて栄養満点食生活のおかげだろうか。大地の恵み万歳! 家庭菜園万歳! 美味しい食事を作ってくれるコック長万歳! 自分の血液ながらも優秀な働きをしてくれたことを、よくやったと褒めてあげたい。
地下室で召喚の儀式を行ったのが十日前のことだ。十日前とは状況が百八十度変わっている。
でも……もしも、もしもわたしの依代に、ヴィーリアが引かれていなかったとしたら……?
「……ヴィーリアが来てくれなかったら、違う『人の理の外の者』が召喚されていたの?」
風が窓枠を打ち付けて、がたがたと不穏な音を立てる。
「まず、その仮定に意味はないですが。……そうですね。違う者が呼ばれていたか、もしくは何者も現れなかったか」
……わたしの血液が偉すぎる!
ヴィーリアを引ける血を持っていたことは運がよかった。
しかし……考え方次第では、そもそも運がよかったらヴィーリアを召喚する事態にもならなかったともいえる。
……わたしは拾われた子だ。男爵夫妻に育てられたのは特大に運がよい。でも、なにかしらの事情があるにせよ、産みの親はわたしを男爵家の門前に置いていった。それは運が悪いというのだろうか?
……考えるほど解らなくなっていく。
でも……ヴィーリアの言う通り、仮定に意味はない。
考えても仕方のないことだ。過去は変わらない。今、最善の選択をすればいい。
目の前にはヴィーリアがいる。もう、今はヴィーリアが召喚されなかったことなど考えられない。今さらほかの『人の理の外の者』などは考えられない。すっかりヴィーリアが傍にいることに慣れてしまった。
これが魂に、魔法陣の紋章を刻印されたということなのかもしれない。
「ヴィーリアでよかったわ。……それで、わたしをどうするつもりなの?」
「……」
ヴィーリアは更に目を細めて、吟味するようにわたしを眺めた。頭からつま先まで品定めをされているようで大変に居心地が悪い。もぞもぞと身じろぎしているとヴィーリアが妖しく哂った。
「まだ時間はありますので……ゆっくりと考えておきましょう」
読み易くするために時間の経過が大きいと思われる転換部に△▼△▼△を入れました。
以前の投稿部分も徐々に見直していきたいと思っています。
読んでいただいてありがとうございます。(*'▽')