7 陽の下で
しばらくの間、湖の周囲を散策してから無花果を収穫した。この辺りの森にはアケビの蔓やプルーンの樹も自生している。アケビやプルーンの実はすでに収穫済みだった。そういえば果皮に付いた白い蝋を磨いた下の、プルーンの皮の色はヴィーリアの瞳の色に似ている。
無花果はまだ収穫に早いものは残しておいた。数日後にまた取りくればいい。ヴィーリアにも無花果を手渡すと、なぜかしげしげと眺めていた。
「無花果が珍しいの? もう熟しているから食べられるわ。よかったらどうぞ?」
「いえ、私は遠慮しておきます。貴女はこの果実が好きなのですか?」
「好きよ。甘くておいしいもの」
「……そうですね。おいしいものは、甘い」
突然に紫色の瞳の濃度が増した。ヴィーリアの片手がすっと伸びて、わたしの左耳に黒檀色の髪をかける。そのまま左耳の縁を長く冷たい指で挟んでなぞられた。指が耳の後ろの魔法陣にかかると、反射的に身体が震えた。昨夜に感じた禍々しい寒気とは違う。もっと異質な感覚。身体の内側をゆっくりと、湿った柔らかいなにかが這い回るような感覚に引きつれる。
「あの、ヴィーリア?」
無花果を両手に抱えているので彼の手を振り払えない。指は魔法陣に円を描くように廻る。
ヴィーリアはそのまま屈んで耳の横で囁いた。
「ミュシャ。今日の分をいただきます」
「え? 昨夜たくさん飲んだでしょう?」
「あれは、召喚時の不足分と力を行使した分ですよ」
「そん……」
許可を出さないうちに、柔らかく冷たい唇が耳を食んだ。冷たい舌と柔らかい唇に皮膚を無遠慮になぞられる。最初はくすぐったかった。そのうちに例えようもない熱と、痺れのような疼きが魔法陣から広がっていく。
「ん……」
ヴィーリアは両腕でわたしを囲い込み腰を引き寄せる。甘噛みされている耳が熱い。
「ヴィーリア……もう……」
身体の内側から浸食されるような疼きと熱が限界に達して耐えられなくなる前に、頭を動かして唇から逃れようと試みた。
ヴィーリアの身体は冷たい。ふっくらとした唇も、腰を引き寄せる腕も、抱き込まれた胸元も、服の上からでもわかるほど体温を感じない。人形に抱えられているようだ。それがかえって熱を帯びた身体には心地よく感じられた。
耳元でくぐもった笑い声がして、ヴィーリアが顔を離す。白銀色の髪が頬に触れてから遠くなる。
「ミュシャ、大丈夫ですか?」
わたしの赤くなった顔に気付くと、意地悪そうに微笑んだ。心の内を見透かされたような気がして、わざとつんと横を向く。
「なんのこと? 貧血なら心配ないわ」
「それはよかった」
哂うヴィーリアの唇には赤い血の染みが小さく残っていた。わたしが舐めたわけでもないのに、昨夜の記憶がよみがえる。口の中いっぱいに鉄の味が広がった。
「唇にちょっとだけ残っているわよ」
哂われた仕返しに、幼い子供に諭すような物言いをする。ヴィーリアは目を細めて、ああ、と言った。それからわたしの瞳を捕えたまま親指の腹で唇を拭う。赤い舌でそれを舐めとった。
ぞくりと肌が粟立つ。
世界に祝福されたようにこんなにも艶やかで美しい。それなのに血を舐める目の前の者は、人ではないのだと改めて実感する。爽やかな眩しい陽の光の中にいても、ヴィーリアは朔の日の暗闇から呼び出された。彼の背後には深淵が顎を開いてわたしを待っている。
「……そろそろ帰りましょう」
美麗で豪奢な装飾が施された美しい箱は、見る者を魅了し誘惑する。箱の中身はもっと素晴らしいから開けてごらんなさい。と、蓋を開く者を誘うために。しかし、物語においてはその箱はたいてい禁忌の箱だ。絶対に箱の蓋を開けて中を覗いてはならない。
―――もう、遅いけど。
箱を押しやるように、ヴィーリアにくるりと背中を向けた。
……だけど、これ以上堕ちることなんてあるのだろうか?
昼近くに湖から戻ると屋敷の表が騒々しい。何事かと急いで正面玄関に向かうと、お父様が馬車に乗りこむところだった。急ぎの知らせを告げる早馬らしき使いもいる。
「お父様」
声をかけると馬車のステップに足をかけたまま、お父様はこちらに振り向いた。
「おお、ミュシャ。ヴィーリア殿も」
「どちらへお出かけですか?」
「いや、実はリモール山脈の麓の炭鉱で変わった鉱石が出たというのだ。確認に行ってくるよ」
お父様はこころなしかそわそわとしている。
「まあ! どんな鉱石なの?」
ヴィーリアの昨夜の仕事が早くも実を結んでいる。
「いや、それがまだ、確かではないのだ。……おまえにも糠喜びはさせられない。帰ってから詳しく話そう」
「男爵様。私もご一緒させていただいてもよろしいですか?」
「それはありがたい。アロフィス侯爵様のクリムスの御領地は確か、翡翠の産地でしたな?」
「はい。なにか私でもお役に立てることがあるかもしれません」
ヴィーリアの提案にお父様は一も二もなく頷いて、二人は早馬とともに炭鉱へと出発した。
夕刻になってもお父様とヴィーリアは戻らなかった。
夕食の席でお母様は気が気でない様子を隠せなかった。二年前に伯爵から、莫大な返済とシャールとの婚礼を要求されて以来、お母様はお父様と一緒に金策や事業に奔走している。もちろん、わたしやシャールも手伝っている。しかし、わたしたちは両親の補佐くらいにしか役に立てなかった。
貧乏暇なしとはよく言ったもので、忙しく動き回っても、それでも途方もない借財は来月までにはどうにもならない。精神的な疲労も積もっているこの時期に、炭鉱からの知らせが届いた。
見つかったという鉱石が、もしも、もしも……。期待が大きいほど落胆も大きい。でも、期待せずにはいられない。そんな様子が見て取れた。
「お母様、きっと大丈夫よ」
今すぐにでも本当に大丈夫だと、すべてはうまくいくと、お母様とシャールに教えてあげたい。
「そうよ。お姉さまの言う通りよ。お姉さまは昔からそういう勘はよく当たったじゃない」
シャールが無邪気に笑う。
お父様とお母様は、ベナルブ伯爵との婚礼をシャールにはっきりとは伝えていない。
伯爵とは歳が一回り以上も離れている上に黒い噂がある。そんな伯爵から求婚されたことを、娘にどうしても伝えられなかった。そして、もしかしたら伯爵の気が変わるかもしれない、もしかしたらすべて返済できるかもしれない、もしかしたら……。と、仮定に一縷の望みをつないでいた。
お父様もお母様も善人だ。だが善人というだけではベナルブ伯爵には通用しなかった。
シャールはうすうすわかっていた。『貴族の結婚とはそういうもの』と微笑んでいたから。
「ええ……そうね。……そう信じましょう」
お母様は静かにそっと息をついた。
深夜に馬車の車輪が小石を弾く音や、馬のいななきがして浅い眠りから目を覚ました。玄関ホールが騒々しくなる。お父様とヴィーリアが戻ったようだ。
燐寸を擦って、脇の本棚の上に置いたランプに灯りを入れる。
本棚に挿しておいた黒い背表紙の魔術古文書を手に取った。
この魔術古文書を手に入れたのは偶然だった。
お父様とリモールの町の書店で、農業用の耕作機の資料を探していた。そこでたまたま目に留めたものだ。興味本位で開いてみたが、頁を捲るうちに購入を決めていた。書店の店主は値札のついていない魔術古文書を眺めて訝しそうに首を傾げた。それから投げ売り同然の価格を提案した。手持ちのお小遣いで買える金額だった。なんとなくお父様には購入したことを秘密にした。
しばらく魔術古文書の頁を読むともなく捲っていると、部屋の扉が遠慮勝ちに叩かれる。
「どうぞ」
静かに扉が開かれたそこにはヴィーリアが立っていた。足音もなく部屋に入り、寝台に深々と腰をかける。灰暗いランプの灯りに照らされたヴィーリアの紫色の瞳は、闇の中に溶けきれなかった猫の瞳のように光っていた。
「来てくれると思っていたわ」
「……寝付けなかったのですか?」
「馬車の音で目が覚めたの。心配してくれたの?」
「……気にしていると思いましたので、お知らせを少しだけ」
「こんな夜中まで大変だったわね」
「貴女こそ私の心配ですか? ……安心なさい。私がしくじるはずがありませんよ」
ヴィーリアは腕と長い足を組んだ。態度こそ尊大だが、褒めてもらいたがっている子どものようだった。昨夜の少女の容姿と重なって、思わず笑いがこみ上げる。大きな力を操る人の理の外の者。人間ではない。畏怖の対象のはずなのに、それなのになんだか可愛らしく見えてしまう。
ヴィーリアは鉱石が発見された炭鉱での、抗夫たちや技師、お父様の興奮ぶりを短くまとめて話してくれた。
「さあ、詳しいことは明日です。もう眠ったほうがいいでしょう」
そう言うと立ち上がった。用意された客間に引き上げるのだろうか? 昨夜のこともあるので一応、きちんと確認をしておきたい。
「……ヴィーリア?」
「なんですか?」
「今日は客間で眠るの?」
「……それはお誘いですか?」
「ん?」
片膝が寝台にかけられた。寝台が軋む音が、静かな部屋でやけに大きく聞こえた。身体を起こしているわたしを寝台についた両腕が挟みこむ。ぐっと顔を寄せてきて、深い紫色の瞳で覗かれる。白銀色の髪がわたしの頬に触れそうだった。至近距離で視線を浴びてしまう。
「ちょっと、なに?」
いきなり顔を近づけられたら驚くでしょ!? それに近い!
とっさに上半身を後ろに引くと寝台の背もたれに身体がぶつかった。両手を顔の前に広げてヴィーリアの瞳を遮り、横を向く。
「昨夜のように私と一緒に寝たいのなら……」
「違うよ!? なんでそうなるの?」
最後まで言わせない。広げた両手をそのまま突き出して、口をふさいだ。
「……」
「……」
短い沈黙の後にヴィーリアがわたしの両手首を掴んで離す。なんだか恥ずかしくて顔を見ることができなかった。
「からかいがいがありますね」
艶めいた微笑みのヴィーリアはわたしの左手を開き、薬指の先に口づけた。浅かった傷からはもう血は出ない。唇は冷たかった。本当に性質が悪い。心臓に悪いからそういう冗談は止めてほしい。
「……ほら、また。淑女がそんな顔をして」
「……ヴィーリアのせいでしょ?」
「それは光栄です」
わたしの指から手を離すと立ち上がる。
「では、良い夢を」
「……ヴィーリアも」
「私は夢を見ません。……昨夜も一緒に寝てはいませんよ。残念ながら」
わたしを見下ろす口の端が上がる。
夢を見ないとはどういう意味なのか。
「……じゃあ、どこで寝たの?」
ヴィーリアは長い指を唇に充てて、片目をつむる。
「秘密です」
それから、わたしの髪を一筋掬って口づけた。
「おやすみなさい。ミュシャ」
「おやすみなさい。……ありがとう。ヴィーリア」
返事の代わりに指が鳴らされた。ランプの炎が消える。真っ暗な静寂が戻った部屋に、扉が静かに閉まる音がした。
……いろいろと暴走しないかハラハラしてます(;^ω^)
読んでいただいてありがとうございます(*'▽')