42 殻の外
三日三晩、昏々と眠り続けて目を覚ましてから十日が経っていた。
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目を覚ましてからの最初の五日間は寝台の上で過ごした。
大事をとったのと、ベルやブランドたちにこれ以上の心配をかけないためだ。
その間に熱は、上がったり下がったりを繰り返した。しかし、それほど大きな変動はなく、ふり幅は少なかった。身体がだるくなることも、力が入らなくなるということもなかった。
横になっているだけだったのでかなりの時間を持て余してしまった。昼に眠ってしまうと夜に眠ることができなくなる。昼間はベルに図書室から持ってきてもらった本を読んでいた。あとはただ、寝台の上をごろごろと転がりながら過ごした。
ヴィーリアの仕事は、ほぼ方がついたとは言っていたが、毎日のように商会や鉱山などの事業関係者が訪れていた。とても昼間にわたしの話し相手をしているような時間は取れなかった。
「お嬢様が眠っていた三日間は、どなたの訪問もお断りされていました」と、ベルが教えてくれた。その三日間分の仕事のしわ寄せもきているようだった。
夕食が済むとヴィーリアはわたしの体調を診にきていた。ぱちんと指を鳴らして淹れてくれた紅茶を二人で飲んだ。紅茶の淹れ方は、もうベルにも劣らない。
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たっぷりと休養をとったために、最近の体調はとてもよい。身体の熱も安定してきている。
鉱山でヴィーリアに魔術をかけられて眠りにつく前には、目が覚めたら、なにかが変わってしまうのかもしれないという思いを抱いた。それは、たぶん、恐れだった。自分では気が付かない間に、わたし自身のなにかが変わってしまうかもしれないという恐れ。
そして……目が覚めた今。
実際に、変わったことはいくつかある。
まず。
食欲が増した。
なんだか食べても食べても、まだまだ食べられるのだ。
今まではパンは一個で十分にお腹を満たしてくれた。おかわりをすることはほとんどなかった。しかし最近では毎食、パンのおかわりをしている。
ケインはわたしの食欲があるのを喜んで、張り切ってパンを焼いてくれた。ケインの焼くパンは香ばしくて、小麦の甘みも感じられる絶品なものだからついついベルにお皿を渡してしまう……。
三回目のおかわりをした後にベルに小声で「お嬢さま……。ウエスト……」と囁かれた。ベルはヴィーリアに贈ってもらった大量のドレスが着られなくなることを心配していた。
わたしが目を覚ました直後は、食欲があることをとても喜んでいたのに。……うう。
ヴィーリアによれば食欲が増したのは一時的なものだろうということだった。魂を安定させるまでは、身体が大量のエネルギーを必要としているから、ということらしい。
それならばドレスやウエストの心配はせずに今のうちにたくさん食べておこう。大丈夫よ、ベル。たぶん。
それと。
以前に比べると感覚が鋭くなったように思う。これはそう感じるということだけど。
いつもではないが、ふとした瞬間に大気の流れだとか天候の変化を感じることがある。
今までも例えば、湿気を含んだ空気や雨、雪の降る前の匂いなどは解った。でも、それとは明らかに違う感覚だった。大げさにいうと、わたしを取り巻く世界が大きく動いていることが解る感覚。
大気が流れて雲が動き、水が落ちて大地が震える。それが、解る。
言葉にするのはなかなか難しいけど、そういったこと。
これは魔力を自覚した影響らしい。
あとは。
ヴィーリアの思考や情動が伝わるときの香りを感じることがなくなった。
わたしの魂にヴィーリアの魂がより濃く混ざり込み、人よりもヴィーリア側……つまり人の理の外の者の影響を強く受けたために、思考や感情を香りとして受信していたことが、そのままの思考や感情に近い形で伝わるようになったためではないか、とヴィーリアは推測していた。
考えていることがはっきりとした言葉で伝わってくるわけではない。でも、確かに以前よりはヴィーリアの澄ましている表情の下に隠れた感情が解る……ようになってきている、かもしれない。
もう、嵐の雷の夜のようなあんなにも恥ずかしい思いはしなくても済むはずだけど……。わたしの強い思念や情動は、やっぱりヴィーリアには伝わっているはずで。
あまり……深く考えることはやめよう。精神の衛生上よくないと思う。うん。常に平常心。
それから。
毎朝の依代の徴収はなくなった。
もともと、わたしの血はヴィーリアをこの世界に繋ぎ止めるために必要なものだった。
今はその役割をヴィーリアに混じったわたしの魂が果たしているらしい。体温のほかに、このこともわたしの魂がヴィーリアに与えた影響だった。
「大きな力を使ったときや、そうですね……まあ、たまには嗜好品として遠慮なくいただきますが」と爽やかに微笑んでいたけど……。
そして。
わたしにとって……いや、わたしとヴィーリアにとって?
一番の大きい変化は、ヴィーリアがわたしの本当の婚約者になった。ということだった。
もしかすると気が付いていないだけで、もっと変わったことがあるのかもしれない。でも、気が付いていないなら、変わっていても、変わっていなくても同じ。どちらでも構わない。そう、今は思っている。
「カードに集中しなさい」
「してるつもりなの」
「つもりではありません。するのです。言い訳はしない」
「……はい」
今、カードを使っての魔力の使い方の講義を受けている。
訪問客もだいぶ落ち着いたので、ヴィーリアは午前中の時間を取れるようになった。
「……何度も申し上げたでしょう。頭で考えるのではありません」
「先視や占術の要因は観察です。周囲をよく観察し、状態を把握してください」
「魔力を集中させ、満たし、張り巡らせて状況を感じとるように」
「感覚が大切です。そうですね、想像してください……グラスから水を注ぐようにカードに魔力を流すのです。……感性の問題でしょうか?」
「はぁ……。先は長いですね」
かなり厳しい指導の上に、ため息までつかれている。
……うう。わたし、褒められて伸びる型なのに。
『魔術師として契約を交わしたからといって、すぐに魔術を使うことができるわけではありません』という意味を、やっと理解した。
魔力は感覚で制御する。制御できなければ、術の発動ができない。魔力を多く持っている場合は術を暴走させてしまうこともある。だから通常、魔術師候補は魔術師として契約をしてからは、公国軍魔術師団の下部組織として存在する、私設魔術師団を持つ貴族の家門で修行をする。アロフィス侯爵家付きのレリオがこれに当たる。
そこで一人前の魔術師として認められれば、公国軍への入団もできるらしい。
わたしは異分子だし、そんなことは望んでいないからもう少し優しく教えてくれてもいいと思うけど。
「私の婚約者であり、弟子であるならばそれくらいは身につけていただかないと」
と、いうことだ。
口角が上がっている。……絶対に楽しんでやっている。
「貴女が先視を使えるようなりたいと望んだのですよ」
それは、その通りです。
だって魔術師として先視や占いができたなら……。
その年の穀物や果実の生育具合や天候がわかるようにもなる。もし、不作の年なら、事前に対策を講じることもできる。もう、五年前のようなことは繰り返さなくても済むはずだ。
それに魔術が使えるなんて、それだけでも面白そうでしょ?
だけどこのことは誰にも話すつもりはない。
ヴィーリアも有名な魔術師を輩出するアロフィス侯爵家の次男でありながら、魔術は使えないということになっている。
それから厳密にいうと、わたしは魔術師とは呼べないらしい。
ヴィーリアと魔術師としては契約を交わしていない。混じった魂の影響で、わたしの魔力の使い方はヴィーリアに近いということだ。簡単に説明をしてもらったところ、わたしは自分と契約を交わしているような状態にあるということだった。
ロロス司祭様が言っていた『もう契約は必要ないかもしれないね』とは、このことだったみたい。
魔術師でないなら、なんと呼ばれるのだろうか。
魔……人、は、なんかイヤ。それなら……魔……女、とか? 魔女。うん。これなら、かっこいいかも。
「頑張るわ」
そう答えると、ぽんと頭の上に置かれた温かい手が、くしゃりと優しく髪をかき混ぜた。
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「ミュシャ! 具合はどうだ? 心配したぞ。もう大丈夫なのか?」
「ミュシャ! ただいま! 元気なのね? 大丈夫なのね?」
公都からお父様とお母様が帰ってきた。
レリオを通して近況をやり取りしていたが、やはり顔を見るまでは安心できずに心配をしてくれていたのだろう。
「おかえりなさい! お父様! お母様! わたしはもう元気よ! シャールたちはどう? 公都はどうだった? お仕事はうまくいったの?」
「本当にもう大丈夫なんだな? ……話したいことはたくさんあるが、まずは……ヴィーリア殿、このたびのことは本当に感謝いたします。ミュシャのことも。アロフィス侯爵家とのことも」
お父様とお母様がヴィーリアに丁寧に礼をした。
「いいえ。礼には及びません。私は婚約者として当たり前のことをしたまでですから。お役に立てたのなら幸いです」
ヴィーリアはいつも通りの完璧な婚約者の、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
その夜は久しぶりに夕食の席が賑やかだった。
シャールのこと、フェイやノルンのこと、公都の話やアロフィス侯爵家のこと、ベナルブ伯爵のことなど、話題は尽きずにいろいろな話を語り聞かせてくれた。
お父様とお母様は終始笑顔だった。
「お父様、シャールの気持ちはどうだったのですか?」
シャールとベナルブ伯爵、二人のことは特に気にかかっていた。
「シャールも憎からず思っているようだが……。シャールはノルンの下であと数年は学びたいそうだ。シャールはまだ若い。伯爵様も素直な青年だ。……ただ、まだお互いに時間がほしい。伯爵様がどうしてもとシャールを望むなら、それなりに頑張っていただかないと、な」
お父様が「まだまだシャールは嫁にはやらん」とばかりに、にやりと笑い、含んだ物言いをした。
お母様もその通りと肯いた。
この様子なら伯爵はかなりの努力が必要だろう。今までのことを考えたら、それくらいはぜひとも頑張っていただきたい。それにしても……シャールは意外と相手を振り回す型かもしれない。
まあ、なにはともあれ、絡まった糸は順調に解けているようだ。
シャールとベナルブ伯爵のことは、後は本人たち次第。
これから先は……二人の物語なのだから。
「さあ、いよいよ本格的に大事業が始動する。明日からはまた忙しくなる。ヴィーリア殿も、よろしくお願いしますぞ」
お父様が嬉しそうに笑った。
読んでいただいてありがとうございます(*‘∀‘)
次話が最終話となります。
本日、投稿予定です。
よろしくお願いします。