40 籠った熱
「本当に帰った、のね?」
「そのようですね。当分の間はおとなしくしているでしょう」
ヴィーリアのその言葉に身体がふっと弛んだ。知らず知らずのうちに緊張して、強張っていたようだ。
これで神殿側……ロロス司祭様たちとは一応、区切りがついたはず。
そう思ったら……急に気が抜けてしまった。
途端に身体がずしんと重くなったように感じる。膝がかくんと抜けてソファに腰が落ちると、そのまま 深く沈み込んだ。
「ミュシャ……」
隣に腰を下ろしたヴィーリアに頬を両手でそっと挟まれた。熱で上気した頬にかぶさる冷たい手のひらが心地よい。
深い紫色の瞳は気遣うように覗き込む。
二人きりになると……意図せずに告白などしてしまったことをいやでも意識してしまう。
ましてや顔が近い。恥ずかしいし、その上、気まずい。
ヴィーリアは……わたしが口を滑らせたことなど気にもしていないのだろうか。
だけど……。今はそれどころじゃない。
「大丈夫」
かろうじてそう答えたものの、体調は急変していた。
熱はさらに上がったようだ。身体の芯から燃えているように熱い。
ブラウスの高襟が息苦しく、窮屈に感じる。
身体にだるさを覚えると、すぐに腕は鉛の枷をつけられたように重くなった。力も入らない。身体を支えているのもやっとだった。
なんだか、だんだんと頭もぼんやりとしてくる。
「……」
ヴィーリアは頬から手を離した。わたしとソファの間に腕を差し込むと、そのまま身体を抱え上げる。横抱きにして膝の上に座らせた。
両腕でしっかりと囲われ、胸の中にすっぽりと収まった。
身体がとても熱い。吐く息さえも熱いのがわかる。
息苦しさに耐えられなくなり、ブラウスの高襟の釦を外すために腕を上げようとするが、重くて動かすことができなかった。
それなのに、するりと鎖骨の辺りまでの釦がいっぺんに外れる。
呼吸が楽になった気がした。
「これでいかがですか?」
小さく肯いた。
ヴィーリアもいつもすぐにタイを弛める。察してくれたようだった。
「わたし……どう、しちゃったの」
口を動かすことも簡単ではない。
「魂が混ざり合ったことによる影響でしょう。貴女の魂は、私による干渉を大きく受けるはずですから」
『それはまだ、人の魂なのかな? それとも悪魔の魂?』
背に回された腕に、ぽんぽんと調子よく肩をさすられる。
もう片方の手はわたしの髪の中に埋まり、長い指だけが髪を梳くように動かされていた。
「辛いですか?」
「だい、じょうぶ」
どこも痛くはない。気分も悪くはない。ただ身体が重くて、とても熱くて、力が入らない。だるいし、頭はぼんやりとしているけど。
ヴィーリアの胸にぐったりともたれかかり、わたしの身体のすべてを預けていた。
冷たさが気持ちいい。触れているすべてから熱を吸収されているようだった。
薄く開けた瞼の隙間から、ぼやけて見えた紫色の瞳にわたしが映っていた。
もはや瞬きをすることさえ億劫に感じる。
「ヴィーリア……。きてくれて、ありがとう」
「そのせいで……こうなっているのだとしても?」
「だって……」
嬉しかったから。
あの領域から―――ロロス司祭様から逃げ出して、絶対に戻りたいと思っていた。
でも、方法が解らなかった。……ほんの少しだけ、もう、戻れないかもしれないとも思ったのに。
「申し上げていたはずです」
回された両方の腕に力が入り、さらに強く抱きしめられる。わたしを覆うようにかぶさると、ぐっと耳元に顔を寄せた。冷たくて柔らかな唇が左耳の縁に微かに触れる。
「神殿に契約を解かせる気も、貴女を手放す気もありません、と。貴女は……永遠に私のものです」
そう囁くと、白銀色の髪がわたしの顔にさらりとかかった。
……ヴィーリア。
連れ戻してくれたから、また会えた。
本当は忘れたくない。
ぼんやりとした、回らない頭でそう思う。
もう、瞼でさえ重い。目を開けていられなかった。
深い紫色の瞳も艶やかな白銀色の髪も、灰昏い闇に溶けてなにも映らなくなる。
黒いシャツの滑らかな生地越しに、頼もしくて大きな胸に包み込まれていた。背中に回された力強い手の感触に安堵する。
護られている。そう感じることができる。
ヴィーリアの胸の中のわたしは孵化を待つ卵のようだと思った。温められているのとは逆に熱を冷ましてもらっているけど……。
仔猫が手のひらに頬をすり寄せるように、額を黒いシャツの胸に寄せていた。
熱のせい。すべては熱のせいだから。
今だけだから。
「髪が……。少し待ちなさい」
シャツの釦が一瞬ですべて外される音がした。それと同時に、前身ごろが大きくばさりとはだけられる。
熱い額と頬が、瞼が皮膚に触れた。冷たい肌は白磁器のように滑らかだった。
ふと、わたしの寝台にヴィーリアがいた朝のことを思い出す。
釦はほとんど外れていてシャツがはだけていた。わたしの髪が引っかからないように、外してくれていたのかもしれない。
「こんなにも従順な貴女は珍しい。ですが……」
「……今だけ、だから」
ヴィーリアに触れているのに、それだけでは治まらなかった。張り付くような冷たさを感じた肌も、熱が移ってすぐに温くなってしまう。
熱い。熱くて、熱くてどうしようもない。
泉にこんこんと湧き出る水のように、熱が身体の奥から湧いてくるようだ。熱の発散を妨げて、肌にまとわりつく衣服もできることならすべて脱ぎ棄ててしまいたい。でも、そうするわけにもいかない。
熱を意識するとさらに……身体の熱が上がっていく。悪循環だ。
「ミュシャ、私に移しなさい」
移す……? 熱を? これ以上、どうやって?
冷たく長い指が顎にかかった。瞼を開けられないまま、少し持ち上げられる。
さらさらと耳元で音がした。白銀色の髪が頬を滑り落ち、耳の横を流れていく。
冷たくて柔らかくて、しっとりとした……なにかが、わたしの唇に触れた。
この感触は知っている。唇だ。ヴィーリアの。
それはそっと触れてから、ゆっくりと重なっていった。
熱がこもってしまった身体に、合わせられた唇から冷気が吹き込まれた。その冷たさは粉雪のようにさらりとしていた。
実際のところは冷気を吹き込まれたのか、熱を吸い取られていたのかはよく解らなかった。両方なのかもしれない。
冬の始まりに降る粉雪のような湿度のない冷たさが、爪先や指の先に、頭の天辺までにも急速に広がって熱を奪い、わたしを冷やしていく。
秋桜の高台での強引な口づけとはまったく違っていた。
どのくらいそのままでいたのだろう。
ほんの少しの時間だったようにも、とても長かったようにも思えた。
身体の芯から燃えているような感覚が鎮まっていくと、肌の温度が下がり始める。身体が冷めていくのがわかった。
柔らかな唇が離される。
「今は……眠りなさい」
長い指が瞼にかかる。
『お嬢さんが、まだ、人ならね』
どこからかロロス司祭様の声が聞こえたような気がした。
やがて卵の孵る時期がくる。殻を破って外へと出たなら。
わたしは……なにかが変わってしまっているのだろうか?
眠りの魔術にかけられて深い眠りへと落ちる前に、ふと、そんなことを思った。
△▼△▼△
「お嬢様、まだ無理はなさらないでください」
寝台から起き上がろうとするとベルに止められた。
「もう大丈夫よ」
「お嬢様の大丈夫は大丈夫ではないと、ヴィーリア様から言い付かっておりますので。それについてはわたしも同感でございます」
ベルがそこは譲れないというようにぴしゃりと言い切った。
そこまで手が回っているとは……。わたしの『大丈夫』は非常に信頼度が低いようだ。
「でも……寝ているだけなのは退屈なの」
「お嬢様には休養が必要だとヴィーリア様は仰っておりました。……お疲れから熱を出されたのですから……ゆっくりとなさってください」
ベルは声を詰まらせた。
そんな顔をされたら……なにも言えない。ベルにはいつも心配をかけてしまう。
……ごめんね、ベル。
あの夜――—ヴィーリアはわたしを抱えて屋敷へと戻った。
それからわたしは三日三晩、昏々と眠り続けていたらしい。
ヴィーリアは屋敷の皆に「疲労からの発熱です。私が処方した薬を飲ませました。しばらくは目を覚ましませんが、心配は要りません」と説明をしたようだ。
ヴィーリアは公都で医術を学んだことになっている。それは皆も知っていた。ブランドたちは心配をしながらもわたしの様子を見守ってくれた。
そして、アロフィス侯爵家からたまたま書類を届けに屋敷を訪れたレリオに、公都にいるお父様たちに同様のことを伝言したとブランドに告げていた。
わたしが眠り続けた三日の間、ヴィーリアは傍を離れずに献身的に看病をしていたと、ブランドとベルから聞かされた。
そして四日目の朝に、つまり昨日の早朝のこと。
わたしは目を覚ました。
読んでいただいてありがとうございます(*‘∀‘)




