38 光と闇
焦げ茶色の瞳を遠慮なく睨み返した。
「あれ……? 驚かないの? 意外と豪胆だね」
驚いていないわけではない。それよりも、ロロス司祭様に対する怒りと苛立ちのほうが強かった。
「お嬢さんを相手にするにはセイン君にはまだ荷が重かったね。……まあ、後学のためにはなったかな」
わたしの怒りなど気にも留めていないように、セイン見習い司祭様の姿をしたロロス司祭様が唇の両端を上げた。「ね?」と小首を傾げて同意を求める。
姿形はセイン見習い司祭様なのに。
物怖じしない眼差しや口調、仕草はロロス司祭様そのものだった。
「僕はお嬢さんよりもちょっとだけ長く生きてるし、光に……輝主様にも近い場所にいるから、お嬢さんよりも見えていることが少し広い。考え方の違いはあるけど、人々の幸福を願う気持ちは一緒だよ。もちろんお嬢さんの幸せも願っている。だから、正しい道に戻らないといけない。……今は、理解できないかもしれないけどね」
「解りたくないわ。だって、今のわたしは……“今”生きているのよ」
前世だろうが来世だろうが、そんなものは関係ない。
司祭様が教義を大切にしようとすることは……解らなくもない。でも、一人一人の今の人生だって大切なはずだ。そうでなければ懸命に生きる意味がなくなってしまう。
「そんなに……あの悪魔がいいの?」
ロロス司祭様がセイン見習い司祭様と同じように眉を下げて、同じようにわたしを憐れむ表情をした。
きらきらとしたものがロロス司祭様の足元に漂いはじめていた。ふわふわと舞いながら、瞬く間に数を増していく。
それは金色の光の粒だった。
光の粒は一瞬にしてロロス司祭様の足の先から頭の天辺までを包み込む。そして渦を巻きながら立ち昇った。
金色の光が消えていった跡には本来のロロス司祭様の姿があった。
強めに波をうった濃い金色の髪を肩までたらしている。黄緑色の瞳はきらきらとやけに眩しい。
顎に指を置いて腕を組み、首を傾げていた。瞳は探るように細められわたしを観察している。
「やっぱり影響があるのかな。魅了じゃないそれ。魂が……繋がってるでしょう?」
「……」
答えるつもりはない。
「否定をしないのは肯定とみなすよ。この領域で気配を感じたからおかしいとは思ってたけど……そんなこともあるんだね。よっぽど相性がいいんだ。執着されるわけだよね。……でも、大丈夫。ここに存在できるということは、お嬢さんはまだ“人間”だから」
『まだ“人間”』って……。
そんなことは考えたこともなく、当たり前にそのつもりだったけど……。
魂が混じるとは、そういうことだったのかと今さらながらに理解する。
ロロス司祭様は一歩ずつ、距離を詰めてくる。それに合わせてわたしは一歩ずつ、後ろに下がった。
「こちらにおいで。僕と一緒に行こう」
ロロス司祭様はもの柔らかに優しく微笑んだ。そして、滑らかな白い手を差し出した。
「それ以上、近寄らないで。契約は解除しないわ。何回言えば解ってくれるの? 契約者が解除を望まないなら手を引くしかないって言っていたじゃない」
「まだ間に合う。……僕は迷っている魂を見過ごすことはできないよ」
「だったらどうするの? 強制的に輪廻の輪に戻すの? わたしが願ったことをすべてなかったことにして? 今の“わたし”を途中で終わらせて? ……そんなことをしたら条約違反じゃないの?」
「強制的じゃない。違反案件でもない。お嬢さんが僕の手を取ってさえくれれば、ね。……きっとそれでよかったと思うはずだ」
きちんと話し合うことさえできれば、納得してもらえると思っていた。でも……ロロス司祭様には、それは通じないかもしれない。
だって、わたしの話を聴く気がまったくない。
ロロス司祭様は誰かに似ていると思った。もちろんヴィーリアのことだけど。
二人の外見はまったく違う。金と銀。白と黒。正反対だ。それでも、醸し出す雰囲気は似ているように感じていた。それはやっぱり気のせいではなかった。
理念のために平然として事を為そうとする姿勢が同じだ。ロロス司祭様は人の理のために。ヴィーリアは魂を対価とした契約のために。
だけど……ヴィーリアの方が断然いい。わたしの話にきちんと耳を傾けてくれた。狭間で迷い、悶える人間の弱さを美しいと言ってくれた。まあ、少し……倒錯気味に瞳が蕩けていたのは否定できないけど。
ロロス司祭様は……その弱さを許さない。
「絶対に手は取らない」
断固として拒否する。
「あのときもそうだった。勘もいいよね。予言系統なのかな?」
ロロス司祭様は前と同じに苦々しく微笑んだ。それでもわたしに伸ばした手を引っ込めようとはしなかった。
あの手に触れてしまったら終わり。
前回はヴィーリアが送った気配でロロス司祭様は引いてくれた。しかし今回はそれに期待することはできない。
どうしたら……ここから出ることができるのだろう。
こんなことになるのならヴィーリアにいい顔はされなくても、レリオに無理をいってお願いしてでも、図書館に通っておけばよかった。
一見してなにも関連がないような題名でも神聖術や魔術関連の本なら、なんでも読み漁ってくればよかった。
もしかすると、なにかちょっとしたヒントくらいはあったかもしれない。
今度、正式に仕事としてレリオを呼び出す許可をアロフィス侯爵家にぜひとも申請したい。レリオは受けてくれるかどうかはわからないけど、誠意を込めてお願いしてみよう。
だから……どうにかしてここから出なくては。
ふいに、左手の薬指に熱さを感じた。
指輪が熱をもっていた。そのせいで薬指が焼けるように熱くなる。
薔薇の蕾のようにカットされた紫色の緑柱石から、突如として閃光が放たれた。
「!?」
強く光ったのは一瞬だけだった。しかし、紫色の緑柱石は輝きを保ち、光を放ち続けていた。強く輝いたかと思うと弱くなり、また強く輝くことを繰り返す。
なに……これ?
くらりとした眩暈を覚えた。途端に目の前がぐるぐると激しく回り出す。首の後ろの皮膚が強くつれたように感じると、じりじりと痺れはじめた。……気持ちが悪い。
立っていられなくなり、後ろによろけた。
「お嬢さん、僕の手を取って。早く!」
ロロス司祭様がわたしを急かす。さらに手を伸ばしてくる。
「触らないで……」
なんとか倒れずに踏みとどまった。声を絞り出し、かすれた声でロロス司祭様を拒む。
指輪はまだ熱い。紫色の緑柱石も明滅を繰り返す。
左耳に刻印された魔法陣に、心臓が強く脈を打ったようなどくんとした衝撃が突き抜けた。今まで感じたものとは比べものにならないほどの熱と疼きが灯る。それが一気に全身に広がった。足の爪の先まで熱い。
身体の内側を柔らかな、温かいなにかが這い回る感覚がひどくなまなましい。今は意識だけのはずなのに。
その意識も細かく千切れた欠片になって、でも連続して繋がっていて、四方八方に乱反射して、また収縮しては飛び散っていく。
以前に図書室で感じたあのめちゃくちゃな感覚。でも、あれ以上にもっともっと鮮明で、もっともっと鮮烈だ。目の前が白く霞んで空間以上に真っ白になる。
もう、限界だった。立っていられない。
次の瞬間、膝をつく寸前だったわたしを腰から掬い抱き止める冷たい腕があった。
「神殿は昔から変わらないようですね」
頭の上で響いたその声は……。
すぐさま見上げる。深い紫色の瞳と目が合った。
腰に回された冷たい腕を両手でぎゅっと、かたく掴む。
「遅くなりました。……大丈夫ですか?」
耳の横で囁く。
ただ、うんうんと肯いた。
わたしを引き上げて立たせると、傍らに強く抱き寄せる。
でも。
「……どうして?」
それしか言葉が出てこなかった。
だって、これって……まさか。
ヴィーリアが現れた途端に眩暈も、焼け付くような指輪の熱も、首の後ろのひきつれも痺れも、紫色の緑柱石の光の明滅も弱くなり、徐々に治まりはじめていた。周囲に散乱しては収縮するあの意識の感覚と、身体の内側を柔らかくて温かいなにかに這い回られるような違和感と疼きも消えていた。
だけど、灯った熱はまだ退いてはいない。
「貴女の魂に触れました」
そんなことをしたら。
「……どれだけ混ざったのか私にも解りません」
自嘲するように口角をわずかに上げた。それからわたしの額に唇を落とす。
前髪越しなのに、唇は冷たいのに、口づけられている箇所が熱い。じんと痺れてくる。ただでさえ熱が退いていないのに、ロロス司祭様の目の前なのに。さらに頬が熱くなる。
額からゆっくりと唇を離すと、ヴィーリアはロロス司祭様に鋭い視線を定めた。射るように見据える。
「これ以上は条約違反です。……私も黙っているわけにはいきません」
紫色の瞳が濃く深く色を増していく。
ロロス司祭様は額に手を充てて、うんざりとしたようにかぶりを振った。
「あーあ、まったく。悪魔の執着は聞きしに勝るよ。……それ、これからどうするつもり?」
「神殿には関係のないことです」
「そう……でもないかな? 興味があるよ。悪魔と混じった魂の行く末。今はここに引き寄せられたようだけど……それはまだ、人の魂なのかな? それとも悪魔の魂?」
黄緑色の瞳と目が合う。
そんなことを訊かれても、わたしだって解らない。ただ……とても熱い。
「さあ? どうなのでしょう? 教える気はさらさらありませんが。それにしても……相も変わらずに愚かですね。魔も聖も人間たちが勝手に区分し、名付けたにすぎないというのに」
「それこそ戯れ言だね」
「人の理の外の者ということは同じです。違いはありません」
黄緑色の瞳が鋭く光る。ロロス司祭様の顔からは飄々とした笑みが消えた。
「人智を超えた存在だということには同意するよ。だけど……光と闇は決して同じじゃない」
「光の存在を知るには闇が必要です。また闇も光の存在なしには闇にはなりえない。いうなれば……物事の表と裏のようなもの」
「人を惑わす悪魔の分際でなにを……」
「思い込みが強いですね。だから神殿は……。非常に迷惑です。おとなしく神殿に戻りなさい」
心底うんざりとしたように、苛立ちが混ざるヴィーリアの声。
「悪魔に指図される筋合いはないよ。お嬢さん、さあ、こちらへ」
ロロス司祭様は再び手を伸ばそうとしたその時に――。
「分をわきまえなさい! 強すぎる光はすべてを焼き尽くす。……均衡を保つための条約です。いいかげんに退きなさい」
空気が大きく震えた。
すべてを包み込む夜の闇の帳のような、厳かな圧力を感じて動けなくなる。
ヴィーリアの言葉は荘厳に、崇高に胸の内に沁み入ると沈んでゆく。この場を圧倒的に支配して、反論を許さない威厳をもって。
たぶん……これが代理人であるロロス司祭様とそのものであるヴィーリアとの違いなのだろう。
「……」
伸ばしかけた手を戻すこともできなくて、ごくりと息を呑みこんだロロス司祭様。あれだけ饒舌な口も閉じて、さすがに黙っている。
それから疲労を滲ませるため息をついて、黄緑色の瞳を伏せた。
濃い金色の髪をかき上げながら、後ろへと流す両手は震えているようだった。
「……まあ、今回は……しょうがないよね。僕たちもやれるところまではやった。なんとか上にも報告できるかな。……セイン君が心配だから……先に戻らせてもらうよ。少し疲れたし。じゃあ、またあとでね。お嬢さん」
そう言っていつものように微笑みながらわたしにひらひらと手を振った。
ロロス司祭様の姿は足元から光の粒子がばらまかれるように散らばって、瞬く間に消えてしまった。
白い空間にヴィーリアとわたしだけが残される。
……これで、終わったの?
確認するためにヴィーリアの端正な横顔を見上げる。
わたしの視線に気づくと口元を緩めて優しく微笑んだ。
「ミュシャ。私たちも戻りますよ」
肯くとヴィーリアの手のひらが瞼を覆った。
読んでいただいてありがとうございます(*‘∀‘)