37 不意打ち
目が覚めたようにして気が付くと、周囲一面が真っ白くて、ぼんやりと光るあの空間に立ちながらにして浮かんでいた。足元にはやはり地面はない。白く淡く光っている空間が広がっているだけだ。
目の前にはセイン見習い司祭様がいて、同じように浮かんでいる。
……ここは以前に、ロロス司祭様に催眠にかけられて誘導された『集合的無意識』の場。人だけに許された、無意識のさらに奥の領域。人の理の外の者であるヴィーリアは立ち入ることができない。
なんということ……。
思わずセイン見習い司祭様を強く睨みつけた。
「こんなの、卑怯よ。ここに導くことができるのは一部の特別な司祭様だけでしょ? あなたは見習い司祭様ではなくて、正式な司祭様だったの? わたしたちを騙していたの?」
「そんな、決して……お嬢様方を騙していたわけではありません」
セイン見習い? 司祭様? は、叱られてしゅんとしょげた幼い子どものようにうなだれた。
しかし、思い直したようにすぐに顔を上げる。そして真っ直ぐにわたしを見た。その瞳の色は後ろで一つに結んだ髪と同じ、焦げ茶色に戻っていた。
戸惑いながらも意を決したようなその眼差しにはわずかに幼さが残っている。頬や喉元の線もまだ硬くなりきってはいない。やはり、シャールよりも歳は下のようだった。
「私はまだ、資格上は見習い司祭です。お嬢様をこの領域にお連れすることができたのは、ロロス司祭様の多大なるお力と一時的に同調しているからです。……お嬢様の魂をお救いするために」
セイン見習い司祭様の声は微妙にうわずっていて、微かに震えていた。緊張していることがわかる。
神聖力を同調している? 魂の一部が混じってしまったわたしとヴィーリアのようなものだろうか。神聖力と魂の違いはあるにせよ、ロロス司祭様の神聖力をセイン見習い司祭様と共有しているということなのか。
よくは解らないが、でも……。
「わたしは救ってほしいなんて一言も頼んでいないわ」
セイン見習い司祭様をさらに見据えた。
そう。これっぽっちも、一言も頼んでいない。
「ロロス司祭様にも契約を解く気はないと伝えているのよ?」
「……それは」
わたしに気圧され、怯んだセイン見習い司祭様の瞳がわずかに潤んだように見えた。すると、またしてもしょんぼりとうなだれてしまった。
……ん? わたしの語気が強すぎたの?
うつむいたまま、どうしたらいいのか分からないというように、身体の前で重ねた両手の指をぎゅっと握りしめている。その姿は暗い夜の中で寄る辺もなく、細かく冷たい雨に体を濡らして寒さに耐えながら震えている仔犬を想像させた。
ちょっと待って……。そういうのは、反則でしょ?
思わず毒気を抜かれてしまいそうになる。
同じ年頃のようだし、ヴィーリアに対して怯えて委縮しまくっていたレリオと重なった。
騙したのは司祭様たちなのに、騙されたわたしの方がなんだか……いじめている悪役みたい。
なにかとっても……やりにくい。
続いている沈黙も気まずい。
「あの、セイン見習い司祭様?」
できるだけ柔らかな口調で声をかけた。
「はいっ」
はじかれたように顔を上げて、ぴしっと姿勢を正す。
「あの、あの……このような大役を仰せつかったのは今回が初めてのことで、その、なにしろ不慣れなもので……大変申し訳ありませんっ」
顔を上げた途端に深々と頭を下げられてしまった。
「いや、そんな、謝ってもらわなくても……大丈夫よ?」
なんというか、ある意味、素直な人みたい。
「……わたしをここへ連れてきたのは強制的に契約を解除するため?」
直球で尋ねると、セイン見習い司祭様は「え?」と顔を上げた。
それからとんでもないというように「違います。違います。それは誤解です」と慌てて、両手を激しく振って否定した。
「それじゃあ、なんのために?」
「あの……お嬢様と落ち着いてお話をさせていただくためです」
うつむき気味の視線をちらりとわたしに向ける。
話? 本当に話すだけ? なにか、また裏がある?
「あちらではあの方に邪魔をされてしまいますので……」
セイン見習い司祭様はそう付けくわえた。あの方とは、もちろんヴィーリアのこと。
うん。まあ、ロロス司祭様と話をしていたあの様子なら確かに……そうなるだろう。
セイン見習い司祭様は転移術で現れたときから、どこかおどおどとした様子だった。ロロス司祭様が催眠をかけることができなければ、代わりにわたしをこの場へと誘導する計画になっていたようだから、その緊張のせいだったのかもしれない。
隠し事は得意ではない性格みたいだし……。
「……話すだけなら、いいわよ」
用心しながらもそう答えると、セイン見習い司祭様はほっとしたように微笑んだ。思いのほか人懐こい笑顔につられてしまいそうになる。緊張もいくらかは解けたようだった。
「あの、お嬢様が契約をされた理由は……男爵家の負債を返済するため、ですよね?」
「そうよ。ロロス司祭様から聞いているのね」
「はい。実は……私たちはお嬢様とロロス司祭様がこの場でお話をされた後、ベナルブ伯爵様にもお会いしました。そのときにベナルブ伯爵様はロロス司祭様に懺悔をなさったのです。ご自分の行いをとても悔いておられました」
伯爵からは直接に謝罪を受けた。瞳には後悔と苦悩が色濃く滲んでいた。だから、それが本当の気持ちだということは伝わってきた。
「督促状は破棄されたと聞きました。ですから、もう……それを願う必要はなくなったのではありませんか?」
さっきはロロス司祭様とは話の途中になってしまったけど……。うん。やっぱりこれは、きちんと理解してもらうのが一番いい。
ヴィーリアは神殿側の司祭様たちを毛嫌いして避けていた。だけど、わたしたちに干渉してほしくないのなら、納得してもらうのが確実な方法だと思う。
「……わたしの話も聞いてもらえる?」
「はい。もちろんです」
「あのね、当時の我が家の状況は本当にどうにもならなかったの。……ヴィーリアはわたしの願いを叶えてくれたわ。ベナルブ伯爵様が督促状を破棄されたのは契約を交わした後のことなのよ」
「お嬢様があの方に恩義を感じる気持ちも……少しは、わかります。しかし、ベナルブ伯爵様の改心はあの方の魔術の力ではありません」
「契約は取引よ。対価を支払うのは当然だと思わない? 都合が悪くなったからといって後から取り消していたら、商売にもならないわ」
「商売と、お嬢様が魂を犠牲にすることとは話が別だと思います」
「……犠牲だなんて思ってないの。自分のためにしたことだから」
異常気象に見舞われる前の平穏な生活に戻りたかった。特になにがあるわけでもなかったが、穏やかな日々だった。お父様やお母様、シャール、屋敷の皆の憂いのない笑顔を見たかった。だからこそ、ここまで育ててもらった恩を返すなら今だと思った。突き詰めればすべては自分のためにしたことだ。
「男爵様や奥方様、皆様がそれを知ったら……悲しまれると思います」
「お父様たちには絶対に知られなければいいのよ。セイン見習い司祭様も絶対に言ってはダメよ。それにね……わたしが契約を解きたくないの」
セイン見習い司祭様の眉が下がって、わたしを憐れむような表情をした。
「本当に……魅了にはかけられていないのですか?」
「ええ。ロロス司祭様もそう言っていたでしょ?」
「あの方は……本来ならば関わることはないはずのものです」
「そうかもしれない。でも、もう関わっちゃったの」
眉間が寄り、幼さが揺れる眼差しに戸惑いと嫌悪の色が浮かんだ。
「闇の一族……悪魔と呼ばれるものですよ?」
それはわたしも知っている。
朔の晩の漆黒の闇から現れ、依代として血液や体液を求める。体温はないかのように肌は冷たい。深い紫色の瞳は時折、色を変えて不穏な光を宿す。儚げな美しい少女かと思えば魅惑的な青年にも姿を変える。強大な力を持ち、魔術を操り、人を魅了する。人間が、悪魔と呼ぶもの。
「そうね。でも、それはわたしには関係ないわ」
ちょっと意地悪で、かなり強引で、相当不埒で爛れていて、慇懃無礼だけど。だけど、意外と世話焼きだし、好奇心も旺盛で凝り性だ。それに、わりとこだわる性格みたい。
服はいつも黒を基調としたものばかりを着ている。それが白銀色の髪と瞳の紫色に映えてとてもよく似合う。
美味しい紅茶の淹れ方をベルに訊いていたこともあった。魔術で仕立て直してくれた服のデザインも、わたしの好みにも配慮して似合うように考えてくれたものだろう。書店で大勢に囲まれ質問攻めにされたときには困惑を隠しきれていなかった。いつも人前では取り澄ましているヴィーリアのあんな表情を見ることができるとは思わなかった。中央広場で酔っぱらい男を投げ飛ばしたときには……不覚にもかっこいいと口に出してしまうところだった。
いろいろと思い出すとなんだか笑ってしまうのに、胸の奥がきゅっとする。……本来なら畏怖の対象であるはずなのに。
「あの方に、恩義とは別の……なにか特別な思いでもあるのですか?」
はっきりと答えたくはなかった。その代わりに「さあ、どうかしら?」と曖昧に微笑んだ。
セイン見習い司祭様の頬が見る間に赤く染まっていく。
「あの方は、彼とも彼女とも呼べないものです。お嬢様、人の理を外れるのは……罪です」
セイン見習い司祭様の声が再び、うわずった。
「罪って……。それは誰が決めたの?」
「人間が輝主様に創造された、そのときからそう決められています」
「それでも。わたしのことはわたしが決めるわ。だから、もうこれ以上は干渉しないでほしいの」
セイン見習い司祭様は顎を引いて悔しそうにきゅっと唇を噛んだ。
「私では……お嬢様のお心を変えることはできないのですね。……力不足で申し訳ありません」
そう呟くとゆっくりと瞼が閉じられた。
するとそれを合図のようにして、肩が痙攣し、細かく震えだした。あやつり人形の糸が切れたように首が、がくんと前に垂れる。
なに!? 急にどうしたの? 大丈夫!?
セイン見習い司祭様はすぐに顔を上げた。纏っていた雰囲気がふっと変わったことがわかる。
「随分とたいそうな口を利くね。お嬢さん……それは不遜でしかない。勘違いも甚だしいよ」
声はいくらか低くなり、口調も落ち着き払っている。わたしを真っすぐに見つめた、その焦げ茶色の瞳からは幼さが消えていた。
「弱かったから安易に悪魔に助けを求めただけでしょう?」
「……」
そう言われてしまえば、返す言葉はない。
もしも、わたしに状況を確実に覆す力や手段があったのなら、一か八かの魔術古文書は開かなかったことだろう。
でも、皆が皆、そんな力を持っているわけでも、強いわけでもない。それでも、できうる限りの精一杯の抵抗をしたのだ。
「物事は大局的な観点から見るべきであって、局所的に判断することは愚かでしかないよ」
平然とした顔で迷いもなく言ってのけた。
だけど……今、なんて言った?
氷水に浸けられたように、すうっと、頭の中が冷えていく。
反対に胸は熱くなり想いが溢れ出してくる。止められない。
「愚かなことだというの? 平穏な日常を求めることが? どうにかして幸せになるために、一生懸命にもがくことが? 一人一人の人生が局所的? わたしたちは生きているの。幸せを求めてなにが悪いの? おかしなことを言っているのはあなたよ」
「ひとときの安寧のために悪魔に魂を渡すことが幸せなの? 人の輪廻の輪から永遠に外れてしまうんだよ? 来世もない。永遠に闇に囚われる。人の真の幸福とは人の理の中で生きることだ。お嬢さんの守ろうとした人々は、お嬢さんを犠牲にして幸せになれると本気で思っているの?」
「犠牲じゃないわ。わたしが望んだことよ。さっきわたしがセイン見習い司祭様と話していたことを聞いていたのでしょ? ……いいかげん、しつこいわ……ロロス司祭様」
読んでいただいてありがとうございます( ^^) _旦~~