36 特別な司祭様
ヴィーリアのシャツの背を片手で掴んで、背中の後ろからそろそろと顔を出す。
強い光が収まった後に、仄かな翠色の明るさを取り戻したそこに立っていたのは、紛れもなく白いローブ姿のロロス司祭様と見習い司祭様だった。
「結界を越えるのに思ったより力を使っちゃったよ。……お嬢さんもごめんね。眩しかったよね」
ロロス司祭様はにこやかに微笑みながらわたしに軽く手を振った。ローブを整えるために裾を払う。それから分厚いレンズの丸眼鏡を外すと見習い司祭様に手渡した。
眼鏡を受け取った見習い司祭様は、怯えているような、どこかおどおどとした様子でわたしたちに浅く会釈をした。
「どうして……ここに?」
よりによって一番会いたくなかった人たちが突然に目の前に現れた。
これって、転移……してきたよね?
「あれ? 知らなかったのかな? 転移術は魔術師だけの特権じゃないんだよ」
ロロス司祭様はそう言って得意そうに片目をつむった。
黄緑色の瞳は相変わらずきらきらしく、美しい。仄かな明るさしかないこの場所でも、金色の髪と相まって、まるで後光が射しているようだ。
「僕たちは今ね、ユーグル山脈の村に滞在しているんだ。……温泉にもつかって、セイン君とゆっくりしてたんだけど、こっちの方に気配を感じてね。これはもう、お嬢さんに会いに行くしかないかなって」
そういえば……司祭様御一行は、リモール山脈の麓の村を出た後は屋敷には帰らずに、ユーグル山脈方面の村に移動するという知らせが届いていた。
油断をしていたわけではない。しかし、屋敷には戻ってくるつもりはないのかもしれないと、だったら顔を合わせることはないと、心のどこかで思ってしまっていた。
「それにしても、リモール領はいい意味で鄙びた所だね。温泉も湧いているし、ご飯も美味しいし、空気もいい。人も素朴で温かい。とても気に入ったよ。実はね、まだ公に発表はされていないんだけど、今度、新しい神殿を建立する計画があるんだ。ここも候補地に推薦したいと思ってる。だから男爵様にも相談してみたいんだ。お嬢さんからも口添えしてくれるとありがたいな」
ロロス司祭様はわたしに同意を求めるように「ね?」と小首を傾げた。
「まあ、よく喋りますね。生憎ですが、歓迎する気はありません」
ヴィーリアの声は凍てついた真冬の湖を連想させた。
相手をそのまま凍らせてしまいそうなほどに冷ややかだ。ただならぬ冷気を纏っている。
「ああ、悪魔さんじゃなくて、お嬢さんと話をしにきただけだから。僕たちのことは気にしないで。どうぞお構いなく」
それでもロロス司祭様は動じなかった。それから、ゆっくりと辺りを見回した。
「なるほど、ね。これが対価の結果……」
硝子のように透けた岩盤の、その向こうに在る。翠色の光を鈍く反射させた美しい無数の緑柱石。それらを確認しながら呟いた。
ヴィーリアの肩が沈みこむ。深く息を吐いたことがわかる。
「不愉快ですね。神殿の者は昔から礼儀がなっていませんでしたが。……我々をそう呼ばないという約定はどうなっているのですか?」
ロロス司祭様は正面に向き直り、ヴィーリアの視線を受け止めた。
「ううん、そんなこと言われても……今の名前だってどうせ真名じゃないでしょう? だったらどう呼んでも同じことじゃないかな。それに、悪魔さんも僕たちのことは神殿としか呼ばないし。お互い様だね」
「我々の名は……人間には聞き取ることができませんから」
「まあ……いいや。お嬢さん、少し僕とお話しをしようか? 憶えているでしょう? この間の僕たちの逢瀬。あれは夢じゃないことは……わかってくれているよね? 最後に伝えたことは考えておいてくれたかな?」
ロロス司祭様はヴィーリアを無視して、背中にほとんど隠れているわたしを覗き込むように身体を曲げた。
「お断りします」
間髪を入れずに、わたしの代りにヴィーリアが答える。
「……悪魔さんに訊いたわけじゃないよ。少し黙ってくれると嬉しいな」
「しつこい男は嫌われますよ?」
ロロス司祭様は大げさに両方の手のひらを上に向け、肩をすくめた。
「うわぁ。それを言う? 僕をお嬢さんに接触させないように四六時中張り付いているくせに。闇の一族は粘着気質で、執念深いっていうのは本当だよね」
「私のものに勝手に干渉されたくはありませんから」
「“もの”ね……。おまけに独占欲もかなり強いんだ。それにこの前は……僕の鏡を湖に沈めてくれたね?」
「湖底でおしゃべり好きな可愛いお魚でも見つけたらいかがですか? きっと、とてもお似合いですよ」
ロロス司祭様が短くため息をついた。
「……どうしてそこまで邪魔をするのかな?」
「それはこちらの台詞です。よもや忘れてなどいないと思いますが、神殿の主とはお互いの領分を侵さないという不可侵条約が結ばれています。それなのに神殿ときたら……なにかと首を突っ込んでくる。まったく忌々しい」
「輝主様が本当に許容しているのは魔術師との契約までだと思うけど……」
「それではまだまだ神殿の主についての理解が足りていないようですね。出直してくることをお勧めしますよ」
ヴィーリアが鼻で哂った。後ろにいるので顔を見ることはできない。しかし、少しだけ顎を上げ、瞳を細めて見下ろしながら、絶妙に口角を上げて小馬鹿にして哂う表情がありありと想像できる。
中央広場ではわたしに『そんなに煽るものじゃありません』などと渋い顔をしておきながら、自分はロロス司祭様を煽りまくっている。……まあ、ロロス司祭様も同じだけど。
二人はどちらかといえば淡々とした口調で、声を荒げることもなく言葉を交わしていた。それが会話の内容と一致していなくて、一触即発のような緊迫した雰囲気をつくり上げているのが……なんだか、余計に怖い。
あのね……こんな妙な雰囲気を盛り上げないでほしい。いつ、なにをきっかけとして、どうなることかとひやひやしてしまう。背中に冷たい汗が流れそう。
セイン君と呼ばれていた見習い司祭様も、やはり二人のやりとりを見て困惑している様子だった。
「……僕はお嬢さんの意思を確認したいだけ。魅了にかけられていたらそもそも自我なんてないようなものだけど。でも、魅了は確認できなかった。……ちょっと引っかかることもあるし。お嬢さんには教えてもらえなかったけど」
「神殿が我々を知る必要はありません」
「……何十年ぶりかの契約者を前にして、僕たちもなにもせずには帰れないでしょう? 職務怠慢だって上から怒られるからね。呼び方を除いてだけど、闇の一族との不可侵条約を破るつもりはないよ。ただ、本当にこのまま契約を解除しないでいいのか、お嬢さんから聞きたい」
「契約の解除はしないと、ミュシャの口から伝えているはずですが」
「悪魔さんもわかってるはずだよ? 条約にもあるけど……僕たちには契約者を救う機会がある。それは本来なら悪魔さんには邪魔立てできないことだ。まあ、だから本当なら魅了をかけてしまって従順にさせるんだろうけどね。……だけど、契約者が解除を望まないのであれば僕たちはもう手を引くしかない」
神殿との不可侵条約の内容は詳しくは知らない。以前にヴィーリアからちらりと聞いたことがある程度だ。それでも、先ほどからの二人の会話から推測できることは、わたしがロロス司祭様と話をしない限りは司祭様たちに退がる気はないということ。
それならば……。
わたしの意思は固まっている。誰になにを言われようが変わることはない。
もう一度しっかりとロロス司祭様に伝えれば、納得して手を引いてくれるはずだ。
司祭様たちに円満にお引き取りをいただいて、この場を収めることができる。
「いいわ。司祭様、話し合いましょう」
掴んでいたシャツを離してヴィーリアの陰から一歩足を踏み出した。
「ミュシャ」
今度はヴィーリアがわたしの腕を繋いだ。
「契約を解除しないって確認するだけでしょ? それに、なにかあってもヴィーリアが守ってくれるわよね?」
「しかし」
「よかった。やっと、お嬢さんとお話ができる。……そこの悪魔さんは話が通じないから、このままじゃ埒があかないところだった。ちょっと引っ込んでてね」
ヴィーリアの神経を逆なでしてから、わたしを黄緑色の瞳でじっと見つめてくる。
ロロス司祭様の瞳はきらきらとして美しいが、見つめられるのはヴィーリアとは違う意味で怖い。他人には見せたくない汚れた心の内を、一つずつ、すべて暴かれていくような気分になる。
……肌が粟立った。でも、ここはわたしも退けない。
「ロロス司祭様、わたしは契約を解除する気はないわ」
「それは……本当にお嬢さんの意思?」
「そうよ。それにロロス司祭様も知っているはずでしょ? わたしには魅了はかけられていないって」
「確かに、ね。……でも」
ふいに黄緑色の瞳の輝きが増した。嫌な予感がした。とっさに顔を背けて、ロロス司祭様の瞳から視線を逸らす。
「ちょっと待って!? 催眠をかけないで! わたしを誘導しないで!」
繋がれているヴィーリアの腕に力が入った。わたしを後ろに庇おうとして動きかける。
「おっと。悪魔さんは余計な真似はダメですよ。それこそ条約違反案件です。それに、僕たちに手を出したらどうなるか……知らないとは言わせません」
ヴィーリアが「ちっ」と舌を打つ。
「……治療のことを調べたみたいだね?」
ロロス司祭様の瞳の輝きは元に戻っていた。
「少しだけ。ロロス司祭様は、特別な司祭様だったのね」
「特別というか、ほかの司祭方より、少しだけ神聖力が強いんだ。……わかった。僕はなにもしないよ。……セイン君」
ロロス司祭様が見習い司祭様を手招きした。その動作につられてセイン見習い司祭様に視線を移す。光を反射させているようにきらきらと輝いた薄い茶色の瞳と目が合った。
……あれ? セイン見習い司祭様の瞳の色って……こんな色だった? 確か、髪の色と同じ焦げ茶色だったような……?
「ミュシャ!」
ヴィーリアにぐいっと強く腕を引かれて胸の中に抱え込まれた。
数秒ほど、セイン見習い司祭様と視線を合わせてしまった。
そして……身体から力が抜けていく。
意識だけがすっと落ちていくような、ふっと浮かんでいくような不思議な感覚に包まれる。
この感じは覚えがある……まさか。
ヴィーリアの冷たい胸の中で身体が崩れていく。
やはり、指の先さえ動かすことができなかった。
ヴィーリアのふっくらとした唇が何度も動いて、何度も名前を呼ばれているようだった。でも、なにも聞こえない。
河の激流に飲みこまれるようにして、そのまま意識だけが流されていった。
読んでいただいてありがとうございます。( ^^) _旦~~