35 告白
「それは……どういうことでしょうか?」
「“人の理の外の者”との契約は憶えていたいの。でも、あなたの記憶は消していってほしいの」
「私を……忘れたい?」
「ええ」
心のうちを見透かすためなのか、食い入るように見つめられるがわたしも瞳を逸らさない。
悟られてはならない。ゆっくりと呼吸をする。心を冷静に保たなければ。
紫色の瞳が宝石と同じように潤んで揺れたようにみえた。
ヴィーリアは瞳を伏せると、組んだ腕にのせた指をとんとんと思案気に動かしながらため息をついた。
「……貴女がそう望むのなら、なにか理由があるのでしょう?」
穏やかな口調に、心がふわりと解けそうになってしまう。
即座に「そんなことはできません」「だめです」だのと否定され、刺のある言葉で問い詰められると思っていた。だから、お腹にぐっと力を入れて身構えていたのに。
でも。
「……」
黙ったままでいた。
「……私には話すことができないと?」
ただ、肯く。
ヴィーリアが伏せていた瞳を上げた。虹彩は黒に近いような紫色に変化していて、うっすらと不穏な光を帯びはじめる。
「貴女の命の炎が消えて、私が迎えるまでは……。それまでは、貴女の都合よく私のことだけを忘れていたい?」
「……わたしがヴィーリアのことを忘れても、魂を対価とした契約を交わしたことさえ憶えていれば問題はないわよね?」
「それはそれは……ずいぶんと冷たいことを仰いますね。……理由も教えていただけないとは」
ヴィーリアにとっては不可解な申し出かもしれない。
でも、そのほうが面白そうだったからという理由で魅了をかけなかった契約者が、魅了をかけなかったがために最後に自分の意思でささやかな頼み事をしている。それだけのことだ。
機嫌を損ねたのはわかるが、魂を回収しないでほしいと頼んでいるわけではない。
「……ヴィーリアにとってはそんなに難しいことではないでしょ? それになにも困ることはないじゃない」
「……」
ほとんど黒になった瞳の光が強くなっていく。
なにかが燃えたような、焦げた臭いが強く鼻の奥に張りついた。
ヴィーリアの記憶を失くしたからといって、その後の人生を楽しく生きられる保証なんてどこにもない。でも、輪廻の輪にも還れない最後の人としての生なら、後悔はしないように生きていきたい。
そうするために……忘れさせてほしい。
ヴィーリアのいなくなった世界であなたのことを憶えていたとしたら……。もう、心の底からは笑えなくなるような気がする。
だけど、そんなことは口に出せるはずもない。
わたしは魂の相性がよかっただけの契約者にすぎないのだから。
「わたしは……ミュシャ・ライトフィールドとして、できるだけ悔いを残さないように生きたいと思うの。わたしの魂は契約通りにヴィーリアのものよ。だからそれまでは……」
「それまでは、あの書店にいた若造と一緒に生きるということですか? そのために私の記憶が邪魔だと?」
……ん?
……書店の若造って……ジョゼのこと? なんでそこにジョゼがでてくるの?
「ジョゼは関係ないでしょ?」
「……なにやら二人で親密にしていたようですが?」
瞳が眇められた。
「あのときは、本を探してもらっていただけよ」
「書店を出るときも二人で合図を交わしていたように見受けられましたが?」
合図? ……もしかして『またね』って声を出さずに口だけで言ってくれたこと?
「あれは……」
全然、合図なんていうことじゃないし。だいたい、それだってヴィーリアが余計なことを言ったのが原因でしょ?
「あれは? なんだというのですか? 『また会おう』などとは、確かに婚約者のいる前でおおっぴらに言えることではありませんね」
意地悪く口角が上がった。
……ちょっと待って。なんだか話が明後日のほうに向かっているような気がする。
「そんなことを今さら? それは記憶を消す話とは全然関係がないわよね?」
「今さら? 関係がない? 貴女こそ指輪を受け取りながら、婚約者の記憶を消してほしいなどとよくも言えましたね。理由も話すことができないとは。なにかやましいことがあるからでしょう?」
なに? やましいことって。
ジョゼは関係ないって言っているのに。
「何度も申し上げているはずですが……」
そう呟いてわたしの左手首を掴んでぐっと引き寄せた。
身体ごとヴィーリアに向き合うようにしてソファに腰をかけていたので、上半身だけが引っ張られてしまった。前のめりに顔から倒れそうになるところをヴィーリアに抱き止められる。
しかし勢いがついてしまい、高くもない鼻からヴィーリアの硬い胸にぶつかった。痛い。
そのままの姿勢で腰に腕を強く回される。
白い頬を黒檀色の髪にすりよせた。
……。
また、こういうことをする。……勘違いをしてしまいそうになる。
いなくなるくせに。還ってしまうくせに。
なんだか……無性に腹が立ってきた。
さっきから婚約者、婚約者って。
どうしてわたしだけがまるで浮気をしたかのように、そんな風に責められるような言い方をされなくてはいけないのだろうか。
ジョゼとのことが喩え本当にそうだったとしても。
ヴィーリアは本当の婚約者でもないくせに。勝手に完璧に完璧な婚約者のふりをしているだけのくせに。
婚約指輪? ……確かにとても素敵だったけど。
受け取るかどうかも聞かずに薬指に嵌めたくせに。
魅了をかけなかったわたしの心を還ってからも縛ろうとしたくせに。
いつも、いつも……ずるい。
ヴィーリアの胸に両手をついて顔を上げる。
「……なによ。ヴィーリアだって綺麗な店員のお姉さんに『ぜひまた来てください』なんて言われて、嬉しそうに鼻の下を伸ばしちゃって、手なんか振っちゃってデレデレしてたでしょ?」
「人聞きが悪いですね。私はそのようなことはしていません」
「ウソ! してたわ」
「……それは、社交辞令というものでしょう」
あの店員のお姉さんたちだけじゃない。ヴィーリアが歩けば誰もが振り返る。微笑めば頬を染めさせることなんて簡単にできてしまう。それに言葉を交わせばすぐに人をたらす。
……皆は知らないのに。
ヴィーリアの慇懃無礼さや不埒さや爛れっぷりなんかは全然知らないのに。知っているのは私だけなのに。なのに、なのに……。
「……どうせわたしは子どもっぽいわよ。お姉さんたちみたいにいい香りなんてしないし、胸だって大きくないし、腰だって括れてないわ。広場の酔っぱらいにはお子様に間違えられたし、ここ数年、どういうわけか体形だって身長だって変わってないの。……服のセンスだって暗くて地味で悪かったわね。可愛らしいものが似合わないんだから仕方ないじゃない。なによ……なによ……いくら契約のために婚約者のふりをしている方が都合がいいからだって、心の中ではその相手がこんなに色気も情緒もないわたしでがっかりなんでしょ!? 悪かったわね! 恋もしたことのない小娘で! しどけない寝姿の一つもできなくて! 寝ぐせも寝相もひどくて! からかうことくらいしか相手にならなくて! きれいなお姉さんじゃなくてごめんなさい! それにヴィーリアがわたしをおいて還っちゃったら……その後にわたしが誰と一緒にいようとどうでもいいくせに! 今だけ婚約者面なんかしないでよ! 優しくなんかしないでよ! 思わせぶりに指輪なんか贈らないでよ! わたしを縛らないでよ! あなたがいなくなるなら忘れさせてよ! まさか、まさか初恋の相手がヴィーリアだなんて……わたしだって思いもしなかったわよ!」
「なっ……」
一息で吐き出した。はぁはぁと荒い息を整えるうちに、ヴィーリアの目を見開いた唖然とした表情ではっと我に返る。
…………しまった。
途中から感情にまかせてしまい、なにがなんだかわからなくなった。堰が切れたように、もやもやとしていたものを一気に吐き出してしまった。
平常心などそんなものはどこか彼方へ吹き飛んでいた。なんというか……これは……やってしまった、よ、ね?
さっと顔から血の気がひいていく。
「ミュシャ」
反射的にうつむいた。ヴィーリアの目を見ることができない。
「あ、あの、今のはつい、その……」
「つい……?」
「……」
ついもなにも、本人を目の前にしてあんなことを言ってしまった後では、もうなにも取り繕う言い訳などできる気がしない。
……ううう。わたしのバカ。……バカどころではない。とんだ大間抜けだ。
……どうしよう。契約相手からのこんな気持ちは、面倒だと思われるだろうか。厄介だと思われるだろうか。
「ふっ」
突然にヴィーリアがふきだした。いつものからかうような小ばかにするような感じではなく、なぜだか本当に愉快そうに笑いだした。
ぱっと顔を上げる。わけがわからない。どこかに笑うところなどがあっただろうか。
「あの、ヴィーリア?」
「ああ、つい……失礼しました。貴女は……行動はあれですが、歳のわりには考え方が老成しているようでしたので……まさか貴女がそんな風に声を荒げるとは」
「それは……わたしだって」
あんなことを言うつもりはまったくなかった。だって、あれではまるでやきもちを焼いて、嫉妬……して、その、こ、告白までしてしまったみたいで。いや、みたいではなくて……。ううう……。いっそのこと透明になってこの場から逃げ出したい。
ヴィーリアは自分の眦を親指の腹で拭った。瞳は澄んだ紫色に戻っていた。不穏な光も消えている。
紫色の瞳が妖しく潤んで蕩けていた。
甘い香りが鼻先をくすぐった。濃厚な、甘い蠱惑的なバニラのような香り。くらりとした眩暈を感じた。
「いいのです。咎めているわけではありません。言ったでしょう? それが人間です。……そして今の貴女は非常に人間らしい。とても……美しいですよ」
今度はかっと顔に血が集まる。青くなったり赤くなったりで、我ながら忙しいとは思うが仕方がない。
ヴィーリアの冷たい指が頬に触れた。熱い頬を撫で、ゆっくりと輪郭をたどり、顎を少し持ち上げられた。潤んだ瞳に捕らえられると動けなくなってしまう。
どうしよう、恥ずかしい。本当に恥ずかしい。手を振りほどかなくてはいけないのに。甘すぎる香りが思考に膜を張ってしまったみたい。腕を動かすことができない。
「それが、貴女の偽らざる心……」
仄かな翠色を映した白銀色の髪が揺れた。
そのときに―――
まるで空間を割いたかのように、ぴきんという甲高い音が空気を振動させた。
ちりっと首の後ろの皮膚がつれる。
この感覚は……。
すぐにヴィーリアがそっと顎から手を離し、舌打ちをした。
すっとわたしの前に立つ。
「ミュシャ。私の後ろにいなさい」
幻想的な翠色の淡い明かりのなかで、突然に白い光が一点から空間全体に強く放たれた。
眩しすぎる。とっさに目を瞑った。
ほんの数秒のことだった。瞼の裏にまで届く光が収まると、ようやく目を開けることができた。光で霞んだ目を軽くしばたく。目を凝らすと、テーブルをはさんだ向こう側に二つの白い人影があった。
「うわぁ。思ったよりも眩しかったね。セイン君は大丈夫? ……やあ、どうもこんばんは。ようやくまた会えたね。お嬢さんも悪魔さんもお久しぶり。お元気でした?」
この声は……ロロス司祭様!?
読んでいただいてありがとうございます( ^^) _旦~~




