34 揺れる想い
冒頭の一行が33話と重複します。
「もうすぐ、終わるのね」
言葉が口からこぼれた。ヴィーリアが還ることは最初から解っていたことだ。
「……」
「ねえ、ヴィーリア。この前、町に降りて思ったの。とても活気があって、皆、生き生きとしていたわ。五年前とはまったく違う」
そう。わたしが願ったことは家族が、屋敷の皆が、領民が、誰もが皆、幸せに暮らせること。
「これからのリモールはもっともっと人が集まって豊かになって、栄えていくのでしょうね。……もっと人が増えるのなら、中央広場でのような騒ぎはきっと今よりも増えるでしょ? 今でも多いのが問題だけど……。自警団の人員を増員するとか、詰所を増やすとか治安を維持するための強化策が必要よね? ああやって騒いだ人たちをなんとかして自警団に取り込めたらいいわね。ヴィーリアには負けてしまったけど、わりと強そうだったし。リモールに仕事を求めてきたのなら、ただ追い出すことはしたくないわ。それから、宿屋や宿舎を増やさなくちゃ。食料の生産も上げて、自給できないものはほかの領と契約して確保する必要もあるわ。生活用品や消耗品とかさまざまな物資も大量に必要になる。それには輸送のための陸や河の流通網も整備しなくちゃね。もちろんリモールに大きな生産拠点を作ってもいいし。……いろいろな娯楽施設も必要になるわ。衛生的な環境も整えないと。この間読んだ資料では、公都のような大きな都市では上下水道やガス灯も整備が進んでいるんですって。すごいわね。魔術じゃないのよ。リモールにも取り入れたいわ。人口が増えるなら、学校や治療院も増やさないと。そこで働いてくれる人も雇わないとね。……鉱山の働き手だけじゃなく、もっとたくさんの人手が必要になるの。……考えるだけでわくわくするわ」
以前から考えていたことをとりとめもなく一息で話した。ヴィーリアはその間、口を挟まずに穏やかな表情で聞いていた。
「……貴女が次期領主になればいいのでは?」
「わたしが? それはないわ」
即座に否定する。
「なぜですか?」
「シャールと伯爵がきちんと話し合った結果がどうなるかは分からないけど……。シャールが伯爵と結ばれるのなら、シャールの生んだ子どもの一人に男爵領を継がせればいいわ。もし、結ばれないのであれば、シャールかシャールの結婚相手が継げばいい」
「どうしてですか?」
どうして? なぜそんな解りきっていることを訊くのだろう。
「……だって、ライトフィールド男爵家の正当な後継者はわたしではないもの」
「以前に私が、なぜ自分の魂を差し出したのかと尋ねたときに、貴女が答えたことを憶えていますか?」
「ええ」
『……それなのに貴女は自分の魂を差し出したのですか?』
『それはどっちの意味? 血が繋がっていないから? それともこんなに大切に育ててもらったのに?』
『そうですね……。両方の意味です』
忘れるはずがない。わたしは『だからよ』と答えた。
血が繋がっていないのに、大切に育てられたのに、なぜ魂を対価とした契約をしたのかとヴィーリアは訊いた。
わたしは十九年前に男爵家の門の前で拾われた。それにも関わらず、男爵夫妻はお父様とお母様になってくれた。わたしを実の娘であるシャールと同様に大切に慈しんで育ててくれた。
だから、男爵家がどうにもならない状況に陥ったときに、わたしだけが窮地に陥ればいいと思った。育ててもらったせめてもの恩を返そうと思った。
男爵夫妻に拾われていなかったら、わたしはミュシャ・ライトフィールドではなかった。シャールの姉にはなれなかった。施設で育っていたかもしれない、ほかの家に引き取られていたかもしれない。庭番にみつけられる前に野生動物に連れ去られていたとしたら、今は生きていなかったかもしれない。
ヴィーリアが言っていた宿命がどこまでで、運命がどこからなのかはわからないけど。
あの時点では魔術古文書の方法が最善だと思った。ダメで元々。成功したら男爵家もシャールも領地も助かる。わたしの魂を対価に捧げればいいだけ。
だから、わたしは両方を肯定する意味でそう答えた。
「貴女は家族の幸せを願っていた。男爵も後継者として貴女の婚約者を認めている。ですが、血が繋がっていないことを……貴女がほかの誰よりも一番に拘っているようです」
「……だって、血が繋がっていないのは本当のことだもの」
わたしの黒檀色の髪の色。琥珀色の瞳。肌の色。目鼻立ち。小柄な体格。どれをとっても、お父様やお母様、シャールとは違う。忘れたくても忘れられない事実として目の前にある。リモールの領民も知っている。リモリアの学校に通っていたときに、わたしが生意気だからという理由で、わたしの存在を気に入らなかった上級生にそのことをからかわれたこともある。
「それに、わたしは先頭に立つよりも後ろで支えるほうが性格的に向いているのよ」
「……そうですか」
上級生にからかわれたときには、クラスの友達や大人しかったジョゼまでもが上級生の前に立ちはだかり、かばってくれた。本当に嬉しかった。
それでも……せめて髪の色だけでも変えてしまいたいと思ったこともある。
でも……。
「……今は、血が繋がっていなくてよかったと思っているわ」
喩え血が繋がっていたとしても。
家族も屋敷の皆も、領民も大切だ。だから同じ状況であったなら、わたしは魔術古文書で同じ方法をとっただろう。わたしの魂を対価として。
だから。
だから……聖人君子ではないわたしは、血が繋がっていない方がいっそのこと割り切れる。
それに。
「……前にも言ったけど、わたしの召喚に応えてくれたのがヴィーリアでよかったと思っているの。本当よ」
紫色の瞳を見上げた。ヴィーリアの瞳に映るわたしは……うん。大丈夫。笑っている。
「ミュシャ……」
冷たい親指で眦を拭われる。ヴィーリアはその指を唇に運んで、赤い舌で舐めとった。
「……泣いてなんかいないわよ?」
「そのようですね」
そう言って、笑って指を鳴らした。
「左手を出してごらんなさい」
「左手? どうして?」
「貴女のお好きな魔術ですよ」
なんだかよく分からなかったが、言われた通りに手のひらを上に向けてヴィーリアの目の前に左手を出した。
ヴィーリアはわたしの左手をくるりと裏返して、手の甲を上に向けた。そして薬指を選ぶと、紫色の石がついた指輪を薬指にするりと嵌めた。
「……え?」
それから、朔の晩にナイフで傷をつけた薬指の先に、冷たく柔らかい唇を押し充てた。
「婚約指輪です。私としたことがまだ貴女に贈っていませんでしたので」
完璧な婚約者のごとく、優しく甘い声で囁く。熱を含んだようにもみえる指輪につけられた宝石と同じ色の瞳。
口づけられた薬指の先がじんじんと痺れて、熱い。
薬指の根本まで嵌められた指輪のサイズはゆるくもなく、きつくもなくぴったりだった。
輪は銀色で、蔦の模様が刻まれた細い輪が三重に絡まり合っている可愛らしいデザインだ。その輪の中央の台座に薔薇のつぼみのようなカットを施して磨かれた、ヴィーリアの瞳と同じ色の宝石が嵌っている。鮮やかな濃い深い紫色の美しい宝石。透明度が高く、濁りがない。
薬指を目の前にかざすと、潤んだ瞳のような優しく柔らかな光できらめいた。
「……素敵」
「貴女がみつけた先ほどの緑柱石ですよ」
「色によって石の呼び方が違うのよね? 紫色はなんというのかしら?」
「紫色の緑柱石は非常にまれで、希少です。そうですね……。桃色はモルガナイトと呼びます。赤色はレッド・ベリルですね。紫色は……ヴァイオレット・モルガナイトというところでしょうか。まあ、ヴァイオレット・ベリルでも、貴女のお好きなように呼んでください」
「ふふふ。意外に適当ね」
ヴィーリアからの、人間を真似た婚約指輪。円は循環する形。永遠に廻る象徴だ。紫色の緑柱石はヴィーリアの瞳そのもの。
これは左耳の裏と魂に刻印された魔法陣の紋章と同じ、契約の証ということなのだろう。
魅了をかけられていないわたしが、ヴィーリアが還ってしまっても忘れないように。
……そういう意味では確かに魂の婚約指輪だ。
だけど……残酷でもある。
この銀色の輪を見るたびに、柔らかな光を放つ紫色の緑柱石を見るたびに、わたしはそこにいないヴィーリアを思い出すのだ。
艶やかな光の輪をつくる白銀色の長い髪。ときどきで色を変える紫色の瞳は、蠱惑的に蕩けたかと思えば、鋭く不穏な光を宿しもする。冷たい唇の柔らかな感触は左耳が憶えている。
態度は尊大で強引で、謙虚さの欠片もない上に慇懃無礼で不埒で少し意地悪だ。でも、意外にも子どものように褒めてもらいたがっているように感じることもあるし、わたしの世話をよく焼いてくれる。口ではきついことも言うが、忠告してくれることもある。契約だから当たり前だけど、お願いした仕事はきちんとしてくれる。わたしをからかって困らせもするが、いつでも守ってくれる。
婚約者として振る舞うときには誰にでも親切で(ジョゼにはなぜか冷たい態度だったが)、わたしには優しく蕩けるような態度で接する。
ほら……こうやって挙げていけばきりがない。
そんな誰も憶えていない、誰も知らないヴィーリアを一人で思い出すのだ。
「もう一つだけお願い……というか頼みがあるの」
ヴィーリアの瞳をじっと見つめる。大丈夫。わたしは、平常心。
「なんでしょう?」
平常心……のつもりだったが、感情の揺れがあったのだろうか。ヴィーリアの眉間がわずかにひそめられた。
「あなたが還るときには、わたしの記憶も消していって」
読んでいただいてありがとうございます(*‘∀‘)