32 湖上の出来事
一度、外套を取りに部屋に戻った。それから、裏の湖まで続く小路を二人で歩いている。
ヴィーリアはわたしの歩幅に合わせてゆっくりと歩いていた。
秋の陽はすでに傾いている。まだ陽射しはあるが空気は冷たかった。燻られたような秋の匂いが鼻の奥をくすぐると、どこか懐かしいような気持ちになった。
足元に散る枯葉が、吹く風にかさかさと音を立てて舞う。嵐の日の大風でも枝に残った楓や銀杏の葉が、燃え盛る炎のような赤色、鮮やかな黄色に染まり目に眩しい。
ずいぶんと季節が深くなっていた。
遅い午後の図書室でヴィーリアに少し散歩に行きませんかと誘われた。
ただ散歩をするためだけに誘ったわけではないだろう。
昨夜、眠らされて途中になってしまった話の続きをわたしも聞きたかった。
しかし、ヴィーリアからはなにも切り出さない。二人で本当の散歩のようにただ、ゆっくりと歩いていた。ヴィーリアの白銀色の長い髪が、歩くたびに歩調に合わせて揺れている。
そのうちに小路が途切れて湖が姿をみせた。翠色の水面は波に揺らめいていたが、傾いた陽射しを反射した湖面は少しだけ暗かった。
ヴィーリアはところどころ木が腐り、崩れかけた桟橋とボート小屋へと近づいた。
わたしを振り返ると「乗りませんか?」と手を差し出した。
「でも……」
桟橋はもう何年も手が入っていないために、使えるような状態ではない。
「問題はありません」
ヴィーリアは指を鳴らした。瞬く間もなかった。桟橋もボート小屋も時が戻ったかのように、あの夏の日の思い出のままの姿を取り戻していた。ボートも一艘、桟橋の先の湖面に浮かんでいる。
「さあ。どうぞ」
わたしの手を引いて桟橋を渡り、自分が先にボートへと移った。それからわたしを支えて揺れているボートに誘い、隣に座らせた。
ボートには櫂もない。それなのにゆっくりと湖の真ん中へと漕ぎ出す。翠色の湖面にボートの曳き波が広がっていく。
ヴィーリアがわたしの婚約者になった日に湖畔を縁取っていたのは黄金色の金木犀だった。
今は背の高いススキが白い穂を垂らしている。リモール山脈やユーグル山脈から吹き降ろされて湖面を渡ってくる冷たい風にゆらゆらと白い穂をゆだねていた。
思わず外套の襟を立てて首をうずめる。
「寒いのですか?」
「ええ」
「ではもう少し私の傍へどうぞ。風除けにはなりますよ」
風がかなり冷たかったため、ありがたくそうさせてもらう。大人しくヴィーリアに近づいた。するとヴィーリアは自分が着ていた黒い外套の前釦を開いた。わたしをもっと引き寄せてその外套の半分で包む。
「これなら少しはましでしょう?」
「……ありがとう」
外套に包まれたおかげで冷たい風に体温を奪われることはない。でも……。
うん。今日は絶対に気を付けなければ。余計なことを考えてはダメ。大切なのは平常心。
わたしの熱はまだヴィーリアに移ってはいない。
「昨夜というか、今朝は……いつまで部屋にいたの?」
気になっていた朝のことを訊く。気を紛らわせるように、湖畔に揺れる白いススキの穂を見るともなく眺める。
「貴女が目を覚ます直前までです」
やはり朝まで部屋にいたらしい。と、いうことは……。
「一緒に、その……?」
「私は眠らないと申し上げたでしょう。……そんな心配をしなくても、ソファで本を読んでいましたので」
その言葉を聞いてほっと安心したと同時に、なにか言いようのない気持ちにもなる。
眠らないヴィーリアは人間のような睡眠を必要としないらしい。
それならば夜をずっと、一人で過ごしているのだろうか。それは……長くはないのだろうか。
『人の理の外の者』の心のうちなど解るはずもない。だけど、胸がちくりと勝手に痛む。
少し感傷的な気持ちになってしまったわたしを紫色の思わせぶりな眼差しが捕らえると、唇の端を意地悪く上げた。
「まあ、しどけない寝姿を期待してもいましたが……貴女では、ねぇ? 先日の寝姿も……」
そして、なにかを思い出すように、唇に手の甲を充て残念そうにくすりと哂った。
……寝姿って? なに!? 一体なにを思い出してるの!?
『ねぇ?』って? え!?
もしかして……わたしの寝相って……すごいの?
寝ぐせもかなりあれだが、寝相って、そんな。恥ずかしさでかっと顔に血が上る。頬が熱い。
ヴィーリアはわたしを面白そうに眺めてから「まるで楓の葉のようですね。ほんの冗談ですよ」と笑った。
うう……悔しい。
「……本当に悪趣味。冗談にしては不適切よ」
紫色の瞳を睨んだ。涼しい顔をしているのも癇に障る。
ヴィーリアはいつものように余計な一言を忘れていなかった。
心配なんかするんじゃなかった。でも……そんな必要はなかったことにも、どこかでほっとしている。
ふいに、以前にもこんな風に二人でボートに揺られて、ヴィーリアが笑っていたような気がした。そんなことはない筈なのに、おかしな既視感を覚えた。
それにしても……本当にわたしの寝相は大丈夫なのだろうか? 今度、ベルに訊いてみよう。
吹きつけた風にヴィーリアが髪を押さえた。耳元を風の音が抜けていく。冷たい風は頬の熱を冷ます。外套に籠り出した熱も奪っていけばいい。
「……昨夜はどうでしたか?」
「……司祭様にも会わなかったわ」
深く深く眠っていた。たぶん、夢さえ見ていないように思う。
「私が傍にいますから」
当然だという口ぶりだ。
「依代を徴収されたのにも気が付かなかった」
「ええ。そのようでした」
「……約束よ。契約の解き方を教えて」
ヴィーリアの横顔を見上げる。
「その前に……」
ヴィーリアは黒い外套のポケットからなにかを取り出した。小さくて丸い……木枠に嵌った鏡だ。
「それ!?」
思わず鏡に手を伸ばすと、ひょいと腕を上げて躱された。
ヴィーリアの白い手の中にあったのは探していたあの鏡だった。そういえば、あの朝には寝台にヴィーリアもいた。
「どこにあったの?」
「……貴女の寝台の枕元です」
シャールか屋敷の誰かの落とし物だと思っていたから、まさかヴィーリアが持ち去った可能性は考えもしなかった。
「貴女は、なんというか……。大胆かと思えば怖がりで、慎重かと思えば軽率で……」
ヴィーリアは煩わしそうに眉をひそめて、手の中の鏡を見ている。
「その鏡はたぶん、見習い司祭様か司祭様の物なの。大切に使われていたようだから返してあげな……きゃ!?」
ヴィーリアが長い指をゆっくりと開いた。手の中から鏡が零れ落ちる。とっさに手を伸ばすも間に合わずに、丸い木枠の鏡はぽちゃんと小さな水音と水沫を立てて湖の中に落ちた。
鏡をさらおうと身を乗り出して、水中に突っ込みかけた腕をヴィーリアに掴まれて止められる。
鏡は小さな泡を立てながら翠色の水に沈んでいった。
「あ……」
「そして……呆れるほどのお人好しですね」
わたしを見下ろしながら平然としている。
「ちょっと! なんてことをするの? あの鏡はきっと大事な……きゃあ!?」
ヴィーリアはわたしを仰向けに転がしてボートの底に押し倒した。顔の横に両手を張り付けられて、冷たい手に繋がれた。指に長い指を絡められる。白銀色の髪は傾いた陽光を反射して艶やかに光り、わたしの胸にさらさらと流れて落ちてくる。
ヴィーリアの肩越しに広がる空は、薄い青色の中にも橙色の光が混じり始めていた。
わたしを覗き込む紫色の瞳は空の陰になって灰昏い。
ボートは湖の上で右に、左にとゆっくりと揺れていた。
「私が貴女と契約をしたときに、我々が対価をどう回収するかという話をしたことは覚えていますか?」
じっとわたしを見つめるヴィーリアは静かに訊いた。
表情は淡々としていて……いや、少し苛立っているようにも見えた。なにか怒っている?
でも今はなにも、焦げたような匂いもしない。
「ミュシャ?」
ヴィーリアが応えないわたしに首を傾げた。
ああ……ええと、確か。
「わたしの命の炎が尽きた後、ヴィーリアが迎えに来るって……」
「そうです。しかし、正確には貴女の命の炎が宿命に従い尽きた後、です」
「宿命に従い? どう違う……」
そこまで言って、気が付いた。
わたしを繋いでいるヴィーリアの指に心なしか力がこもる。
もしかして。
「……わたしの命が宿命通りに尽きなかったら、契約は解かれるの?」
「そういうことです」
でも。
「宿命通りに尽きるとか、尽きないとかって……?」
「貴女の未来は全てが決定しているわけではありません。その時点で現在となる選択によって幾重にも変化が生じます。ただし、この世界に命を持ったときに決められている種類のものもある。解り易く例を挙げるとすれば……生まれや容姿、なにかの才能などです。それが宿命であり、人の理です。貴女が輪廻の輪に還るまでに過ごす時間も決まっていました」
なんだかややこしいけど、つまり……。
わたしの命の炎が、輪廻の輪に還るまでの決められた時間を全うして自然に消えれば宿命通りに尽きて、決められた時間を全うせずに不自然に消えれば宿命通りに尽きない、ということだろうか。
だけど不自然に消えるということは……。
なにか嫌な予感がする。大抵、嫌な予感というものは当たってしまうものだ。
「宿命通りに尽きないということは、その命を途中で手折られた場合です」
ヴィーリアはいつも通りに平然と言ってのけた。
「……」
手折られるって、つまり、そういうことだよね? あまり言葉にもしたくないけど……命を奪われる、ということでしょ?
『でも、考えておいて。僕はお嬢さんの、その契約を解いてあげられるかもしれない……』
ロロス司祭様の言葉が鮮明に頭の中に蘇る。
司祭様に『こっちへおいで』と手を差し出されたときに、あまりにも神々しい清廉さを畏れた。
わたしという存在の痕跡を全て消し去って、一滴の染みさえ許されずに真っ白に染められてしまうような畏れを感じた。その後に残るのはわたしだけど、わたしではない者だという予感。ある意味でそれは正しかったということだ。
それはつまり、司祭様はわたしを……強制的に輪廻の輪に戻そうとしているということ。
今さらながら、ぞくりと肌が粟立つ。
「理解しましたか?」
言葉もなく肯くと、絡められていた片方の指が離されてわたしの眉間を軽く押した。
「ほら、また。貴女には……私がいます」
その途端にヴィーリアの表情はふわりと蕩ける。なぜだか完璧な婚約者の微笑みをわたしに見せた。
この男はいつも……ずるいと思う。
今は。
そう、今はまだヴィーリアがいる。
だけど、わたしの願いの成就を見届けたら還ってしまう。
闇の中に微かに輪郭をなしていたグラスをぼんやりと眺めた夜にも考えたことだ。
それは何時?
司祭様の件が解決したら?
男爵家の事業が本格的に軌道に乗ったら?
シャールと伯爵のことにある程度の結論が出たら?
何時還ってしまうのだろう。だけど、口には出せない。
……それを訊いてしまったら、自分にも負けてしまうような気がするから。
△▼△▼△
湖に鏡を沈めてから数日が経っていた。
ヴィーリアは夜、わたしに眠りの魔術をかけては朝に目を覚ます直前に客間へと戻っていく。
深い眠りに落ちると、夢も見ない。朝の依代の徴収にも目を覚ますことはない。
途中で起こされずに、ぐっすりと眠ることができるおかげでなんだか体調もよい気がする。
ロロス司祭様にもあの夜以来、会うことはなかった。
ヴィーリアは毎晩、ソファで本を読んでいるらしい。
ベルにそれとなく寝相のことについて訊いてみると「お嬢様の寝相……ですか? それは、まあ、幼い頃はそれなりでしたが。今? 今もまあ、それなり……なのではないでしょうか?」と、つつと視線を逸らされながら返された。
……ううん。よく分からない。
なにしろ眠っているのだから、自分では分からないのがもどかしい。
公都にいるお父様とお母様からも手紙が届いた。
アロフィス侯爵家を訪れて感謝の意を伝えた後、シャールとフェイ、ノルンにも会えたそうだ。三人とも元気だと書いてあった。驚いたことに、ベナルブ伯爵も公都に向かうお父様たちの後を追ったらしい。シャールが頼りにしているノルンが気になって居ても立っても居られなくなったとか。これは、お父様も人が悪い。わざと伯爵には教えなかったのだろう。ちょっとした意趣返しだ。
ノルンはお父様よりも少し歳が上の女性だ。お母様のお友だちの姉だった。その伝手でわたしたちの家庭教師をしてくれていた。
お父様はまだ、伯爵がシャールを正式に訪ねるのを許してはいないそうだ。お父様がどのくらいの期間を考えているのかは解らないが、こればかりは仕方がないだろう。
お父様とお母様はアロフィス侯爵家にもうしばらくは滞在するとのことだ。ヴィーリアにもくれぐれも宜しくと書かれていた。
「今夜は出かけましょう。準備をしておいて下さい」
夕食を終えた後、部屋に戻る途中でヴィーリアが言った。後で迎えにくるという。
夜に散歩?
どこに行くつもりなのかと尋ねると、それには答えずに「楽しみにしていて下さい」と言った。
それから一時間ほどした後で、わたしたちは満月に近い月が照らす夜の山の中にいた。
読んでいただいてありがとうございます(*‘∀‘)