31 教えてほしい
レリオは無事に侯爵邸に戻れただろうか。ヴィーリアに焼き栗の袋を膝の上に乗せられて固まってしまい、ぎくしゃくとした動作のままで蒼い光の柱の中に消えたが……。
彼女の都合などお構いなしに突然リモールに呼び出し、その上、数時間も待機させた。おそらくレリオも仕事中だっただろう。あちらの魔術師にも迷惑をかけたに違いない。今度、改めてレリオにお詫びを兼ねたお礼をしなければ。
そんなことを考えながら、灯りを消すために寝台脇の棚の上に置いたランプに手を伸ばす。
ふと、気配を感じて後ろを振り返った。枕元にヴィーリアが腰をかけていた。
……うん。もうね、慣れた。慣れたとはいえ、心臓にはとても悪い。
そして今も、客間に帰らずにそのまま居座っている。
「わたし、眠いの」
「どうぞ。おやすみください」
「じゃあ部屋に戻ってよ」
「私のことはお気になさらず」
「そういう問題じゃないの」
わたしはガウンを羽織ったままクッションを抱えて、寝台に座っていた。
さっきから同じようなやり取りを繰り返している。
午後に町を歩き、買い物をした。書店と図書館で調べものもした。中央広場では騒ぎの中、ヴィーリアが酔っぱらい男を見事に石畳の上に放り投げた。手を引かれながらランプが灯る町中を走り抜けた。
夕食の後にお湯も使い身体も温まっている。就寝するにはいつもよりも早い時間だが、眠りたかった。
それなのに、ヴィーリアは寝台の枕の横に腰を下ろして背もたれに身体を預けている。床に投げ出した足を無造作に組み、書店で購入した『神聖術の体系と司祭』の頁をなんの気なしにぱらぱらと眺めていた。
「読みたいなら持っていっていいわ。戻って部屋で読んで」
「こんなものは暇つぶしにもなりません。そうですね……どうせ読むなら貴女のご趣味のもう一冊の本がいいですね」
にこりと笑うと『神聖術の体系と司祭』をテーブルの上にぞんざいに放った。
……。
『下着大全~あなたを誘う魅惑の世界~』なら、革の表紙をかけて図書室の一番奥にある書架の棚の隅に隠すように押し込んできた。木を隠すには森の中というように、本を隠すのなら図書室の中。
「……読みたいなら図書室にあるわ」
「では、明日にでもご一緒にいかがですか?」
「読まないわよ!?」
「それは残念です」
そう言って、たいして残念でもなさそうに口角を上げる。
……ヴィーリアが部屋に戻らない理由は、おそらくロロス司祭様だ。
集合的無意識の中で……わたしには、はっきりとした夢の中としか思えないのだが……その中で司祭様がわたしに接触してくるのを警戒している。
心配されているのは解る。だけど……。
あの雷の夜を思い出してしまう。
釦を外したシャツの襟首から覗いた白い肌。背中に回された腕の重みと、赤子をあやすように優しく背中を叩かれた調子。まるで揺りかごの中にいるような、護られているという深い安心感。
わたしの熱が移った肌は温かかった。
バニラよりも濃厚で魅惑的な甘い香りを吸い込んで眩暈がした。それから、とんでもなく想定外の……顔から火が出る、なんてことくらいでは済まない恥ずかしい思いをした。二度とあのような気持ちを味わいたくはないし、それ以上の惨状なんて絶対にご免だ。
ヴィーリアと一緒になんて、眠れない。
……髪の毛の寝ぐせだって見られたくはない。
「戻って。じゃないとわたし、眠れない」
「なにを今さら……ともに朝を迎えたでしょう?」
しっとりとした声で囁いて、紫色の瞳に夜の欠片を忍ばせてわたしを流し見る。
……お願いだから、その言い方をやめて欲しい。人が聞いたら絶対に誤解されるから。そう伝えてはいるのだが、一向に改善されない。わたしをからかうのを止めるつもりはないらしい。なので、あえて聞かなかったことにする。
「夢の中で……というか、もし、眠ってからロロス司祭様にお会いしてもきちんとお断りするわ。だから……」
意識が流されたあの真っ白な空間は、実体ではなかったが身体としての感覚はあった。意識だけなら司祭様と弾き合うこともなかった。司祭様の調子は軽かったし、話をしただけ。油断をしているわけではない。でもそれだけなら、そんなに心配することはない、とも思うのだが……。
「そういう問題ではありません」
「昨夜も、司祭様とは話をしただけよ」
「……意識の深層で接触をしてくるのなら、貴女では対処できない」
「なにかあればすぐに呼ぶわ。来てくれるでしょ? だから大丈夫」
ヴィーリアは重々しく首を振った。
「……私はそこに入ることはできません。あの領域は人間たちにのみ許された場です」
「でも、昨夜は……」
ロロス司祭様はあの場所で、確かにわたしの後方に注意を向けた。ヴィーリアの存在を感じていたようだった。
「本来なら我々は立ち入ることのできない領域ですが……。貴女と私の魂の一部は繋がっています。おそらくその影響でしょう。ただし、私が感知できたのも、送ることができたのも気配だけです」
「……」
ロロス司祭様と話をするだけなら、問題はないように思う。しかし、もしも、あの場所でなにかが起こったら、ヴィーリアはわたしを助けにくることはできない。ヴィーリアが気配を送っても司祭様が引き下がらない場合や、強制的に契約を解かれるような事態に陥ったとしたら……。
今のままでは、どうしたって抗うことはできない。
……司祭様に『こっちへおいで』と手を差し出されたとき、あまりにも神々しい清廉さのために畏れを抱いた。
ヴィーリアに感じた禍々しい恐れとは違う。
わたしという存在の痕跡を全て消し去って、一滴の染みさえ許されずに真っ白に染められてしまうような畏れ。その後に残るのはわたしだけど、わたしではない者。
言われるままに手を取り、ロロス司祭様に委ねてしまったら取り返しのつかないことになるという予感もあった。
やはり、わたしもヴィーリアとの……『人の理の外の者』との契約を解く方法は知っておくべきだ。
知っていれば最悪の事態が起きたときにわたしが一人だったとしても、それを回避するためにできることがあるかもしれない。
「またそのような顔をして……。 心配は要りません。私が傍にいれば神殿の影響は受けにくいと言ったでしょう?」
ヴィーリアは手を伸ばして、長く、冷たい指でわたしの眉間を軽く押した。
その手を除けて、クッションを抱えたままヴィーリアの隣に躙り寄る。
「……どうかしましたか?」
いつもならわたしからこんなに近づくことはまずない。ヴィーリアは不可解だという表情で問う。
わたしは紫色の瞳をじっと見つめた。
「……聴いて。もし、ヴィーリアが傍にいなかったとしても、知っていれば……なにか起こったとしても、わたしでも対処できることがあると思うの」
「……」
「だから……ヴィーリアとの契約を解く方法を教えて」
紫色の瞳が深い色に変わっていく。ほとんど黒に近い紫色。
「どうやら私を見縊っているようですが……貴女はそんな心配はしなくていい。私の傍にいればいいだけのことです」
声も低くなる。
護られていることはとても心地がいい。その安心感は知っている。家族や屋敷の皆、ヴィーリアにも教えてもらった。
その反面、護られているだけというのは、歯痒いし、不安だ。
護ってくれる者や自分のためになにもできないのは……嫌だ。
わたしは強くはない。力もないし、背も低い。運動不足で体力もあまりない。魔術も使えないし、体術も使えない。でも、そんなには弱くないと思う。
なにかできることがあるはず。できることをしたい。
これは魅了にかけられていないわたしの意思だ。
「……なん度も言うけど、わたしはあなたとの契約を解く気は絶対にない。信じて」
自分の意思で『人の理の外の者』を召喚してヴィーリアと契約をした。その願いを覆す気は毛頭ない。願いは叶えてもらった。対価はきちんと支払う。
黒と見紛うほどに深い色に変わった瞳から目を逸らさない。
「私も、神殿に契約を解かせる気はありません。貴女を手放す気もありません。……私を信じていないのですか?」
ヴィーリアは組んでいた足に肘をつき、その手の指でこめかみを支えた。
「そういうことじゃないわ」
「貴女は私を頼っていればいい」
「頼りにしてる。でも、それとこれとは別のことなの」
「……頑固ですね」
「お願い」
胸の前で両手を強く組んだ。
ヴィーリアの深い色の瞳に昏く赤い炎と、それとは正反対の理知的な青い氷が宿されたようだった。瞳の表情を交互に変えながら、しばらくの間わたしを見ていた。そして目を伏せて、ため息をついた。
「ただし……」
ヴィーリアはゆっくりと口を開いた。
渋々といった感じではあるが、教えてくれる気になったようだ。
「……なにかしら?」
「夜は、私はここにいます」
それが絶対条件だと、言い聞かせるように付けくわえた。
それは……。
また、話が堂々巡りになってしまう。
わたしが黙り込むと再び眉間をこつんと押された。
「ご心配なく。私は眠りません」
「眠らない?」
「我々には人間のような睡眠は必要ないということです」
「……そうなの?」
以前に夢は見ないと言っていた。眠らないから夢は見ない。そういうことなのだろうか。
ヴィーリアの冷たい手がすっと瞼にかざされた。
なにかの魔術にかけられたと思う間もなく、瞼が重くなって目を開けていられなくなる。
……待って。ちょっと、待って。今、教えてくれるんじゃないの?
身体が寝台に崩れるのを抱き止められた。引きずり込まれるような眠りに落ちていく。
重くなった瞼が完全に閉じるその前に、ヴィーリアの優しい声が聞こえたような気がした。
「だから……安心しておやすみなさい」
△▼△▼△
朝に目を覚ましたときにヴィーリアはすでに部屋にはいなかった。
左耳に手を充てる。
今朝は依代を徴収されたのだろうか?
魔法陣からの熱と疼きにも、わたしは目を覚まさなかったらしい。よほど、ヴィーリアの眠りの魔術が効いていたようだ。
後頭部の髪も撫でてみる。
……寝ぐせは、うん。今日は大丈夫だった。
ヴィーリアは朝食の席では相変わらずの好青年ぶりを発揮して、ベルとルイの頬を桃色に染めさせている。
昨夜のことはこの場で話せることではない。
朝食が済むと、ヴィーリアを待っていた鉱山の責任者や技師たちと一緒に執務室へと入ってしまった。
後できちんと説明してもらおう。
「お嬢様……かなりの量ですね」
「……そうね」
午前のうちにリモリアの服飾品店からヴィーリアが買い上げた荷が届いた。馬車を三台使って届けられたそれらの箱は今、わたしの部屋の中にちょっとした小山のように積み上げられている。部屋に入りきらない分は廊下に置かれていた。
あまりの荷の多さに、わたしとベルとルイで呆然とそれらを眺めていた。それでもベルとルイはどことなくうきうきとしていて、楽しそうでもあった。
「さあ……では、なんとかお昼までに片付けてしまいましょう。ルイ、箱を順番に開けていって」
「はい」
ベルがルイにてきぱきと指示を出す。
わたしも箱に手を出そうとすると、ベルに止められた。
「お嬢様は衣装棚のどこになにを仕舞うかを考えて、わたしにおっしゃって下さい。……これだけあると上手く収納しないと入りきらなくなりますから」
こんなに大量の荷ほどきがあるのに、ベルはそう言って上機嫌で笑った。
「ずいぶんと楽しそうね。こんなに沢山あって大変……」と言いかけたところで、ベルが興奮して言い募る。
「それはそうですよ。お嬢様はお年頃だというのに衣装棚はがらがら。残してある衣装も暗くて地味な……いえ、あの、落ち着いたものばかりで。もう、半分諦めていたのに……。でも、これでやっと、お嬢様を思う存分着飾らせることができます! 腕の見せ所です! ヴィーリア様に感謝です!」
満面の笑みのベルの隣で、ルイもうんうんと肯いていた。
こちらが圧倒されるような、これまでにも見たことがないようなベルの張り切り具合だ。
節約第一だったから、衣装棚がすっきりとしていたのは仕方がない。
それにしても、ベルがそんなにもわたしを着飾らせたいと考えていたなんて知らなかった。
今まではドレスはただそのまま袖を通すだけ、髪も小物類を少しつけるだけ。……さぞかし飾り立て甲斐もなかったことだろう。
確かに、もっと華やかなドレスを着てはどうかと、お母さまにもベルにもさんざん言われていた。
でも、フリルやリボンやふわふわな甘い感じのものは、似合わない。
それに、わたしの趣味って、そんなに暗くて地味……?
ルイは黙々と箱を開けていく。
わたしの気に入っているお店で購入したが、品物を選んだのはヴィーリアだ。
ドレスや靴、小物類にしても、デザインは決して派手というわけではないが若々しい印象を与えるものが多かった。色や柄は、黒檀色の髪と琥珀色の瞳や肌の色に合うものだ。総じてかなりわたしの好みに沿っている。
ここから向こうの棚までなどという適当で大雑把な注文をしていると思ったが、意外にもきちんと選んでくれていたらしい。
ベルはそれらを衣装棚に収納しながら「まあ。素敵!」「お嬢様によく似合いそうです」と口も手も忙しく動かしていた。
つまり、ベルが言っていた『暗くて、地味』はお店の商品のせいではなく、選び方の問題だったということだ。少し複雑な気もするが、喜んでくれているので、まあ、いいか。
お昼までに三人で、なんとか廊下にまで積んである荷物を片付けた。
午後は図書室で仕事をしていた。
きぃと扉の開く音がする。振り返ると、入ってきたのはヴィーリアだった。
「お疲れ様。もう、打ち合わせは終わったの?」
「まあ、今日の分は」
目の前の椅子に腰を下ろして足を組み、さっそくタイを弛めている。
「貴女はどうですか?」
「もう少しで一息つくわ」
「そうですか。では……私と一緒に、少し散歩にでも行きませんか?」
読んでいただいてありがとうございます( ^^) _旦~~