30 魅了
「貴女は質問に質問で返す癖がありますね。私が先に、なにをしているのかと訊いたのです」
光を宿した紫色の瞳は暗闇で光る猫の目のようだと、いつかも思った。
「……夢の中で司祭様が言っていたことが気になって……。夢だとは思ったけど、確認したかったの」
「夢、ね。神殿というものは……まったく鬱陶しい」
ヴィーリアは心底苦々しく眉根を寄せた。
わたしたちの周りには図書館の利用客はいなかった。おかげでこの不用意な発言は誰にも聞かれずに済んだ。
「それで? 昨夜は『魅了』の他にはなにを吹き込まれたのですか?」
「昨夜って……知ってたの?」
「微かに気配を感じましたので」
そういえば昨夜、どうしてここにいるのかと尋ねると、そんなことを言っていたような気がする。
「司祭様は……契約を解いてあげられるかもしれないって」
「……」
ヴィーリアの眉間がさらに寄る。
「契約を解いてもらう気はないわ」
慌てて言い添えた。以前のように誤解されて、なにをされるかわからないのはご免だ。
ヴィーリアはわたしの真意を測るように瞳を覗き込んだ。
うっすらと光る紫色の瞳に吸い込まれるような錯覚を覚えて、思わず顔を右横に逸らした。そのまま左耳の縁で熱を含んだ声で囁かれる。
「当たり前です。……貴女は私のものです」
ヴィーリアはいつもそう言う。契約者には漏れなくそう囁いているのだろう。
「……それで、魅了ってなんなの?」
ヴィーリアは左手だけを書架から離した。冷たい指先でわたしの頬を撫でていく。そのまま顎を指先で持ち上げて正面を向かせた。わたしは真っすぐにヴィーリアを見据える。
「……魂を対価とした契約者にかける、心を虜にする魔術です」
「そんなことをする必要があるの?」
「人間の心とは移ろいやすいもの。それこそが魅力でもあります。しかし……契約の途中で気を変えられると大変面倒ですので」
『心を縛るにはそれが一番手っ取り早い』と司祭様は言っていた。
紫色の瞳の底はまだ光をたたえている。
「わたしには……かけたの?」
「貴女にはかけていません」
『……安心して、っていうのもおかしいけど……お嬢さんには、魅了はかけられてない、ね。』
ロロス司祭様が言っていたことと同じ。それに、ヴィーリアはわたしに……契約者に嘘はつけないと言っていた。
「どうして?」
「さぁ……? そのほうが面白そうだったから。でしょうか」
そう答えて唇の端を少しだけ上げた。
面白そう? そんな曖昧な理由?
「魅了にかけられると、どうなるの?」
「そうですね……控えめに言っても、私に対して非常に好意的になります」
非常に好意的……。 控えめに言っても?
ほかの契約者にもわたしと同じに、慇懃無礼な態度をとっていたのかどうかは知らない。でも、ただでさえ表の顔は完璧な人たらしだ。書店でも短い時間でそれを遺憾なく発揮していた。もし、そのような態度で接した上で、魅了なんていうものにかけられたら……。
きっと、ヴィーリアに心酔しきってしまうだろう。自分の意思かどうかも判らないままに。
いや、なにか、想像するだけで……色々と怖い。
ここは魅了にかけられなかったことを素直に喜ぶべきだ。理由はともかくとして。
それと……。
「……魂に刻印されることと、魅了は同じようなものなの?」
「異なるものです。紋章の刻印は所有の証ですので」
それなら……あの気持ちは刻印のせいではない、のか。
「……これからも絶対に魅了はかけないって約束して」
「約束ですか……。まあ、いいでしょう」
ヴィーリアは顎を持ち上げていた指を外した。胸元にかかった白銀色の髪を後ろに払う。
伏せた瞳と再び目が合ったときには瞳の中の光は消えていた。
「まだ、ここに用事がありますか?」
図書館の閉館時間も近づいている。『魅了』のことは解った。『心の治療』のことはもう少し調べておくべきだろうか? 昨夜のことを話してしまったのだからヴィーリアに尋ねてもいいのだが、答えてくれるのは訊いたことだけだ。魔術古文書と同じで、肝心なことを黙っていることもある。
それと……『人の理の外の者』との契約を解く方法。
ヴィーリアとの契約を解く気はない。でも、知っておいた方がいいのかもしれない。神聖術関連の本に記述はあるのだろうか。それとも魔術関連の本なのか。それとも……ヴィーリアに訊いたら素直に教えてくれる? とはあまり思えないけど。
「取りあえず……何冊か、神聖術の本を見たいわ」
ヴィーリアはあまりいい顔はしなかった。それでも灰暗い書架の間を二人で足早に探し、棚に数多く並ぶ神殿や神聖術関連の本の中から『神聖術』や『治癒』と『治療』の文字が入った題名の本を何冊か手に取った。ぱらぱらと頁を捲るが、書店で購入した『神聖術の体系と司祭』以上の記述はなかった。目次にも『契約の解除』というような項目は見当たらない。図書館にもなければ、これ以上は調べようがない。魔術関連の本も探したかったが、ちょうど閉館を告げるベルが鳴らされた。
図書館を出ると陽はすでに落ちていた。山の端には橙色とも赤みがかった桃色ともつかない空が残っていた。それもあと少しで夜の色に染まるだろう。空気はだいぶ冷えていた。
大通りには沢山のランプが灯り、お店や屋台からは魚や肉を焼く香ばしい匂いが流れてくる。
中央広場の人出は夕方前よりも多かった。屋台のテーブルで食事をしている人たちも大勢いる。お店の呼び込みも賑やかで盛況だ。
町がこんなにも活気に溢れているのは嬉しいことだ。
ヴィーリアも言っていたが、リモールにはこれからますます人が集まるだろう。
「ねえ、お土産に焼き栗を買いましょう」
掴まっていたヴィーリアの腕を引くと、わたしの顔を見てふっと笑った。
「忘れていなかったのですね。焼き栗はお好きですか?」
「好きよ。ほくほくして、ほんのり甘くて美味しいもの」
屋敷裏の湖畔の森に栗の木はないが、リモールの村には栗林がある。秋には茶色く艶々とした栗の実が市場に並ぶ。この時期には、お父様たちが町に降りるとお土産に焼き栗を買ってきてくれた。秋の楽しみの一つだった。
近くの屋台で大袋を二つ注文する。店主のおかみさんが大きな窯の中で煎った栗をスコップに掬う。それを豪快に袋に流し込んだ。
「はいよっ。熱いから気をつけてね! お兄さん男前だからおまけしておいたよ! 毎度ありぃ!」
威勢のいいおかみさんに「それはどうも」とヴィーリアが微笑む。焼き栗の袋を受け取ったその時に、後ろの方でなにやらざわざわと騒ぎはじめた。大きな怒鳴り声や囃し立てるような声が聞こえる。なんだろうと振り返ると「ああ、またか」とおかみさんがため息をついた。
「なんですか?」
「最近人が多くなっただろ? よそ者が酔っ払って騒ぎを起こすんだよ。景気がいいのはありがたいんだけどねぇ……。すぐに自警団も来るさ。お嬢さんたちは巻き込まれないうちに帰った方がいいよ」
自警団はリモリアの治安を維持するための組織だ。リモール領の騎士爵を持つ家門や有志が中心となっている。自警団の統括は領主であるお父様だ。
帰ったほうがいいと忠告されても、聞いてしまったからには帰るわけにはいかない。様子を見に行こうとするとヴィーリアに腕を掴まれた。
「ミュシャ」
ヴィーリアは行くなと首を振った。
「でも、このまま黙って帰ることはできないわ」
「貴女になにができるというのです?」
「あら、ヴィーリアがいるじゃない」
にこりと微笑む。
ヴィーリアはわたしをまじまじと見つめると呆れた顔で大きなため息をついた。
「……まったく、貴女という人は……清々しいほどに開き直りましたね」
ヴィーリアに腕を掴まれたまま、騒ぎを遠巻きに眺めている人たちの間を縫った。
「自警団はまだか」「最近、多いわね」などという声が耳に入る。
人垣がきれたところでひょいと顔を出して騒ぎの現場を覗いた。
明らかにお酒に酔っている者たち数人が屋台の周りで暴れて騒いでいた。テーブルと椅子が倒されている。周囲の屋台の店主とお客さんたちは少し離れた場所に避難していた。その酔っぱらいたちが飲んでいる屋台の店主が彼らを止めようとしているが、まったく相手にされていない。
……これはちょっと、酷い。
まだ自警団が駆けつける様子はない。
騒いでいた中でも大柄な男が、遠巻きにしていた人たちに近づいていく。その中にいた一人の女性の腕を掴むと仲間の方へと引きずった。
「きゃあ!? なんですか!? 離して! いや!」
「おいっ!? なにをするんだ! 止めろ!」
女性は必死で抵抗する。連れと思われる男性も大柄な男を止めようとしたが、小突かれて転んでしまった。
「ちょっと! いい加減にしなさいよ!」
気が付くと一歩前に出て叫んでいた。
「ああ、なんだぁ?」
大柄な男は首をぐるりと回してわたしに目を止めた。この時間からすでに顔を真っ赤にしている。
いくらなんでも飲みすぎでしょ。
「おや~? ……やけに威勢がいいから誰だと思ったら。可愛いらしいお嬢ちゃんじゃないか。お子ちゃまはお家に帰っておねんねの時間ですよ~」
酔っぱらいの明らかに侮ったからかいに、その仲間たちからゲラゲラ笑う声と一緒に「そうだぞ」「子どもは帰りな」と野次が飛んだ。……誰が子どもだ。
だが、そんなことには動じないとばかりに不敵に笑ってみせる。
「その辺にしておかないと、ただじゃ済ませないわよ」
わたしではない。ヴィーリアが。
「ほう~。なにがどう済まないのか教えてもらおうかなぁ。それともお嬢ちゃんが酒の相手をしてくれるのかな~」
大柄な男は女性の腕を離した。彼女は転んでしまった連れの男性に駆け寄り、助け起こすとわたしを心配そうに見た。大丈夫と肯いてみせる。
大柄な男はにやにやと笑いながら近づいてきた。わたしを捕まえようと太い腕を伸ばす。
すっとヴィーリアがわたしと男の間に入った。そして、その大柄な酔っぱらいの太い腕を掴んでいとも簡単に捩じり上げる。
「おわっ。なんだお前? ……痛いっ! いてててててっ!」
ヴィーリアは男の太い腕を軽々と捩じり上げたまま、振り返って「そんなに煽るものじゃありません」と渋い顔をした。
「くそっ! 離せっ! この優男が!」
男は反対の手で、ヴィーリアの顔をめがけて拳を振り下ろした。だが腕を捩じり上げたままのヴィーリアは軽々とその拳をよけた。そして、捩じり上げていた腕を離す。ほんの一瞬の間に、振り下ろされた腕を両手で掴む。そのまま酔っぱらいの懐に入り込んだと思ったら、次の瞬間には大柄な酔っぱらい男は投げられて背中から石畳の上に倒れていた。
速過ぎてなにがどうなったのか分からない。見えなかった。
酔っぱらい男の仲間も、不安げに騒ぎを遠巻きにしていた人たちも、わたしも、一瞬、水を打ったように静かになる。
それから、歓声が上がった。
ヴィーリアは乱れた髪をかき上げた。涼しい顔で外套の襟を直し、埃を払っている。
「……お前、なにしたんだよ」
「このっ、調子に乗りやがって!」
我に返ったらしい酔っぱらいの仲間たちがヴィーリアを取り囲むと、遠巻きにしていた人たちから声があがった。
「いい加減にしろ!」
「町から出ていけ!」
その非難に酔っぱらいの仲間たちが怯むと、警笛が響いた。自警団だ。
「ミュシャ。行きますよ。後は自警団とやらに任せましょう」
ヴィーリアはわたしの手を握ると人の中に紛れるように走り出した。
中央広場を抜けてもしばらく走り、人気のない路地裏までくるとやっと足を止めた。
わたしの息は切れ切れで乱れている。呼吸も荒い。しかしヴィーリアは顔色一つ変えていない。もちろん息も切れていなかった。
「貴女はもう少し身体を動かした方がいいですね」
分かってはいるのだが運動は苦手だ。子どもの頃はそうでもなかったけど。
ぜいぜいとした荒い息をなんとか落ち着かせる。
「……さっきのは、魔術なの?」
「ただの体術です」
ヴィーリアはこともなげに言った。
「凄かったわ」
あの大柄な男が細身のヴィーリアに投げられて宙に舞った。
思い出すと胸がすくようだ。
「とても、かっ……」
そこで止まった。かっ? あれ? わたしは……なにを言おうとしてたの?
頬がかっと熱くなる。慌てて両手で頬を隠した。
「とても?」
ヴィーリアは唇の両端を上げた。紫色の瞳を見ることができない。
「とても……ありがとう」
「まあ、たまには悪くはないですね」
ヴィーリアがわたしの手を取り直し、腰に腕を回した。
「帰りますよ」
途端に視界がくるりと回転した。
応接室の床に着地すると、また少しふらついた。ヴィーリアが支えてくれる。転移魔術によって気分は悪くはならないが、着地は苦手かもしれない。
「ただいま」
ソファの上でレリオは小さく畏まっていた。わたしにだけ顔を向けてこくこくと肯く。
「今日はありがとう。無理をさせてごめんなさい。……なにか食べたいものは作ってもらったの?」
「……はい。肉を焼いてもらいました。美味しかったです」
小さい声だったが、裏返りはしなかった。少し慣れてきたのかもしれない?
「そうなの。よかったわ。お土産も買ってきたの」
そういえば……焼き栗の袋はどうしただろう。
「はい。ご苦労でしたね。これを持って侯爵邸に戻っていいですよ」
横から手が出て、ヴィーリアが焼き栗の入った袋をレリオの膝の上に置いた。
ぴしっというレリオが固まる音が聞こえたような気がした。
読んでいただいてありがとうございます(*'▽')