3 人間の理の外のもの
弛く一つに束ねた白銀色の艶々とした髪が床につきそうなほどに恭しい礼を取ったソレを、茫然と見つめる。
ということは。
ということは……。
ということは…………!
一応、成功? したの? わたしの願い、叶えてもらえるの?
「は、ははは……」
身体中から一気に力が抜け、床にへたり込んだ。安堵のあまり腰にも足にも力が入らない。まさか夢じゃないよね? 今さら夢とかいわないよね?
「お嬢さん。どうかしましたか?」
座り込んでしまったわたしに、ソレが手を貸して引き上げてくれる。やっぱり冷たい。腕は細い割には筋肉質だ。
「……召喚は成功したのね? あなたがわたしの望みを叶えてくれる、悪魔なのね?」
「……」
「あの……早速、お願いしたいことがあるの」
ソレに掴まれている腕からは、総毛立つような禍々しさが悪寒として伝わってくる。しかし我ながら現金なもので、願いを叶えてくれる救世主だと分かった途端に、あまり気にもならなくなる。
これで、これでもうシャールが借金の形に、悪名高いベナルブ伯爵に嫁がなくてもいいのだ。お父様は小さな領地を手放すこともない。少ない給金で残ってくれた屋敷の者たちにも報いることができる。万々歳ではないか!
「なんなりと。……ですが、その前に一つ」
「なにかしら?」
「私を“悪魔”と呼ぶのはやめていただきたい」
ソレが無邪気そうに、優雅に美しく微笑む。薄暗い地下室に美しい花が咲いたようだ。まさに、こぼれるような微笑みだった。しかし、その微笑みとは裏腹にとてつもない悪寒が背中を駆けた。
「魔術古文書にはそう書いてあったのだけど……?」
「それは人間たちが勝手にそう呼んでいるだけのこと。我々は人間の理の外に存在しているものです」
「……そうなの? わかったわ」
冷たい汗がたらりと背中を伝った。本当はなにもわかってなどいないが、もっともらしく肯いてみせる。願いを叶えてくれるなら悪魔だろうと、妖精だろうと、妖だろうとなんだってかまわない。だけど、ソレがそう呼ばれたくはないのなら、気持ちよく契約を履行してもらうためにそうは呼ばない。
では、なんと呼べばいいのだろう。……そもそも人間の理の外ってなんなの?
「私のことはどうぞヴィーリアと呼んでください」
「わかったわ。わたしはミュシャ。ミュシャ・ライトフィールド。ライトフィールド男爵家の一応、長女よ。よろしくね」
ソレが自ら名乗ってくれたことにほっとする。
改めてヴィーリアに手を差し出して握手を求める。
ヴィーリアは紫色の瞳でじっとその手を見つめた。ナイフの傷のない右手を出したのだが、またいきなり指を舐められたら対処に困る。警戒はしておく。
ヴィーリアは少しの間をおいてわたしの手を握り返した。ヴィーリアの手は、やはり冷たかった。
「……ところでミュシャ。契約の依代と対価については十分に理解していますか?」
「知っているわ。ヴィーリアを召喚するための依代はわたしの血でしょ? 願い事の対価は……わたしの魂」
深紫色の瞳がきらりと光る。
「そうです。依代は貴女の血です。それはこの世界にわたしを繋ぎ留めておくために必要なものです。そして願い事は一つだけ。願い事の対価は、貴女の魂……」
ヴィーリアがわたしの反応を探るように、言葉を区切る。大丈夫、わたしはもとよりそのつもりだった。
「わかっているわ。その代わりに絶対に願いは叶えてもらう」
「……契約が成され、願いが成就した暁には、我々が対価をどう回収するかはご存じですか?」
「それは知らないわ」
そこは確かに気にはなっていたのだが、残念ながら魔術古文書には記されていなかった。この魔術古文書は肝心な記述が抜けているようだ。読み手にあまり親切ではない。
「貴女の命の炎が尽きた後、私がお迎えに上がります。……ミュシャの魂は永遠に私の所有となります。人の輪廻の理からは外れて」
ヴィーリアの紫色の瞳がわたしをうっとりと見つめて、なぜだか一層艶を帯びた。
……人の理の外ってそういう意味だったのか。
人は儚くなったら生まれ変わると、幼いころに巡礼の旅の司祭様に聞いたことがあった。けれど契約したらもう、生まれ変わることはない、とヴィーリアは言っているのだ。
わたしがヴィーリアに願うのは、大切な家族と男爵家を支えてくれている人たちの幸せと安泰だ。その結果、領地とそこに暮らす人々の暮らしと、幸せと平穏を守ることができる。それを叶えてくれるのならばかまわない。来世はないかもしれないが、今世でそれを見届けることができるのならばそれでいい。永遠などという時間も、ヴィーリアに囚われた魂がどうなるのかもわからないが、それでもいい。
ああ、でも……生まれ変わったお父様、お母様、シャールとは会うことはできなくなるのか。
「……まあ、でも、寿命が尽きるまでは自由に生きられるのでしょ?」
願いが叶えられたら、即時に魂を回収されないだけでも儲けものだろう。
それにしても……人間の魂というのはヴィーリアたちにとって、対価に成り得るほどの価値があるものなのだろうか?
ライトフィールド男爵家はリューシャ公国の建国当初からの貴族だ。
一応、由緒正しい貴族ではある。しかし歴代男爵から現男爵であり、父であるハリス・ライトフィールド男爵まで、人柄は良いが野心はなく、遣り手ではなかった。
公国の西の端、男爵領のこのリモールの地は、隣国との境を険しいリモール山脈とユーグル山脈に囲まれている。この山が天然の要塞のようになっているため、リューシャ公国の東の辺境とは違い、国境線を守る大規模な軍隊も必要ではなかった。そのため軍事面を強化された辺境伯ではなく、穏やかな領主様として領民に親しまれている父でも、この領地を守ることができていた。
幸い自然には恵まれていた。山に囲まれた盆地には代々田畑を作り、果樹を植え、家畜を飼った。領民の生活は公都と比べれば煌びやかなものはないが、それなりに豊かで、穏やかに発展していった。
問題のないように思われたライトフィールド男爵家の領地経営だったが、五年前に異常気象に見舞われてから一気に傾いた。夏に大雨が続き、田畑の作物が育たなかった。太陽の恵みも受けられず、樹木にやっと咲いた花は実りの種をつけなかった。
収穫がなくなった領民のために税を免除し、備蓄してあった穀物を解放した。しかし、蓄えは無限ではない。ほどなくして備えは底をついた。いよいよ家畜の飼料にも困るようになると、ベナルブ伯爵から援助の申し入れがあった。異常気象に襲われたのはライトフィールド男爵領のみで、大きな河を挟んで隣接するベナルブ伯爵領にはなにも被害をもたらさなかった。ライトフィールド男爵はありがたく申し入れを受けた。
ベナルブ伯爵家からの物資と資金の援助を受けて、なんとか領地が元の収穫高を上げられるようになったのは二年前だ。やっと元の生活水準を取り戻したと思った矢先、救いの手だと思っていたベナルブ伯爵家から莫大な利子をつけた督促状が届いた。
ライトフィールド男爵とベナルブ伯爵の当初の取り決めは、経営が軌道に乗ってから改めて返済と利子について話し合うということだった。しかし、一方的に督促状を送りつけたベナルブ伯爵は返済期間を二年間とした。それができなければ領地の接収と、ライトフィールド男爵の次女シャールとの婚姻を求めてきたのだ。
利子は借り入れ額の何倍にもなり、借り入れた金額と合わせると二年では到底返済できるものではなかった。家格が上の伯爵家と、公都で裁判を争っても勝てる見込みはない上に、裁判を起こす資金もない。社交界とは距離を置いていたライトフィールド男爵には、頼ることができる伝手もない。当然、隣接する領地のベナルブ伯爵の黒い噂も耳に届く機会はなかった。
それでも日々節約を重ねて返済してはいるが、その額は半分にも満たない。そして、その最終返済期限がいよいよ来月の末に迫っていた。
「ライトフィールド男爵家の借金を、利子も含めて全額ベナルブ伯爵に返せるようにしてほしいの。そうすれば、妹のシャールも伯爵に嫁がなくてもいいし、領地も手放さなくてすむわ」
「……貴女の願いはそれでいいのですか?」
「ええと、本当はね、もう少し欲を言うと……できたら、少し上乗せしてくれるとありがたいわ。そうしたら今まで我慢してくれた屋敷の皆や、領民にも報いることができるんだけど……」
「……」
ヴィーリアは黙り込んでしまった。欲張りすぎたのだろうか?
「あの? ヴィーリア? だめなら最初のお願いだけで」
「ミュシャ。貴女は自分のためには願わないのですか?」
「?」
どういうことだろう。この願いはわたしの恩返しなのだから、わたしのための願いだと思うのだが。
「自分自身の欲望のために願いを使わないのかと訊いています。なにしろ対価は自身の魂です。懸けるものがとてつもなく大きい」
つまり、もっと綺麗になりたいとか、贅沢な暮らしがしたいとか、国を手に入れたいとかそういうことだろうか。
「そうです。人間は己の欲望に非常に忠実です。特に我々を召喚するような人間は」
「そうね……あまり考えた事はなかったかも。なにしろ、うちの財政状況をどうにかすることで頭の中がいっぱいだったから」
「……今からでも願えますが」
「ううん。わたしの願いは、言ったとおりのことよ」
もとの暮らしが戻るのならそれが一番いい。豪華なドレスや高価な装飾品にそこまで興味はないし、綺麗になったわたしなんてもう、わたしではないだろう。鏡を見るたびに驚くようになるのがおちだ。もっと贅沢な暮らしなども想像がつかない。それにだいたい、国なんか手に入れてどうしようというのか。気苦労が増えるだけだろうに。
ヴィーリアは怪訝な表情を浮かべた。それから、そうですか、変わった人ですね。と呟いた。
読んでいただいてありがとうございます。(*'▽')