29 書店にて
ジョゼの手を取り、書架の奥に走る。
急がないと。あまり時間はない。
「ミュシャ、ちょっと待って」
途中でジョゼは足を止めた。
「どんな本を探しているの?」
「ええと、心理学と、神殿関係? 司祭様が施す治療について知りたいの。あ、でも難しいものじゃなくて。簡単に説明してくれる本がいいわ」
「そうか……じゃあ、こっち」
ジョゼは反対側の書架の前にわたしを連れて行った。
「ここの棚は子ども向けなんだ。いろいろな種類の入門書もあるから、探しているものがあるといいんだけど……」
ジョゼが膝をついてしゃがんだ。下方の棚に並んでいる本の背表紙を真剣な眼差しで確認していく。
わたしもジョゼとは別の棚から背表紙を指で追う。
「……詳しいのね」
「僕、今、ここで働いているから」
「そうなの?」
「店主が僕の伯父なんだ。伯父さんには子どもがいないから、僕にここを継がないかって」
「そう。……ジョゼが継いでくれるなら、わたしも嬉しいわ」
なにしろこの書店の品揃えはなかなかだ。探している本がない場合は、頼めば公都からも取り寄せてくれる。専門書も扱っている。新刊本は入荷するまでに時間がかかる場合もあるが、きちんと平台に並ぶ。
たまに、誰が読むのだろう? というような専門的過ぎる本を見つけることがある。それもまた楽しい。そういった中に魔術古文書もあった。
跡継ぎがいないから店を閉じてしまう、などということはリモールにおける知識と娯楽の損失だ。本心から、ジョゼが継いでくれることは喜ばしい。
話しながらも目は背表紙を追う。
「さっきは……ヴィーリアが失礼な態度をとってごめんなさい」
「……ちょっと驚いたけど、気にしてないよ」
「いつもはあんなに感じ悪くはないのよ。さっきは少し機嫌がよくなかったみたいで……」
本当に一体どうしたというのだろう。あれほどまでに人前でだけは、優しく穏やかに微笑む好青年を演じていたというのに。さっきのお店でも、きれいな店員のお姉さんたちに機嫌よく手を振り返していたくせに。
「それは……ミュシャが婚約者様に大事に想われている。ってことじゃないのかな?」
「……どういう意味?」
ジョゼは笑っただけで答えなかった。
大事にされて……いないとは思わないが、それはわたしが契約者であるからだ。婚約者だから、ということではない。
ジョゼが手を伸ばして、棚から本を一冊抜き取った。
「……ミュシャ、これはどうかな?」
差し出された本の題名は『子どものための心理学』
「見てみるわ」
本を受け取り、目次を確認する。『無意識』という項目は……ある。
頁を捲ると絵と図で解説されていた。屋敷の図書室にあったものより文章は読み易い。
この本によると『無意識』とは『意識ではない領域』とある。
……なんとなく解るような、解らないような?
……うん。文章が読み易くても、理解できるかどうかは別物だということを理解した。
この本には『集合的無意識』という記述はない。
「この本には載ってないみたい」
「そうかぁ。……じゃあ、これは?」
ジョゼはそれから3冊ほど本を渡してくれた。しかし、どこにも『集合的無意識』とは書かれていない。
……やはり夢の中の司祭様の話は、わたしの頭の中で作られたでたらめのようだ。……落ち着いて考えれば当たり前のことだった。だって、夢だものね。
「心理学の本はこれくらいだね……。あとは、司祭様の治療について?」
そう。あとは『治療』について確認すればいい。もう調べなくてもいいような気もするが、レリオを呼び出してまで町に来たのだ。『心の治療』についても、夢の中の作り話だということを確認して安心したい。そうすれば胸がざわざわとかき乱されるような気持ちは消えるはず。
「ええ。治療に関することが知りたいの」
「……誰か治療が必要なの?」
ジョゼが心配そうに訊く。
余計な気遣いをさせてしまったと、慌てて否定した。
「そういう訳じゃないの。ほら、今は巡礼の司祭様もいらっしゃっているでしょ? だから、知識として持っておきたいと思って」
「そうかぁ。ミュシャは昔から勉強熱心だったよね」
それについては曖昧に微笑んでおく。ジョゼの思い出の中ではそういうことになっているらしい。
わたしにはあまり熱心に勉強していた記憶はない。どちらかというと友達と遊ぶために学校へ通っていた。
「……これなんかどうかな?」
手渡された本の題名は『ルークス教――誰でもわかる神聖術入門』
目次から『治療』の頁を探して開く。
『司祭が持つ治癒の力で、身体の傷や不調、病気などを癒すことを治療といいます。その中でも、限られた一部の司祭は特殊な治療を施すことができます』
……特殊な、治療?
しかし、その後の文章を読んでも一般的な治療についての記述のみだった。それ以上の『特殊な治療』についての説明はない。
「ミュシャ? どう?」
「……ええ……ジョゼ、もっと詳しく書かれた本はあるかしら?」
「あとはかなり専門的になるかな。それでもよければ……」
専門的なものは難しくて読める気がしない。でも、一般的でないのなら、専門的な本しかないのかもしれない。
カウンターを確認する。ヴィーリアは人垣の真ん中にいて、まだ、囲まれている。
「それはどこにあるの?」
「一番端の書架だよ」
今度はジョゼがわたしの手を引いた。
子どもの頃とは反対だ。昔は教室で本を読んでいるジョゼの手を引っ張って、校庭へ連れ出していた。
「はい。ここ」
手を引かれて一番端の書架の前に立った。背表紙の題名を読み上げただけでも頭が痛くなりそうな本が棚に並んでいた。
『グレナダ大陸におけるルークス教と神聖術についての文化的側面からの考察』『国と神殿の関係にみる神聖術の役割について』などなど。
……うう。題名も長いし、なんだか『治療』には関係なさそうだし、読める気もしない。
でも……確かめなくては。
その中から『治療』と関係がありそうな、題名が短い本を手に取った。
『神聖術の体系と司祭』
目次を開き、ぱらぱらと頁を捲る。
…………あった。
ぱっと目に入ってきたのは『集合的無意識』と『心的治療』という言葉だった。
難しい言葉と文章を、なんとか読み進めていく。
わたしの乏しい理解力が正しく働いていれば、その本に書かれていることはおそらく次の様なことだ。
司祭様が使う神聖術の『治癒』の力は二種類ある。身体に作用するものと、心に作用するもの。
身体に作用する『治療』は、個々の司祭様の『治癒』の力によって成果には差が生じる。しかし、司祭と名乗る者ならば施すことができる。
それに対して、心に作用する『治療』はごく一部の司祭様にしか行えない。神聖力の消耗が大きいために、相応の力を持つ司祭様でなければ施すことができないからだ。
『心の治療』の方法は、対象者を睡眠または催眠状態に誘導する。次に対象者の意識を『集合的無意識』の領域の中で捕捉する。そして、その中での対話を通して、不調や苦痛の原因を探り、癒していく。
『集合的無意識』とは、全ての人が『無意識』のさらに下の層で共有しているもの、らしい。
……。
ノルンからはこのような授業は受けていない。
……ということは、昨夜の夢は、夢ではないということ? あの軽薄そうなロロス司祭様はまさか、本物?
それに……ロロス司祭様は『魅了』がどうのとも繰り返していた。
「ミュシャ? 大丈夫?」
本を開いたまま動かなくなったわたしの顔の前でジョゼが手を振った。
「あ……ごめんなさい」
「探していることは見つかった?」
「ええ……ジョゼ、この本を買わせてもらうわ。いろいろと探してくれてありがとう」
「お役に立てたならよかった」
カウンターに戻ろうとしたときにすっと影がかかった。
見上げると、ヴィーリアがなんともいえない表情でわたしとジョゼの後ろに立っていた。眉が微妙に顰められている。紫色の瞳も細められていたが、唇だけはなだらかな笑みを張り付けていた。
「……ミュシャ。用事はもう終わりましたか?」
「あら、早かったわね? もう皆さんとのお話は済んだの?」
ヴィーリアを真似てなに喰わぬ顔で微笑んだ。
『神聖術の体系と司祭』の本を隠すために、手近な棚の本を適当に一冊抜いた。さっと上に乗せてジョゼに渡す。
「じゃあ、これをお願いするわ」
「あ……うん」
「なるほど……そういった趣味をお持ちでしたか。次回の贈り物は……ぜひ楽しみにしていて下さい」
なぜか意地悪そうにヴィーリアが笑う。その言葉にジョゼの顔が見る間に赤く染まった。
なに……?
ジョゼに渡した本に目を遣る。
『下着大全~あなたを誘う魅惑の世界~』
!!?
黒い表紙になんとも艶めかしい桃色の文字が躍っている。
「え……あれ? ……これは?」
なぜ? なぜ神聖術関連の書籍の付近にこのような……高度に専門的な書物が!?
「僕、包んでくるね!」
ジョゼはカウンターに走って戻ってしまった。
ちょっと待って! ……ジョゼ、違うの!
その背中に手を伸ばしてみたものの、逃げるように走り去る後ろ姿をただ見送るしかなかった。
「おやおや、彼も初心ですね」
きっと睨んだわたしを見下ろして、ヴィーリアは愉しそうに哂った。
カウンターのジョゼから気まずい思いで書籍の包みを受け取った。
ありがたいことに、例の書物はうまく店主の目から隠して包んでくれたようだった。
本当は……ヴィーリアからもう一冊の本を隠すためなのに。……どうしてこうなった。
……うん。解っている。『下着大全~あなたを誘う魅惑の世界~』に罪はない……。
悪かったのはタイミングとヴィーリアの一言だ。
久しぶりに会えた友達なのに……。距離をとられてしまうのは悲しい。心の中でため息をついた。
「お嬢様、次期ご領主様! また来てくださいよ!」
店主の大声が店内に響くと、お店の中にいるお客さんたちから「また来てください」「またお話ししたいです」という声とともに盛大な拍手が送られた。
ヴィーリアはあの短い時間のなかですっかりと皆の心を掴んできたようだが、次期領主については訂正していないらしい。
ヴィーリアと皆に手を振った。ジョゼと目が合う。彼は口だけを動かして「またね」と言ってくれた。
書店から出ると、だいぶ陽も落ちていた。通りの店先にはちらほらとランプが灯りはじめている。
「それをこちらへ」
図書館への道を歩きながら、ヴィーリアはわたしの持っている包みを指さした。
「いいわよ。自分で持つわ」
「重いでしょう?」
「そんなに重くないから大丈……あっ」
ヴィーリアにひょいと取り上げられた。……と思ったのだけど、ヴィーリアも包みを持っていない。
「どこへやったの?」
「貴女の部屋に送りました」
いつの間に。
「……ありがとう。でも指、鳴らしてないわよね?」
「ああ。鳴らすのは癖のようなものですから。必ずしも魔術の発動条件という訳ではありません」
「……ふうん、そういうものなの」
レリオが呪文を唱えるように、指を鳴らすことがその代わりなのだと思っていた。
書店から図書館までは十分とかからない。
リモールの山から伐り出した材木をふんだんに使った平屋の建物が図書館だ。
書店とは違い、低く作られた書架が数多く配置されている。
高い天井のおかげで室内だというのにかなりの開放感があった。
ランプは灯っていたが、室内は灰暗い。閉館時間が近い図書館には人もまばらだ。
「じゃあ、わたしはちょっと調べものがあるから。ヴィーリアは読みたい本でも探していて?」
「……私もご一緒しますよ」
「……いや、大丈夫よ」
「ミュシャ。貴女はさっきからなにをこそこそとしているのですか?」
灰暗い書架の間で、紫色の瞳にうっすらと光が帯びる。
わたしの身体の両脇に手をつかれて、書架に追い込まれた。背中に本が当たる。
「……こそこそなんて、してないわよ」
「……貴女がお一人で歩き回るときはなにかありますので。私も学習しているのですよ?」
ヴィーリアの声色は穏やかだったが、ごまかして逃げることはできない圧力を感じた。それならば……直接訊いてみよう。
「……魅了ってなに?」
わたしの問いに、ヴィーリアの紫色の瞳が眇められた。
読んでいただいてありがとうございます( ^^) _旦~~