27 ミュシャの誘い
昼食の前に部屋に戻って鏡を探した。
寝台の枕元にそのままあるものと思っていた。しかし見当たらない。枕をひっくり返して、枕の下を調べた。シーツもブランケットもまくって探したがどこにもない。寝台と背もたれの間に落ちてしまったのかと、その間に無理やりに手を差し込んで探ってみた。それらしきものは手に触れなかった。
寝台の下に落としてしまった? 這いつくばって床と寝台の隙間を覗いたが、鏡は落ちていない。寝台回りも隅から隅まで探した。
それならば……記憶にはないが、机に戻しているのかもしれない。すべての引き出しを開けてみるが、ない。
鏡はどこにもみつからなかった。
まさか……失くしてしまった?
大切に使われていたもののようだった。持ち主も探さなければならない。それなのに、拾ったわたしが失くしてしまうなんて……。本当に、どこにやってしまったのか。
手始めに、屋敷の皆に鏡をどこかで失くしていないか訊いてみなければ。持ち主が見つかれば事情を話して謝り、一緒に探すこともできる。
最初はベルに、寝台の上で木枠に嵌った丸い鏡を見なかったか、ベルの落とした鏡ではないかと訊いた。
「いいえ? 見た憶えはないです。……わたしの鏡ではないですね」
次はブランド。
「鏡ですか? 私のものではありません」
じゃあ、ケインとルウェイン。
「鏡なんか持ち歩かないですからねぇ」
「僕のじゃないですよ」
ルイはどうだろう。
「いいえ。……わたしのじゃありません」
コディは……鏡を拾ったときに訊いたら、違うと言っていた。
お父様とお母様のものでもないと思う。ベナルブ伯爵のものとも考えにくい。そもそも彼らは裏庭の菜園には行っていないだろう。
……では、誰の物なのか?
使っているところを見たことはないけど、やはりシャールの落とし物?
ふと、見習い司祭様をよく庭で見かけていたことを思い出す。……まさか、見習い司祭様が落とした鏡だろうか。うーん……。
……とりあえず、今度会ったときに、見習い司祭様にも訊いてみないと。その前に鏡も必ず見つけなければ。
午後にわたしの部屋でお茶を飲むことがヴィーリアの習慣になってしまった。
商会の関係者との、宝石の流通に関する打ち合わせは終わったようだ。
さも当然のように、わたしの隣に腰を降ろすと長い足を組んだ。さっそく片手でタイを弛めている。ぱちんと指を鳴らすと、テーブルの上にはティーポットと二個のティーカップが現れる。ティーポットの注ぎ口からは白い湯気が上がっていた。
少し蒸らしてからわたしの分もカップに注いでくれる。
紅みがかった琥珀色の紅茶は、瑞々しいフルーツのような甘い香りがした。
「ありがとう。とても美味しいわ」
当たり前だというようにヴィーリアが口の端を上げた。
「ねえ、ヴィーリア? ……明日は忙しい?」
「まあ、それなりにですが。どうかしたのですか?」
「あのね、町の図書館と、書店に行きたいの」
「……」
「ちょっと、欲しい本があってね。だから……」
「……」
「一緒に行かない?」
「当然……お伴しますよ」
一人で行くには不安が残るし、どうせヴィーリアの目は誤魔化せない。だったら、一緒に行ってヴィーリアに気付かれないうちに、素早くささっと目当てのものを探せばいい。
「貴女からのお誘いは、珍しいですね」
「そうか……な?」
そういえば、ヴィーリアと屋敷の周辺以外のどこかへ出かけるのは初めてのことだ。
「……でしたら、今から行きましょうか?」
「今から? わたしの用意をしていたら間に合わないわ」
ヴィーリアはそのまま出かけられるかもしれないが、わたしはそうはいかない。
普段に着ている服よりも少しだけ見栄えのする服に着替えたいし、髪ももう少し、なんとかしたい。ヴィーリアの隣に並んで、一緒に歩くとなればなおさらだ。
「そんなことなら……」
ヴィーリアがぱちんと指を鳴らした。
目の前に、一瞬、白い光がはじける。
「いかがですか? 貴女の好みに合うといいのですが」
「好み?」
ヴィーリアの視線はわたしの足元に移った。それから確認するように少しずつ上に移動する。
わたしもつられて足元を見た。
見たこともないスカートと靴が目に入る。
「え? ……これ」
「貴女が着ていた服に手を加えました」
すぐさま壁の姿見の前に立って全身を映す。
襟元にたっぷりと黒いレースをあしらい、腰回りを絞り、ギャザーを入れた膝丈までの黒いワンピース。長袖の肘から先にも襟元と同じレースが施されている。
足は明るい灰色のタイツに、甲にストラップのある光沢の黒い靴。
髪は、耳が隠れるように両脇を垂らして結い上げられていた。
うわぁ……なんて、素敵。もちろん服と靴と髪形の話だけど。
姿見の前でくるりと回ってみる。スカートが空気をはらんで丸く膨らんだ。
黒色とデザインのおかげだろうか。広がったスカートも、レース飾りも、可愛いのに甘くない。
黒いワンピースはふわふわとした柔らかな手触りで、軽くて暖かい。靴もちょうどいい踵の高さだ。履き心地もよく、歩きやすそう。
元のワンピースや靴の原型なんてどこにもない。手を加えたどころではなく、もはや立派な別物となっている。
「とても……気に入ったわ。ありがとう」
礼を言うと、ヴィーリアは満足そうに肯いた。
「外套も直しましたので」
ヴィーリアが視線を向けた寝台の上には、タイツと同じ色の外套があった。
あれはもしかして、今まで使っていた年季の入った紺色の外套だったもの?
……前にも思ったが、魔術とはなんと便利なのだろう。一家に一人、魔術師がいれば全ての事が足りるような気がしてしまう。
寝台の上の外套を手に取ってみた。厚手の生地でつくられていて、ワンピースと同じ柔らかな手触りだった。
「着てみてもいい?」
「どうぞ」
丸襟を立たせた簡素なデザインだが、大きめの黒の釦がアクセントになっている。ワンピースと同じように腰が絞られていて、そこから裾にかけて少しだけ広がっていく。丈はスカートの裾が少し出る程度だ。……この外套もとても素敵。
袖を通すと見た目よりも軽かった。
「どうかしら?」
ヴィーリアは「よくお似合いですよ」と紫色の瞳を細めた。
「町で貴女の服も選びましょう。前から少々……手持ちの少なさが気になっていましたので」
……うう。それは、だって、しょうがないでしょ。節約第一だもの。
「でも……そんなには必要ないわよ? もし、お願いできるなら、今みたいに衣装棚の服を直してもらえればそれでいいわ」
「……支払いのことなら気にする必要はありません。貴女の服を買ったくらいで、侯爵家の財政がどうということもありませんから」
それはそうかもしれないけど、なんだか気がひける。
「婚約者からの贈り物です。受け取っておきなさい。……それとも私は、年頃の婚約者に服の一つも贈れない男だと世間に噂されてもいいのですか?」
「……」
婚約者……とはいっても仮初のことだ。だが、そう言われてしまうと受け取らない理由がなくなってしまう。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
それからもう一度、ヴィーリアは指を鳴らした。
突然、本当に突然、部屋の中に紺色のローブを纏った少女が姿を現した。
!!?
少女は手に林檎を持っていた。大きく開けた口で、今にも林檎に噛り付こうとしているところだった。
なに?! ……びっくりした! ……レリオ?
赤い髪が目に入る……お父様にアロフィス侯爵様からの信書を運んできた、魔術師のレリオだ。
以前に彼女が転移魔術で食堂に現れたときのような碧色の光の柱もない。突如としてそこに現れた。ヴィーリアが呼んだのだろうが、さっきのように目の前で光がはじけたということもなかった。
かしゅっと林檎をかじる音がした。そのとき、レリオと目が合った。
「…………んん?」
レリオが首を傾げてぼそりと唸る。それから、はっとした表情。そして、ゆっくりと、というか恐る恐る後ろを振り返った。
「—―――――!!!?」
レリオの手からぽとりと林檎が床に落ちる。声にならない絶叫が、わたしの頭の中に響いた。
「な、な、なんで―――!?」
またもや声が裏返る。身体も小刻みに震え出した。
レリオのあまりの狼狽ぶりに、かえってこちらが冷静になる。
……ああ、なんだか、本当に、気の毒に。
「あの、大丈夫?」
かわいそうなほどに震えが止まらないので、放ってはおけなかった。
レリオはこちらに向き直り、うんうんと頷いた。首からぎちぎちと音が出るのではないかと思うほどに、ぎこちない動きだった。
今回も相当だが、前回のレリオの怯え方も酷かった。
『なにかしたの?』と訊いたときに『私はなにもしていませんよ。……ただし、あちらが勝手になにを感じるのかまでは興味はありません』とヴィーリアは答えていた。
こちらに渡ってからは力を抑えていると言っていたけど……。
朔の日の晩にヴィーリアが地下室に現れたとき、全身が総毛立つような禍々しい寒気を感じた。視線を逸らせば、すぐにでも捕って喰われそうな恐れと威圧を覚えて震えた。
きっとレリオもそういったものを感じ取っているのだろう。魔術師はわたしとは比べものにならないくらいに敏感なのかもしれない。
ましてやヴィーリアが『人の理の外の者』に慣れているはずの魔術師でさえ怯えるほどの存在なのだとすれば、なおさらだ。
だって、レリオのこの怯えようは尋常ではない。
床に落ちてしまった林檎を拾い、テーブルに置く。レリオの肩を大丈夫、怖くないよと摩る。
まあ、そうはいっても……わたしが雷を怖いのと同じで、怖いものは怖いのだ。その気持ちはよく解る。
「ちょっと、ヴィーリア」
威圧するのをやめてと、小さく首を左右に振った。
私はなにもしていませんよ、というようにヴィーリアは肩を竦める。
レリオはおずおずと、濃く青い瞳をわたしに向けた。
「確か、レリオといいましたね?」
ヴィーリアが問う。レリオはヴィーリアにではなく、わたしに向かって必死に肯いた。それを見たヴィーリアの口角が僅かに上がる。それから、それはもう、極上に優しい声色を使ってレリオに微笑んだ。
「少し頼みたいことがあるのです」
レリオは眉を下げた。うつむいてから「か、かしこまりました……」と小さく返事をした。