26 モヤモヤする気持ち
柔らかい光が瞼の裏にまで入り込んできた。眩しくて目を覚ます。
朝の陽光がカーテンをすり抜けて、部屋の中に満ちていた。すでに外はかなり明るい。
寝過ごしてしまったようだ。
部屋の扉が控え目に四回、ノックされた。……ベルだ。
朝食の時間にも遅れているのかもしれない。
「お嬢様? おはようございます。起きていらっしゃいますか?」
「おはよう。今……起きたところなの。どうぞ、は…………い!?」
ベルに返事をしながら、身体を起こそうとした。
寝台についた手に、さらさらとした滑らかな絹糸のようなものが触れている。
なんだろうと視線を向けると、わたしの隣で横になっていたヴィーリアの紫色の瞳と目が合った。
「お嬢様? 入りますよ?」
「えっ!? あっ! だめっ! っていうか、ちょっと、待って!」
ブランケットの上に脱いであったガウンを手繰り寄せて、慌てて羽織る。
こんなところを―――朝からヴィーリアと一緒に寝台にいるところなんか―――絶対に見られるわけにはいかない。
「お嬢様?」
「いや、あの、すぐに食堂に行くわ。大丈夫! 大丈夫だから。なんでもないから。入ってこなくて大丈夫!」
「…………でも」
「本当になんでもないの。絶対に大丈夫!」
「……では、なにかあればすぐに呼んでください」
「わかったわ。本当になんでもないから。……ありがとう、ベル」
焦るわたしを気にも留めずに、ヴィーリアはゆっくりと寝台の上に身体を起こした。
白銀色の長い髪を気怠げにかき上げる。深い紫色の瞳が纏っているのは、退廃的な夜の香りだった。
黒いシャツの釦は、なぜだか胸が全て露わになりそうなほどに外されていた。胸とお腹のきれいに割れて引き締まった筋肉が目に入ってしまい、慌てて視線を逸らす。なにしろ、留まっている釦のほうが少ない。お臍まで見えてしまいそうだ。目のやり場に困る。
「やっとお目覚めですね」
立てた膝の上に肘をついたヴィーリアは、筋張った手の甲に顎を置いて首を傾げた。
……ああ、今日もヴィーリアは朝から絶好調に爛れている。
「ちょっと……なんで部屋に戻ってないの? それに……シャツがはだけちゃってるわ」
視線は逸らしたままでシャツを指さす。はだけているどころではなく、半分以上、脱いでいるようなものだ。
ヴィーリアは依代を徴収した後はいつもなら客間に戻るのに。今朝はなぜ、ここにいるのだろう。それに、目が覚めていたのなら起こしてくれてもいいだろうに。
「昨夜のことを……憶えていないのですか?」
仕方がないというようにゆっくりと手を動かして、シャツの釦を留めていく。
「……」
おかしな夢を見ていて、ヴィーリアに起こされた。いつも依代を徴収される時間よりもずいぶんと早かったはずだ。そして、そのまま左耳に口づけられた。それからは……憶えていない。とにかくとても眠くて、わたしはそのまま眠ってしまった。
ヴィーリアはわたしの目の前に、おもむろに腕を出した。黒いシャツの袖はぎゅっと握られていたように、皺くちゃになっている。
「貴女が一晩、私を放さなかったのですよ?」
……言い方、言い方。
「わたしが……ずっと握っていたの?」
そんなはずは……ないと思いたいが、なにせ記憶がないので否定もできない。
昨夜は夢見が悪かった。左耳に唇をよせたヴィーリアの長い白銀色の髪は、わたしの肩に沿って胸までこぼれ落ちていった。そのことに安心したのは憶えている。眠ってしまってから、無意識のうちに……ヴィーリアを掴んで放さなかったのだろうか。
頬が一気に熱くなっていくのがわかった。
「……おやおや、熟した林檎のようですね……」
まだ夜の香りが残る瞳が細められ、唇が弧を描いて上がる。ヴィーリアは喉の奥でくっと哂った。
頬の熱さは自分では止められない。馬鹿にされているのが、なんだか悔しい。
「わたしは……ヴィーリアとは違うから」
つんと横を向いた。
「おや……? また、やきもちですか?」
「違うよ!?」
またってなに? 秋桜の高台でのことを言っているのなら、断じてあれは、やきもちなんかじゃないよ!?
「……ミュシャ」
ヴィーリアの白く長い指がわたしの髪に触れた。梳くように、黒檀色の髪に指を差し入れる。それから遊んでいるように髪に指を絡めた。
「貴女の髪……」
深い紫色の夜の瞳は、わたしを捕えた。どくん、と鼓動が跳ねる。
ふっくらとした形の良い唇が開いた。
「寝ぐせがひどいですね」
「!?」
慌てて両手で頭を押さえて、髪を隠す。髪の毛が細いのでいつも寝起きは絡まっている。しかし、そこまでひどいということもなかった。よりによって、今日に限って……そんなにひどい?
部屋の扉が再びノックされた。
「お嬢様。おはようございます。ブランドです。……どうかなさいましたか?」
ベルがブランドを呼んだらしい。
確かに、さっきのわたしの返答はあからさまにおかしかった。ベルが心配するのも無理はない。……うん。ブランドを呼ばれても仕方がない。
「おはよう。ブランド。どうもしてないわ。本当に大丈夫よ。今朝は……起きられなくて、寝過ごしてしまったの。ごめんなさい。着替えてすぐに食堂に行くわ」
「……そうですか。……それでは、お待ちしております」
訝しんでいる様子だったが、深くは追求されないことにほっとした。髪を押さえながら振り返る。寝台の上に、ヴィーリアの姿はすでになかった。
顔を洗って着替える。それから髪を整えた。
ヴィーリアの言った通りに、後頭部の髪の毛がスズメの巣のように絡まり合っていた。急ぎながらも念入りに髪を梳いた。櫛がかなり通りづらい。いつもならこんなことにはならないのに。
……もしかすると、昨夜はヴィーリアの胸にもたれたまま眠ったからだろうか。
食堂の扉を開けると、ヴィーリアはなに喰わぬ涼しい顔で席についていた。ベルの淹れた紅茶を美味しそうに飲んでいる。
ベルとブランドはわたしの顔を見て安心したようだった。心配はないと微笑んで肯く。
いつもよりも朝食の時間が遅くなってしまった。ケインにも申し訳なく思いながら席についた。
「おはようございます。ミュシャ様」
「おはようございます。ヴィーリア様」
ぱりっとした黒のシャツとスラックスを瀟洒に着こなして、艶やかな白銀色の髪を後ろで弛くまとめ、一つに結んでいる。すれ違ったなら、誰もが振り返ってしまうほどの青年だ。
さっきまでの、夜の香りと爛れた雰囲気はどこへ隠したものやら。影も形もない。
わたしに向けられたのは穏やかで慈愛に満ちた、完璧な婚約者のいつもの微笑みだった。
朝食を終えた後、図書室で書類の整理をした。
仕事が一息つくと、そのまま調べものをしていた。
ヴィーリアは応接室にいた。アロフィス侯爵家と取引のある商会の関係者と、宝石の流通に関する打ち合わせをしている。
『あのね、これは心を癒す治療法の応用なんだよ。……人間にはね、無意識下に、共通の集合的無意識の領域があるんだ』
『……人の心の奥のもっと奥には、共通する意識の流れがあるんだ。普段は自覚できないんだけど、眠っているとき、それから眠りと目覚めの狭間にいるときには、そこに意識が流れていく。心の治療をするときには、こうやってその流れの中で、意識を繋げてお話をするんだよ』
『……考えておいて。僕はお嬢さんの、その契約を解いてあげられるかもしれない……』
夢の中のロロス司祭様が言ったことを思い出すと、胸がざわついて、気持ちがもやもやとする。
あの夢の全てはわたしの頭の中で作り上げたことだ。
それに昔、ノルンが授業で『無意識』についての話をしていたような気もする。
ノルンに習ったことを頭の隅で憶えていて、夢に反映されたのかもしれない。もしくは、でたらめなことを作り上げて、ノルンに習ったような気がしているだけかもしれない。
『無意識』と『治療』のことを調べれば、どちらなのかがわかる。そうすれば気持ちも少しはすっきりとするはずだ。
書架の間をうろうろとして、関連する資料を探した。見つかったのは心理学の本が一冊と、神殿と神聖術に関する本が数冊だった。意外と少ない。
夢の中のロロス司祭様は『魅了』がどうとかも言っていた。
魔術についての本も探してみたが、一冊も見当たらなかった。やはり、リモール領は魔術とは縁遠い。
『魅了』については、後で一応、魔術古文書でも確認してみよう。
神殿と神聖術に関する数冊の本の中で、神聖術の『治療』に関する記述があるものは三冊だった。テーブルに広げて、頁を捲る。『治療』の項目に目を通す。夢の中のロロス司祭様は『心の治療』という言葉を使っていた。
三冊に目を通した結果……どの本も、なんだか違う。
怪我や病気の『治療』については記載されていた。しかし、それは司祭様が施す神聖術の『治療』の方法ではなかった。『治療』についての一般的な説明のみ。
つまり、神殿に相応の額の謝礼を払えば、司祭様の『治療』を受けることができる。巡礼中の司祭様は軽度の怪我なら無償で『治療』を施してくれる。など、誰もが知っていることだけだった。
『心の治療』についての記載は見当たらなかった。
三冊の本をテーブルの端に除けた。今度は心理学の本だ。目次に目を通し、『無意識』という項目を探して頁を開いた。
…………なんだか小難しい専門用語が、小難しい文章でつらつらと書かれていた。文字を目で追うが、正直なところ、なにが書かれているのかよくわからない。言葉も難しくて、その意味を調べるだけでも大変だ。
『集合的無意識』という言葉や項目はなかった。
わたしは静かに本を閉じた。
……うん。読めない。専門的過ぎてこの本はムリ。せめて『こどもでも解る心理学』とか、そういった本があればいいのに。
解り易く、読み易く、なおかつ詳しい記述があるものは屋敷の図書室にはなかった。となれば、町の書店か図書館に行くしかない。ただし、必ずしもそこにあるとは限らないのだが。
探す本の種類を考えれば、できることなら一人で行ったほうがいい。しかし、一人で町まで行くのにも不安が残る。もしも、万が一でも不測の事態が起こって司祭様たちと遭遇してしまった場合に、一人では対処できない。それは先日、執務室に転がり込んだときによくわかった。見習い司祭様だったから難を逃れたようなものだ。
仮に、一人で町に行き、なにもなく無事に帰ってきたとしても、それがヴィーリアに知られた場合には……。『口で言っても解らないようですね』だとか『何度も何度も申し上げました』とか言われて、今度こそなにをされるかわからない……ような気がする。それに……ヴィーリアの目はたぶん、誤魔化せない。
机に伏せて窓の外を眺めた。秋の高く、薄い青空に、裏庭の樹木の赤や黄色の紅葉が映える。
……そういえば、あの鏡はどうしただろう。
朝はヴィーリアのことで混乱してしまい、鏡のことは忘れてしまっていた。
昨夜は手に持って……いた?
鏡の鏡面が光っていて、鏡から声が聞こえた。鏡を覗いたら、とても美しい黄緑色の瞳と目が合った……。ううん、あれは夢だった。
たぶん、枕元に置いたままだ。落とした者がいないか、後で屋敷の皆に訊いてみなければ。
読んでいただいてありがとうございます(*'▽')
1話から順番に改稿作業をしています。誤字や脱字を修正して、文章をわかり易く、読み易く直しています。お話の筋や内容は変わっていません。