25 夢の中で
意識は、はっきりとあった。それでも目が覚めたような感覚があり、気が付くと周囲一面真っ白な、なにもない空間にいた。見渡す限り白い空間が続いている。その空間自体が発光しているように、ぼんやりと薄く光っていた。
わたしはそこに立って、浮かんでいた。足元に地面がないのだから、浮かんでいるとしかいいようがない。ここは寒くもなく、暑くもない。……どうやら夢の続きを見ているらしい。
「やっと、お話ができるね」
さっき、鏡の中から聞こえてきた声が響いた。すると目の前に木枠に嵌った小さな丸い鏡がすっと現れた。鏡も浮いている。もう鏡面は光ってはいなかった。
「……誰?」
夢なのだから、誰なのか? と問いかけても意味がないのかもしれない。でも、誰なのかもわからずに話すことはできない。
「あれ? 憶えてない?」
鏡がふるふると震えた。……なんだか小動物を連想させる。餌を口いっぱいに頬張るリスを思い浮かべて、かわいらしいと思ってしまった。
「わからないわ」
「そうなの? 僕って印象が薄いのかなぁ? ロロスです。フィリップ・ロロス。神殿の司祭ですよ」
……。
司祭様だと告げた途端に鏡は消えた。かわりに白いローブを纏ったロロス司祭様の姿が、白い空間に足元から現れた。肩までの濃い金色の髪は強めに波をうっている。分厚くて大きな丸眼鏡をかけていて顔はよくわからない。
うん。確かに伯爵と一緒に馬車から降りてきた司祭様だ。伯爵よりは少しだけ低かった身長も、わたしからは見上げるよう。ぼんやりと光る白い空間の中で、白いローブを纏った濃い金色の髪の司祭様は、なんだか神々しい。後光が射しているようだ。
ロロス司祭様を登場させてしまうなんて、自分の夢ながら理解に苦しむ。夢とは自覚していながらも調整はできないらしい。ヴィーリアに知られたらいろいろと言われそうなので黙っていよう。
ロロス司祭様は口元に手を添えた。わたしを爪先から頭の天辺までじっと眺め、視線を往復させた。まるで観察されているようで居心地が悪い。自分の夢なのに居心地が悪いなんて、どういうことだろう。
「あの、ちょっと」
ロロス司祭様は軽く手を挙げて、わたしの抗議の言葉を止めた。
「早速だけど、時間もあまりないから本題に入らせてもらってもいい? 魅了にかけられてるよね?」
「……魅了?」
なにそれ? かけられてるって?
「心を縛るにはそれが一番手っ取り早いし……。ううん? ……違うのかな?」
ロロス司祭様はそう呟くと、足を一歩前に踏み出して、目の前のわたしとの距離をさらに縮めた。
一瞬、弾かれるかもしれないという考えが頭をよぎる。身体が強張り、反射的に後ずさると、足がもつれて絡んで引っかかり、身体の重心を崩した。浮いていながらも後ろに数歩よろめいてしまう。
うわっ! 転ぶ!?
「おっと、大丈夫?」
尻もちをつく寸でのところで、ロロス司祭様の白いローブの腕が視界の隅に映った。腰を支えられて、助けられる。
弾かれはしなかった。……まあ、そうか。夢だものね。
「……ありがとう」
腰と背中を持ち上げて、わたしを立たせてくれた。いきなり、もう片方の手でぐいっと顎を掴まれる。そのまま強制的に顔を上に向けられた。
「!?」
いや、支えてくれたことには感謝だけど、なぜ顎に手をかける!?
顔をそむけようとしたが……顎を固定する力が思いのほか強い。顔が動かせない。
超至近距離で、分厚い丸眼鏡のロロス司祭様の顔が近づいた。
近い!! 近過ぎるよ!? 司祭様!
「ちょっと!?」
分厚いレンズ越しに、じっとわたしの瞳を覗き込んでくる。
「ううん? 動かないで、よく見せて?」
ロロス司祭様はまるで、わたしの琥珀色の瞳を底の底まで見透かそうとしているかのようだ。
遠目では眼鏡の分厚いレンズが邪魔をしていてよくわからなかった。しかし、この超至近距離では、そのレンズの奥がよく見える。司祭様の瞳は緑色と黄色が混ざった黄緑色だった。瞳の外側は緑色が強く、内側ほど黄色味が増す。鏡に映ったあの瞳だ。空間をうっすらと発光させている光が、瞳に反射しながらも溶け込んでいるようで、きらきらと輝いて見える。
この状況を忘れて思わず見惚れそうになるほど、とても美しい。
…………でも、それとこれとは全く別の問題だ。
「司祭様……」
「ん?」
「手を離して」
「……ああ……。ごめんね」
ロロス司祭様は腰を支えていた手と、顎を掴んでいた手をぱっと離した。両方の手のひらを挙げて見せる。悪びれもせずに、にこりと微笑んだ。わたしはすかさず後ろへと、飛びのいた。
なんだか、このロロス司祭様は誰かと似ているような気がする。本物のロロス司祭様は丁寧に礼儀正しく、お父様やわたしたちにも挨拶をしてくれた。調整が利かないとはいえ、こんな風に夢の中に登場させてしまうとは。本物のロロス司祭様、本当に、本当にごめんなさい。
夢の中のロロス司祭様が、自分の顎に親指を充てて首を傾げた。
「お嬢さん、それ、どうなってるの?」
「それ?」
「魅了じゃないよね。なんだろう……」
「……なんのこと?」
「……安心して、っていうのもおかしいけど……お嬢さんには、魅了はかけられてない、ね。でもさ……それは?」
ロロス司祭様は探るように訊いてくる。
さっきから魅了がどうのとか、それとか……。
全く意味がわからないので、答える気はもちろんない。
……うう。この夢、早く覚めて欲しい。
「ううん? 教えてくれる気はない、のかな……? そうかぁ……じゃあ、次ね。魂を対価に契約したでしょう?」
「……」
なんだか首の後ろがまた、本当に、ほんの少しだけちりちりと引きつれだす。
「隠さなくてもいいよ。そういうのは……わかるから」
司祭様がまた一歩、足を踏み込んで近づいてくる。わたしはまた一歩、後ろへと下がる。
「逃げないで。大丈夫。僕は怖くないよ」
司祭様が分厚い丸眼鏡を外した。
きらきらとする美しい黄緑色の瞳で優しく微笑みながら、わたしに手を差し出す。眼鏡を掛けたままでも、濃い金色の髪に後光が射しているかのように神々しかった。眼鏡を外した今は、きらきらと輝く黄緑色の瞳の威力が足されて、さらに神々しさが増している。もはや眩しい。
「こっちへおいで」
手を取らないで、黙ったまま首を左右に振る。
いや、いや、いや、いや。行かないよ? 『怖くないよ』と言われても……きれいな分だけ、なにか怖い。
ちょっと! わたし! 変な夢を見ていないでさっさと起きようよ!
司祭様が、また首を傾げて苦く笑った。差し出した手を、ためらいながらも引っ込める。
「ずいぶんと気を許しているんだね。あの悪魔に」
今、さらりと禁句を言った。
調整ができないだけで、わたしが言いたくて言っているわけではない。そのことだけはぜひ解ってほしい。
「……お嬢さんの願い事って、なに?」
「そんなことを知ってどうするの?」
「だって、この世界の秩序を乱す願い事なら困るでしょう?」
世界の秩序? どうしてそんな大きな話になるのだ。だいたい世界の秩序を乱すなどという願いなんて思い浮かびもしないし、なんなのかさえ想像もつかない。
「そんなこと、願わない。わたしはただ……」
「ただ?」
「…………ライトフィールド男爵家の借金を、利子も含めて全額ベナルブ伯爵に返せるように願っただけよ……」
……答えてしまうように、誘導された気がする。夢でもなにか悔しい。
ロロス司祭様は軽く腕を組んで考え込んだ。
「そうなんだ……。お嬢さんも、大変だったね」
ロロス司祭様の声がしんみりとした。首を傾げて眉が下がっている。
知っていたら力になったのに、などとでも言うつもりだろうか。
助けてくれたのはヴィーリアだった。ほかの誰でもない。
……自分の夢ながら訳が分からない。……もう、こんな夢、早く覚めて。
「そんな言葉は要らないわ。……もう、いい加減に夢から消えてよ」
「夢?」
ロロス司祭様が怪訝な表情をした。
「お嬢さん、もしかして、これは夢だと思っているの?」
当たり前だ。夢じゃないならなんだというのだ。
「……そうか、僕が急ぎすぎちゃったね。説明が足りなかった。ごめんね」
ロロス司祭様はそう言って、頭を下げて謝った。
「……」
「あのね、これは心を癒す治療法の応用なんだよ。……人間にはね、無意識下に、共通の集合的無意識の領域があるんだ」
…………?
もうすでに、なにを説明されているのかさえわからない。
「ううん……お嬢さんにもわかるように簡単に説明すると……人の心の奥のもっと奥には、共通する意識の流れがあるんだ。普段は自覚できないんだけど、眠っているとき、それから眠りと目覚めの狭間にいるときには、そこに意識が流れていく。心の治療をするときには、こうやってその流れの中で、意識を繋げてお話をするんだよ。僕は、やっと今日、お嬢さんの意識と繋がることができた。……鏡は世界の全てを映しているからね。だからこれは夢のようだけど、夢じゃない」
よほど、わたしがぽかんとした顔をしていたのだろう。ロロス司祭様はどこかで聞いたような台詞をつけて説明した。
理解したかどうかは、この際、置いておく。夢の中で、夢じゃないと言われても、正直なところ夢だとしか思えない。
「信じてなさそうだよねぇ……。ううん、どうしよう」
ロロス司祭様は困ったように苦笑した。
「……ん?」
ふと、司祭様がわたしの背後に視線を向ける。
「……残念。今日は時間切れだ。でも、考えておいて。僕はお嬢さんの、その契約を解いてあげられるかもしれない……またね……」
ロロス司祭様の姿は、光の粒子がばらまかれるように、現れたときと同じに足元から崩れて消えていった。
「ミュシャ!」
はっと目が覚めた。瞼を開けても昏い薄闇の中だった。うっすらと光を帯びた紫色の瞳と目が合う。白銀色の長い髪が、わたしの肩や胸にこぼれていた。
ヴィーリアが寝台の上でわたしの上半身を抱きかかえていた。
「わたし……?」
…………よかった。夢とは思えないほどはっきりとした夢だったけど、やっぱりさっきのは夢だった。
それにしても……なんでここにヴィーリアがいるの? あれ? もうそんな時間なの?
「……大丈夫ですか?」
こくんと肯く。大丈夫もなにも、ただおかしな夢を見ていただけだ。
「……ヴィーリアこそどうして?」
目が覚める前に、ヴィーリアがわたしの名前を呼んでいた気がする。
「気配があったようですので……」
「わたしは……夢を見ていただけよ」
「夢……ですか」
「それより、もう、そんな時間?」
「……いいえ。ですが……」
ヴィーリアがわたしを抱き起こした。そのまま背中を胸に寄りかからせる。頬にかかった黒檀色の髪を一房、背後から左耳にかけた。後ろからお腹に手を回して、しっかりとわたしを引き寄せる。顔が耳に近づく気配を感じると、冷たくて柔らかい唇が耳の縁をなぞった。甘噛みされ、冷たい舌で舐られる。魔法陣の奥から熱と疼きが広がっていく。
わたしの肩からこぼれて落ちる艶やかな白銀色の髪に、どうしようもなく安心感を覚えた。夢の中のロロス司祭様の言葉を思い返す。
『ずいぶんと気を許しているんだね。あの悪魔に』
だって、それは……契約者だから。魂に刻印をされたから。いずれわたしの魂は、ヴィーリアのものになるのだから。
『でも、考えておいて。僕はお嬢さんの、その契約を解いてあげられるかもしれない……またね……』
ただの夢だとはわかっている。それなのに、なんだか胸がざわつく。……もしかしたら、わたしは心の奥で、それを願ってもいるのだろうか。人間とは揺らぎだと、ヴィーリアは言っていた。
少しだけ強く耳を噛まれた。痛くはないが、いつもの甘噛みではない。
「ヴィーリア?」
「ミュシャ。貴女は私のことだけを考えていなさい」
なにかが燃えるような、焦げた匂いが鼻の奥に微かについた。……なんだろう。
以前にもヴィーリアに強く耳を引っ張られたときに、魔法陣にも触れられて、瞬間的に焼けつくような熱さを感じたことがあった。そのときにも同じ匂いがした。皮膚か髪が焦げたのだろうかと思ったが、後で鏡を見て確認しても、そんなことはなかった。
……なんだかとても眠い。夢を見て疲れたというのもおかしな話だが、まさにそんな感じだった。
「ヴィーリア。眠いの……」
「このまま、眠りなさい」
ヴィーリアがわたしの左耳から唇を放す気配はなかった。熱よりも疼きよりも、今は眠さが勝っていた。
ヴィーリアの胸にもたれたままで、瞼を閉じた。
読んでいただいてありがとうございます。(*'▽')