24 侯爵家からの信書
朝食の席についていると、なんの前触れもなく食堂の床から眩い碧色の光の柱が現れて、天井へと真っ直ぐに伸びていった。それは突然のことだった。皆が何事かとその光にくぎ付けになる。
碧色の光が徐々に薄れていくとその中から、紺色のローブを纏った赤い髪の少女が現れた。
「アロフィス侯爵家所属の、魔術師の……レリオと、も、申します」
少女は恭しく跪いて礼を取った。名乗った声は完全に裏返っていて、その上、震えて聞こえた。
「……えと、あの……。お食事中のところ、大変申し訳ありませんっ。アロフィス侯爵様から、ライトフィールド男爵様に、し、信書をお届けに、参りましたっ」
アロフィス侯爵家の、おそらく諜報部から使いの魔術師がきた。
伯爵がお父様に謝罪をしてから今日で七日目。
『七日ほどお時間を頂ければと……』
伯爵の語った噂に関する件を調査するために、ヴィーリアがお父様と約束をした期限だった。
……これ、転移魔術だよ、ね?
ヴィーリアに二回、転移を体験させてもらったが、実際に魔術師が転移をしてくるところは初めて見た。碧い光の柱が立った光景はかなり幻想的だった。それにくわえて公都からリモール領まで転移してきたということに、お父様もお母様も、ブランドもベルもルイも、もちろんわたしもだが、食堂に居合わせたヴィーリアを除いた全員が驚愕して、ただ茫然と眺めていた。公都へ行くにしてもリモールに来るにしても、汽車に乗ってもまる一日以上はかかるはずだ。
ここリモールでは転移魔術など物語や歴史書の中でしか語られない。リューシャ公国の片田舎の中の片田舎、西の辺境のリモール領には魔術師などいないのだから仕方がない。皆、驚きのあまり口を開くことさえ忘れていた。多少はヴィーリアの魔術に慣れたわたしだって、眩い碧色の光の中から突然に人が現れるという神秘的な光景に目を奪われた。
レリオと名乗った赤い髪の魔術師の少女は皆にじっと見られたままで、どうすればいいのかと困惑した様子だった。「あの……」と、顔を上げる。そのとたんにびくりと肩を震わせてすぐに下を向いてしまった。
レリオは細かく震えていた。その手には封蝋で印璽されたアロフィス侯爵家の信書を携えていた。
「あなた、お茶が……」
お父様は手に持ったティーカップから紅茶がこぼれかけている。
気が付いたお母様が慌てて声をかけた。
お父様がはっとしたようにティーカップを持ち直す。
「お使いご苦労だったね。……男爵様に報告書をお渡ししてくれないか」
一人、平然としていたヴィーリアが優しく声をかけた。
「は、はいっ」
レリオの声がさらに裏返った。緊張のせいなのか、なんなのかよくわからないが、可哀そうなほどにびくびくしている。そして、今度は大きく震えだした。
……まさか、ヴィーリアに怯えているの?
魔術師なのだからヴィーリアのような人の理の外の者には慣れているはずと思うのだが、違うのだろうか。レリオのこの震える様子は、なにも知らないお父様たちからしたら、もはや挙動不審の域だと思う。
レリオを気遣ったヴィーリアの声にブランドが一番に反応した。
震えが止まらないレリオから信書を受け取り、お父様に手渡す。
「……これは、これは公都からよく来てくれた。……レリオと言ったかな? わたしたちは魔術も魔術師も珍しくて……。失礼したね。今、部屋を用意するから、すこし休んでいくといい」
「ひっ!」
ひっ?
レリオは恐ろしいことを聞いてしまったという顔で、慌てて大きく両手を振る。
「いや、あの、し、失礼いたしました。わたしはこの後も、し、仕事が立て込んでおりますゆえに、これで失礼させていただきますっ」
そう言うや否や、口の中でなにかを素早く唱えた。眩い碧色の光の柱が、床から天井に真っ直ぐに伸びていく。魔術師の少女の姿はすでに光の柱の中にあった。碧色の光がおさまるとレリオの姿は食堂から跡形もなく消えていた。レリオが現れたときと同じように皆、彼女が消えた誰もいない空間をただ茫然と眺めていた。
「……魔術師というのは、皆……あのように……忙しないのですかな?」
かなり言葉を選んだお父様がヴィーリアに尋ねる。
「さぁ、どうなのでしょう? アロフィス侯爵家の次男とはいえ、私も魔術だけにはいささか疎いものですので……」
ヴィーリアは柔らかな口調でにこりと微笑んだ。それから、紅茶を美味しそうに一口飲んだ。
朝食後に執務室で、アロフィス侯爵家からの報告書を開封することになった。これにはわたしも同席を許された。
お父様がペーパーナイフで信書を開封すると、中からは数枚の報告書が出てきた。お父様の目が慎重に、報告書に書かれた文字を追っていく。読み落とさないようにゆっくりと丁寧に、すべてに目を通し終えると、お父様は顔を上げて安心したようにほっと息をついた。
「ベナルブ伯爵様がお話してくださったことは、真実のようだ」
▽▲▽▲▽
アロフィス侯爵家から報告書が届いてから二日後に、お父様とお母様は伯爵領へと発った。お父様とお母様は伯爵領での協議が終わるとそのまま公都へと向かう。公都ではアロフィス侯爵家を訪ねた後に、シャールとノルンに会いに行く予定になっていた。
『伯爵様とは……いろいろとあったが……。やはり、我がリモール領に救いの手を差し伸べてくださったことを忘れることはできない。……信用を回復するためには時間が必要だ。それは、これからの伯爵様次第でもある。私は……過ちを認めた伯爵様の勇気を汲みたいと思う。将来的にはお互いに信頼し合うことができる、友好的な関係を築いていけることを願っている』
お父様はそう言った。
わたしがヴィーリアに願ったことがいよいよ、ここまできた。
「……何を考えているのですか?」
午後のお茶の時間に、隣で紅茶を飲んでいたヴィーリアが訊いた。ここ最近は特に問題もなく、司祭様たちもいないために、紫色の瞳の色は穏やかだった。
司祭様たちは屋敷には戻っていなかった。リモール山脈の麓の村を出ると、今度はそのままユーグル山脈方面の村へ向かうとの手紙が届いていた。
「……この間の、アロフィス侯爵家からきた魔術師の女の子のこと」
本当は違うことを考えていた。ヴィーリアとなにか勝負をしている訳ではないが、それを口に出してしまえば負けのような気がしていた。
「それが、どうかしましたか?」
「アロフィス侯爵家から、まさか本当に魔術師が報告にくるとは思わなかったわ」
「侯爵に連絡はつけてありましたから」
「それは聞いていたけど。本当に侯爵家に依頼しているとは思わなかったの。ヴィーリアがお父様に直接、報告するのかと思っていたから。だってヴィーリアは指を鳴らしてすぐに、伯爵の噂が本当なのかどうなのかをわたしに教えてくれたでしょ?」
「貴女にだけ伝えるのならそれで済むことですが、男爵は公都に出て、侯爵家に挨拶に行くようでしたので。当然、そういった話にもなるでしょう。……男爵がこの件について礼をするのなら、侯爵に話を通して調査をさせておかないと、いろいろと面倒なことになりますから」
……それもそうだ。ヴィーリアがいきなりわたしの婚約者になっていたことを思い出す。なにも知らされていなかったわたしは大いに戸惑って、ヴィーリアに抗議した。アロフィス侯爵様だって、いきなりお父様から伯爵の噂に関する調査の礼を言われたら、なんのことかわからずに戸惑うに違いない。
「それにアロフィス侯爵家の魔術師たちは優秀です。私の眷属と契約を交わしている上に、今は私の力の一部を許可し、制限を弛めていますので」
……珍しくヴィーリアが褒めた。と思ったら、当たり前だというようにしれっと自分の優秀さを付けくわえる。
「眷属って?」
「……従者のようなものです」
「ふうん。そうなの……」
仕えてくれているブランドやベルのような者たちなのだろうか。
ヴィーリアのことはまだほとんど知らない。知っていることといえば、リモール産の紅茶が気に入っていること。意外と凝り性で、好奇心があること。すぐにタイを弛めること。ときどき、鋭い言葉でわたしを刺すこと。わりと強引で不埒なこと。わたしをよくからかうこと。夢を見ないと言っていたこと。爛れた雰囲気を出すのが得意なこと。二人のときは慇懃無礼なくせに、表の顔は好青年な婚約者であること。意外と優しいところがあるかもしれないこと。わたしの血に引かれたこと。わたしと魂の相性がいいらしく、一部が繋がってしまったこと。時折、人ではないと思い知らされること。紫色の瞳が深くて綺麗なこと。
……ほら。知っていることはわたしと契約してからの、こちら側のヴィーリアのほんの少しのことだけだ。
「……彼女、最初は緊張して震えているのかと思ったけど……もしかして、ヴィーリアがいたから?」
「さあ? どうなのでしょう」
口角が少し上がった。この笑い方は……たぶん、いや、絶対にそうだ。
「なにかしたの?」
「私はなにもしていませんよ。……ただし、あちらが勝手になにを感じるのかまでは興味はありません」
やっぱり、レリオと名乗った魔術師の少女はヴィーリアに怯えていたらしい。
ヴィーリアは、人の理の外の者に慣れているはずの魔術師でさえ怯えるほどの存在なのだろうか。今まで考えたことはなかった。しかし確かに『……私が貴女に召喚された時点で願いの半分は叶っていたも同然なのですよ』とかなんとか言っていた。余程の自信と力がなければそんなことは言えないだろう。
……わたしは魂を対価にヴィーリアと契約をした。紋章も刻印されて、魂の一部も繋がってしまった。でも、そんなことも知らない。
この深い紫色の瞳の、もっともっと奥にはなにが隠されているのだろうか。
「ミュシャ」
ヴィーリアがわたしの腰に手を回して引き寄せた。額がとん、と、硬い胸にぶつかる。
なんで? 今、そんな雰囲気じゃなかったでしょ?
「ちょっと、離してよ」
「……あまりに情熱的に見つめられたので、ご期待にお応えしようと思ったのですが?」
「そんなに見つめてないよ!?」
「そうですか?……相変わらず貴女の情緒は理解し難い」
わたしを抱き寄せたままで、ヴィーリアは紫色の瞳を細めて喉の奥でくっと笑った。
▽▲▽▲▽
「……お嬢さん、……お嬢さん」
暗い部屋の中で微かに声が聞こえる。
……ん? 誰?
「……お嬢さん、……お嬢さん」
繰り返し声がする。聞こえてはいるが、わたしの意識は眠りと覚醒の狭間にあった。完全に眠っているわけではないが完全に起きているわけでもない。もしかすると、こういう夢を見ているのかもしれない。
気のせいかもしれないが……首の後ろがほんの少しだけちりちりとひきつれている感じがある。
「……お嬢さん、……お嬢さん」
……お嬢さんってわたしのことなの? わたしを呼んでいるの?
ぼんやりと目を開けると、枕元に置いた小さな丸い鏡の鏡面が、きれいな黄緑色にうっすらと光っている。
……なに? これ?
家庭菜園で拾った鏡は泥を落として、きれいに磨いた。その後は机の引き出しに入れたままになっていた。それを寝る前にふと思い出して眺めていた。大切に、丁寧に使われてきたような鏡だったので、木枠のどこか隅に持ち主のイニシャルでも彫られていないかと探していたのだが、そういったものは見つからなかった。最初はシャールの落とし物だと思った。でもシャールがこの鏡を使っているところを見たことはない。明日にでも屋敷の皆に訊いてみようと思っていたところだった。どうやら鏡を眺めているうちに眠ってしまったらしい。
微かな声は鏡から聞こえていた。不思議と怖いとは思わなかった。手を伸ばして鏡を手に取る。うっすらと光っている鏡を覗くと光と同じようなきれいな黄緑色の瞳が映っていた。
「よかった……。やっと繋がった……」
また首の後ろが、ほんの少しだけちりちりと引きつれたような気がした。
「あまり時間はない、かな?」
鏡の中から声がした。鏡の中に映っている黄緑色の瞳は、よく見ると縁が緑色で、中心に向かうにつれて黄色味が強くなっていた。とてもきれいな色をしている。
……誰、これ? こんな瞳の色を持つ人は知らない。……ああ、そうだ、きっと夢だ。
「お嬢さん、おいで……」
その瞳と目を合わせて、その声を聞いたとたんにわたしの意識は落ちた。正確にいうのなら、意識はある。でも身体と意識が切り離されたような感じだった。身体は指先ひとつ動かすことができない。意識だけがそのまま、すうっと落ちていくような、浮かんでいくような不思議な感覚に包まれていた。




