22 伯爵の告解
ヴィーリアが扉を開けた。扉の前のお父様とお母様に「どうぞ。入って」と声をかける。
出て行こうとしたヴィーリアにお父様が「一緒に」と部屋の中へと促した。
ソファにはお父様とお母様が並んで座り、向かい合ってわたしとヴィーリアが座っていた。
「お話があるとのことですが……」
おずおずと訊いてみる。
「ああ、そうだ」
お父様がこほんと咳ばらいをした。
……うう。緊張する。協議結果の説明はすぐにでも聞きたいのだが、覚悟はしていてもお説教は気が重い。全てはわたしの行動の結果なのだから仕方がないのだが……。それならば気が重いことは先に済ませてしまうに限る。
すうっと息を吸い込む。
「ごめんなさいっ」
「すまなかった」
お父様とわたしの声が重なった。
……ん?
下げた頭を上げるとお父様もちょうど顔を上げていた。二人で訳が分からずに顔を見合わせる。
「あの、お父様、わたし、叱られると思っていて……?」
「叱る? なぜだ? 私のほうこそお前の気持ちを汲んでやれなかったと……?」
二人で顔を見合わせて首を傾げるとお母様が笑った。
「あら。さすが親子。息がぴったりね」
ん?
つまり―――。
協議に参加させてもらえなかったわたしは成り行きが心配で、居ても立ってもいられずに執務室の前をうろうろと歩き回っていた。その末に躓いて足を捻ってしまい負傷した。と、いうことになっていた。
『ミュシャ様は男爵家の将来とシャール様のことをそれはそれは非常に心配されていました。協議に参加できなくとも側で見守りたい。そんなお気持ちだったのでしょう』などとヴィーリアがお父様に伝えたらしい。
そんな娘の心の内を汲み取ってやれずに協議に参加させる許可を出さなかった。あげくに足まで怪我をしてしまって……。と、いうことでお父様はわたしに謝ったのだ。
ちくちくと針を刺された様に心が痛い。お父様に謝罪されるのはかなり申し訳ない。しかし、ヴィーリアが伝えたこともあながち間違いでは……ない。うん。そういうことにさせてもらおう。
そしてブランドは見たくもないのに見てしまった、グラスを片手に扉にへばりついたわたしの姿をお父様にも黙っていてくれたのだ。ありがとうブランド。感謝しかない。うん。
……それにしても意外だったのは、ヴィーリアがお父様にそのような話をしてくれたことだ。
シャールと伯爵の『破談を願ったことに責任を感じる必要はない』と言われたのは、昨日のこと。
そしてつい先ほども『起こり得るすべてのことに貴女が責任を持つ必要はない』と同じようなことを言われた。しかし、その後のことはいつものヴィーリアらしくはなかった。その紫色の瞳でじっとわたしを、ただ見つめているだけだった。
唇にまだ指の感触が残っている。
……あれは慰めてくれたつもりなのだろうか? それとも、ただの気まぐれなのか。どういうつもりだったにしろ……ずいぶんと心の中は軽くなった。
隣で真摯な振りをしてお父様の話を聴いていたヴィーリアが、わたしの視線に気が付いて慈愛に満ちたように見える紫色の瞳で微笑んだ。表の顔は本当に好青年で、完璧な婚約者だ。
「……それで、ミュシャ、足の具合はどうなの?」
お母様が足首の白い包帯に目を向けた。
「軽く捻っただけよ。念のために包帯を巻いているけど、心配はいらないわ」
ごめんなさい。嘘です。心配ないのは本当だけど。
「そうか……。司祭様が戻ってきたら治療をしてもらおう」
「え!? いや、お父様、本当に大丈夫なのよ?」
慌てて断る。いろいろとこれ以上面倒くさいことにはなりたくない。
「しかし……」
「男爵様、私は医術も少々嗜んでおりますが、ミュシャ様の足には神殿の治療は必要ないかと思います」
「……そうですか。ヴィーリア殿がそういうのなら……」
渋々というようにお父様が肯いた。
「……それでな、今月末が最終期限の督促状の件だが、伯爵様が自分から破棄した。今までに男爵家が支払った返済金を新しく取り決めた利子で計算し直して、過払いがあった場合は返還してくれることになった」
「まあ! それは……本当に良かったです!」
お父様が協議結果を報告してくれていた。
すでにヴィーリアから聴いていたことだが、改めてお父様の口から聞くと感慨深い。
お父様もお母様もようやく肩の荷が下りてほっとしているのがわかる。張りつめていたものがやっと取れたようだ。
「本当に……お前にも苦労をかけた。もう、なにも……心配しなくていい」
「お父様……」
お父様が目頭を指で押さえた。お母様はそんなお父様の背中を優しくさすっていた。わたしも思わず言葉に詰まる。
冷たい手がわたしの手にそっと重ねられた。お父様たちの前での芸が細かい。
「それから……伯爵様の噂の件だが……」と、お父様に伯爵が語ったことをまとめて話してくれた。
ベナルブ伯爵が爵位を継いだのはまだ若いうちだった。先代の伯爵である父と伯爵夫人である母が不慮の事故で早逝したために、一人息子であった伯爵が爵位を継いだ。
伯爵領は小麦の収穫量も高く豊かな土地であったために、若い伯爵に取り入り、後見人になろうとする者が後を絶たなかった。そのための縁談も数多くあった。しかし、継いだばかりの爵位の職責を果たすために、余裕のなかった若い伯爵は首を縦に振ることはなかった。その中には社交界で力を持つ貴族の令嬢との縁談もあった。
数年が立ち執務にも慣れた頃には、山のようにあった縁談はほとんどなくなっていた。そのうちに自分に関する社交界のある噂が耳に入るようになる。青年となった伯爵が若い令嬢たちを誘惑し、結婚の約束を内々にしたあげくに捨てて、修道院に送っているというものだ。噂の出処は断った縁談の家門だった。
伯爵はその噂を耳にするたびに否定して回ったが、真偽は定かではなくとも醜聞であればあるほど広まりやすい。やがて噂には尾ひれがついた。隠し子が何人もいるだの平民の娘までをも騙しているなどと、社交界の退屈しのぎに面白おかしく語られた。伯爵は否定すればするほど広まる噂に疲れ切り、収拾するのを諦めた。事実無根なのだからやがては治まるだろうと信じて。
五年前に隣接するリモール領が局地的な異常気象に見舞われた。伯爵は困窮するリモール領に手を差し伸べた。そして、その後にシャールと出会う。正式な求婚を考えたが、噂は何年たっても人々の口の端に上っていた。
伯爵は悩みに悩んでどうすればいいのかわからなくなった。そして、ある計画を思いついた。融資をしている男爵家に返済が不可能なほどの莫大な債務を背負わせ、あくまでも担保として領地の接収とシャールとの婚姻を要求するというものだ。それならば男爵家は婚姻を拒むことはできない。そして二年前に男爵家に今月末を最終期限とした督促状を送った。シャールとの婚姻が成された後には再度、返済についての話し合いの場を設けるつもりだった。
今は、お父様と向き合い、話し合うのを恐れたことを、それを心から恥じていると言った。
督促状を破棄しお父様に誠心誠意の謝罪を申し出た、とのことだった。
「詳しい調査はヴィーリア殿が引き受けてくれた。全てはそれからだが……」
「アロフィス家の諜報部は非常に優秀で有能です。すでにアロフィス侯爵には連絡をつけてありますので、七日ほどお時間をいただければ……」
非常に優秀で有能なヴィーリアがお任せ下さいと微笑んだ。
「おお。お手を煩わせてしまうが、よろしくお願いしたいと思っております」
お父様とお母様がヴィーリアに礼をする。いつものようにお母様がわたしに目配せをした。「ありがとうございます。ヴィーリア様」と、白々しくならないように精一杯の笑顔をつくる。
「それにしても……よくよく話を聞いてみると伯爵様については同情の余地もある。それに我がリモールの恩人だ。……しかし、失った信頼は一朝一夕でそう簡単に取り戻せるものでもない。伯爵様はシャールとの婚姻を望んでいるが……当のシャールは公都だ」
お父様が残念そうに首を振り、どうしたものかと腕を組んでため息をついた。お母様も隣で眉をひそめている。
「男爵様、結論を急ぐ必要はありません。諜報部の調査した結果次第でお決めになればよろしいかと」
「そうよ、お父様。それにシャールはどう思っているのか……。お父様たちは公都へ行くのでしょう? シャールの気持ちを確認してみてはいかがです?」
ヴィーリアとわたしの提案にお父様は思案気に顎をさすった。
「ふむ……それも、そうですな。伯爵様の語られたことが真実だったときは……シャールの気持ちを聞いてみよう」
「そうね。それがいいわね」とお母様も肯いた。
お父様の後について部屋を出る時にお母様が「ああ、そうそう」と振り向いた。
ハンカチに包んでいた物をことりとテーブルに置く。
「!?」
「ミュシャ、忘れ物よ。きちんと厨房に返しておきなさい」と、片目をつむった。
いつの間にか手の中からなくなっていたグラスだった。
ああ、お母様には当分頭が上がらない……。
お父様たちが部屋を出ていくとヴィーリアはすぐに片手でタイを弛めた。
「伯爵はお父様に謝罪をしたのね」
推測したベナルブ伯爵の馬鹿な画策(仮定)は概ね、その通りだったようだ。仮定から確定に格上げになった。
お父様も言っていたように伯爵の話が本当ならば……同情する面もある。だからといって失った信用はすぐに取り戻せるものではないのだが。
「伯爵の話は……どうなの?」
ヴィーリアが人差し指を唇の前に立て、静かにと合図をして目を閉じる。ぱちんと指を鳴らした。ついでにテーブルの上のティーポットの注ぎ口からも白い湯気が上がる。
「………まあ、嘘はないようですね。正確にいうのなら家門というよりは、そこの令嬢が噂の元のようですが」
「そうなの……。伯爵は、気の毒ね……」
「……」
「ご令嬢もどうしてそんな酷いことを……」
縁談を持ちかけた相手に断られたからといって、そういった仕打ちを返すことはどうなのか。貴族同士のことなので理由はそれだけではなく、そこにはいろいろな思惑が絡み合っているのかもしれない。しかし、だからといって……。
ヴィーリアはカップに新しい紅茶を注いでくれた。
「まあ、そのようなことを考えるのは貴女らしいですが……。その令嬢は非常に人間らしい」
足を組んで紅茶の香りを鼻先にくゆらせて愉しんでいる。
「人間、らしい?」
「……人間は揺らぎです。善でもなければ悪でもない。光でもなければ闇でもない」
なんとなく……解るような気もするし、解らないような気もする。
「でも……酷い噂を流したのはどちらかといえば『悪』でしょ?」
「そこだけを切り取ってみれば……。ですが、最初から最後まで全てが一貫した『悪』というわけではない。そうですね……貴女にも解り易く例えるならば……もしかしたらその令嬢は、匿名で孤児院に多額の寄付をしているかもしれない。もしかしたら雨の中に捨てられた、子犬やら子猫やらを救ったかもしれない。もしかしたら、伯爵に恋をしていて哀しい涙を流したのかもしれない……。それらが全て『悪』ですか?」
「そういわれると……」
「伯爵だって、貴女だって同じです」
伯爵も、わたしも、同じ?
「伯爵はリモール領を救った。そしてその手で貴女方を追い詰めた。ミュシャ、貴女は魂を対価とすることを『わかっている』と言った。しかしその覚悟は常に一定ではなく揺れ動いている」
「……」
嵐の後に図書室で『わたしはヴィーリアの玩具じゃない』と言い、ヴィーリアは笑うのをやめて『今は……まだ、ね』と言った。その言葉は胸の奥に重く沈んだ。覚悟はしているつもりだったのに。
「責めているのではありません。人間は……その狭間で迷い、悶える様がそれは美しく、儚く、非常に興味深いのです」
人の理の外の者からしたら、ということなのだろう。紫色の瞳は熱を帯びたように深く蕩けて、わたしを見つめていた。……ヴィーリアが朔の闇から現れたことを改めて思い知らされる。
「……でも、だからといって、そんなことをしていいとはとても思えないわ」
「貴女ならそう言うでしょう。しかし、それは私たちにはあずかり知らぬことです。人間同士で裁定すればいい」
ヴィーリアはいつもの通り平然と言う。
白く長い指は黒檀色の髪を一房掬って、指に絡めていく。深い紫色の瞳は蕩けたままでわたしの琥珀色の瞳を覗いた。……わたしの中の、なにを見ているのだろうか。
怖い、とも思う。それでも、美しいとも思ってしまう。ヴィーリアから……目を逸らすことができない。
その夜は寝台に横にはなったがなかなか眠れなかった。いろいろなことが頭に浮かぶ。長い一日だった。
闇の中に微かに輪郭をなす、テーブルの上に置かれたグラスをぼんやりと眺めた。
シャールとフェイは大丈夫だろうか?
ヴィーリアはお父様に『七日ほどお時間をいただければ』と言っていた。アロフィス家の諜報部の報告として、伯爵の語りの真偽を伝える期限だ。
報告を受けたお父様が伯爵とシャールの件に判断を下したら、ヴィーリアはどうするのだろう。シャールと伯爵の話し合いが実現するまではこちらに留まっていてくれるのだろうか。それとも司祭様たちが次の地へと発つために、リモール領を去るときまでは留まるのだろうか。それともアロフィス侯爵家とライトフィールド男爵家の事業が軌道に乗るまでなのだろうか。それとも……。
わたしの願いの成就を見届けるまではこちらにいると言った。それは一体どこまでなのだろう。
読んでいただいてありがとうございます。(*'▽')
本当に長い一日だった……(-_-;)