21 ただ望めばいい
「……哂ってる?」
「……いいえ」
「……じゃあ、怒ってる?」
「…………いいえ」
「間があった。やっぱり怒って……」
「ご存じでしょう? 貴女に嘘はつけません。ただ……どうしたらこう度々と……呆れているだけです」
……うう。そんなことはわたしが訊きたい。
情けなさと恥ずかしさで顔中が、いや、身体中が熱い。へんな汗も出ている気がする。
紫色の瞳に物言いたげに見下ろされながら、横抱きに抱えられて執務室から部屋まで戻った。寝台に下ろされて座らされる。ヴィーリアはわたしの足元に片膝をついた。
▽△▽△▽
執務室への扉の前でグラスに耳を充てている現場をブランドに見つかってしまい、とっさに躓いて足首を捻って痛めたふりをした。なぜかブランドの後ろには見習い司祭様がいた。ブランドに案内されて応接間に通されたようだった。
疑うことを知らない純粋な見習い司祭様は、親切にも痛めた足を診ようとしてしゃがみ込んだ。
『ミュシャ!』
わたしの飛んでいった平常心と危機感に反応したヴィーリアの緊迫した声を聞いた後に、執務室の扉が勢いよく内側に開かれた。その結果、扉にぴったりと背中をへばりつけていたわたしは、支えを失い開けられた扉と一緒に執務室の床へと転がった。
ヴィーリアが突然にわたしの名前を呼んで応接室へ繋がる扉を開けたことにも驚いたのだろうが、開けられた扉から転がり込んできた娘を、お父様もお母様も伯爵も何事かとあっけにとられたように茫然と眺めていた。お父様はソファから立ち上がりかけて中腰になり、お母様は両手を口に充てていた。
伯爵も立ち上がろうとしていた。仰向けに転がったままのわたしと目が合うと、見てはいけないものを見てしまったという困惑した表情がありありと読み取れた。そして、さっと視線を逸らした。
位置的に見えなかったが、見習い司祭様もブランドも同じような顔をしていたことだろう。
わたしの頭の中は真っ白だ。
実際には数秒の間の出来事だった。しかし、それ以上に長い時間に感じられた。
……穴があったら入りたいとはまさにこのこと。
ヴィーリアだけがすでに冷静さを取り戻し、いつものように平然としてわたしを見下ろしていた。そして、素早く着ていた上着を脱ぐと、足のふくらはぎの途中までまくれ上がっていたスカートにかけて隠してくれた。足首までの丈のあるスカートをはいていて良かったと、これほどまでに思ったことは今までにあっただろうか。いや、ない。もっと短めのスカートをはいていたらと思うと想像するだけで恐ろしい。
そこでようやく我に返ったであろうブランドが『お嬢様は廊下で躓かれて足首を痛めてしまったようで、こちらでお休みをしていらしたようです』とかなんとか、お父様たちに説明をしていた。
『ミュシャ様を部屋に送りますので、皆様はこのままお話を続けてください』
ヴィーリアは丁寧だが有無を言わさぬ口調だった。そのまま横抱きに抱えあげられた。見習い司祭様がわたしになにか言いたそうに手を伸ばしかけたが、ヴィーリアはそれを無視して通り過ぎた。
執務室から部屋に運ばれる途中、握っていたはずのグラスが手の中にないことに気が付いた。
▽△▽△▽
「それで? 痛めた足首はどちらですか?」
寝台に座らされて靴を脱がされる。足元のヴィーリアは片膝をついていた。足首の捻り具合でも見てくれるつもりだろうか。
「……」
うつむいてもぞもぞと左右の足の甲を交差させる。
「返事がないようですので……」
足首にヴィーリアの手がかかる寸前で両足を横に振ってかわす。
「……」
「……ケガなんかしてないって知ってるくせに。ヴィーリアの意地悪」
「……おやおや。あのようなあられもない姿を晒したところを助けてあげたというのに」
「……それは、ありがとう」
油断したところに両方の足首を掴まれた。情けなさと恥ずかしさで火照っている肌に、冷たい手で触れられるとぞくりと肌が粟立った。
「ちょっと……」
「私は貴女に何度も何度も申し上げたはずです」
足首を掴む手にも、目許にも、「何度も」にも心なしか力が入ったように感じる。
「……ごめんなさい」
昨日と今日だけでも『なるべく一人で行動しない』『周囲に注意を払う』『危険を感じたら、もしくはおかしいと感じたらすぐにヴィーリアを呼ぶ』というわたしの行動指針を守っていない。三点目はヴィーリアが先に察知してわたしのもとに駆けつけてくれている。
理由や言い分はあるのだが……心配をかけているのでごめんなさいとしか言えない。
「やはり口で言っても解らないようですね。……どちらの足がご希望ですか?」
「なにが……?」
言いかけてはっとする。ヴィーリアの紫色の瞳が妖しく光り、口角が上がったような気がした。
「本当に怪我をしてしまえばお一人で歩き回ることもないでしょう?」
さっと血の気が引いていくのがわかった。
「いや、あの、本当に反省はしているの」
寝台についた両腕を突っ張って泳ぐときのように足を上下に動かして逃れようとした。精一杯の力を込める。しかし、ヴィーリアの手は全く弛まずに動かない。いつものことだから解ってはいた。力では敵わない。それでもなんとか手を外そうと、足を動かすために力を入れ続けた。……疲れる。でも痛いのは絶対に嫌だ。
その間、ヴィーリアは微動だにしなかった。
まさか……。本気じゃないよね?
「お嫌ですか?」
そんなの訊くまでもない。嫌に決まっている。必死にこくこくと肯くと、ヴィーリアはため息をついて掴んでいた足首を放りだした。
「あ」
足首を急にぽいと放され、上下に力を入れていた反動で足が跳ね上がり、寝台に仰向けにひっくり返った。……今日はそういう日なのかもしれない。
「……」
「……」
ヴィーリアは起き上がるのに手を貸してくれた。どさりと隣に座り、足と腕を組む。
「まったく……貴女は……。私を待っていられなかったのですか?」
黙って肯く。
「自重して下さい」
「……はい」
扉がノックされた。これはベルのノックの音だ。ヴィーリアが扉を開けるとベルが救急箱を持って立っていた。「私がやります」とヴィーリアが受け取る。ベルは心配そうな様子で下がっていった。
……ごめんね、ベル。
ブランドはわたしがなにをしていたのかは黙っていてくれたようだ。
「どうしますか?」
ヴィーリアが救急箱から包帯を取り出す。
「……巻いてください」
ヴィーリアは片膝をついて、右足首に器用に白い包帯を巻いてくれた。
歩くのが辛いからという理由をつけて夕食を部屋に運んでもらうことにした。しばらくはそれを理由に部屋で食事を取ろうと思っている。お父様とお母様はまだしも、ベナルブ伯爵と顔を合わせるのは、気まずい。
ベルが食事を運んでくるとヴィーリアもついてきた。ここで一緒に食事をするらしい。足の白い包帯に目を留めたベルに具合を尋ねられて、良心の呵責を覚えながらも軽く捻っただけなので心配はいらないと答えた。それを聞くとベルは安心したのか表情をやわらげた。
二人で向かい合っていつもより遅めの夕食を終えると、指を鳴らしてヴィーリアが紅茶を淹れてくれた。飲むたびに美味しくなっている。意外と凝り性なのかもしれない。
「……協議は終わったの? 伯爵はきちんと話をしてくれた?」
気になっていたことをようやく訊くことができた。
ヴィーリアは包帯を巻いてくれた後、執務室に戻っていた。
「そうですね……。後で男爵が貴女を訪ねるようなので説明があるでしょう」
「え? お父様がくるの?」
「話があるそうです」
「……」
協議内容の説明とは別に執務室へ転がり込んだ件で叱られるのだろうか。確かにあれは稀にみる醜態だった。しかし、扉にもたれかかっていたのなら開かれたら倒れ込むのは必然。不可抗力のようなものだ、と言えなくもない。ブランドも躓いて足を捻ってとかなんとか言い繕ってくれていたはず。ああ、でもグラスをどこかに置いてきてしまっている……。執務室以外には考えられない。
……うう。叱られるのは気が重いが仕方がない。わたしが悪いのだから。
心の中でため息をつき、気になっていたもう一つのことも訊く。
「見習い司祭様はどうして屋敷に戻ってきたのかしら? ……それに、あんなに近くにいたのに首がちりちりする感じはなかったの。弾かれるような感じもしなかった」
「まあ、そうでしょうね。契約前ですから」
ヴィーリアは澄ました顔でお茶を飲んでいる。
「契約を済ませなければ力もありません。ただ神殿の人間というだけです」
……見習い司祭様は司祭長様から金糸の刺繍が入ったローブを授与されて晴れて司祭様になれるとかなんとか聞いたことがある。ローブを授与されて司祭様になるにはその前にヴィーリアのいうところの契約を交わしているということなのか。
それならば見習い司祭様には気をつけなくても大丈夫なのでは? と訊いてみると「私のものに神殿が干渉してくること自体が鬱陶しいのです」と心の底から厭うように眉をひそめた。ヴィーリアのこんな表情も珍しい。
「……それで見習い司祭様はどうして屋敷に?」
「馬車で二人を町まで乗せた報告と忘れ物だと聞きました」
二人を町まで乗せた……。シャールとフェイだ。なんとなくそんな気はしていた。まだ暗いうちから屋敷を出て丘を下って町まで歩くのは大変だ。ましてや大きな荷物も抱えている。そういえば……。
「……今朝、シャールとフェイが家を出たのを知っていたでしょ?」
少し不満げに紫色の瞳を見つめた。
「……」
「どうして教えてくれなかったの?」
「訊かれなかったものですから」
悪びれることもなく微笑む。……そうだ。こういう性格だった。
「知っていたら馬車を止めたとでも?」
そう問われると、言葉に詰まる。
シャールが望んだことならそれを止めさせるつもりも権利もない。だけど……。
「どう、かしら? ……ただ……なにか」
「では問題はありませんね」
いつものように平然と言う。それはそうなのかもしれないが、シャールが家を出て公都に行ったとお母様に聞いたときからなにか……もやもやとした釈然としないものが心の隅にくすぶっていた。
「……なにかもっと力になれることがあったかも」
「おやめなさい。貴女が知らなくても知っていても貴女の妹は家を出たのです。気が付いていたら自分がなにかできたかもしれないなどという甘い驕った考えは捨てなさい。勝手な罪悪感は傲慢なだけです。貴女は……」
「……」
言い方があると思う。しかし……ヴィーリアの言うことは……たぶん、間違いじゃない。
心の隅にくすぶっているものの正体は、まだ、なにか自分にできることがあったのかもしれないという勝手な後ろめたさ……なのだろう。
「また……そんな顔を」
「……ヴィーリアのせいだもの」
嘘ではないが八つ当たりでもある。ヴィーリアだけなのか、または人の理の外の者というのは全てこうなのか。性格に少しの嗜虐性を感じてしまうのは気のせいではないはず。
ヴィーリアが席を立ち、わたしの隣に座った。長い指が黒檀色の髪を耳にかけた。そのまま耳の形をなぞり、頬をたどって唇を摘ままれる。
「それは光栄です。……ですが、唇を噛むのはよしなさい」
指がするりと唇の間に割り入り噛むのを止めさせる。そのまま三本の指はついてもいない歯形を消すように下唇を優しく撫で、軽く摘まむ。冷たい指先の感触がくすぐったい。
本当に油断も隙も無い。
「……やめ、んん」
やめてほしいと開いた唇を途中で手のひらに隠された。もう片方の手で自分の唇の前に人差し指を立てる。ヴィーリアの顔が近づいて深い紫色の瞳が細められた。
「貴女はただ……望めばいい」
……? 契約事項の再確認だろうか?
「つまり……起こり得るすべてのことに貴女が責任を持つ必要はないということです」
「……」
本当なら手を振り払わなくてはいけない。いつもならとっくにそうしているはずだ。
それなのに腕を動かせない。
部屋の扉がノックされた音ではっと我に返った。
「ミュシャ。私だ」
ヴィーリアがすっと席を立って扉を開けた。
読んでいただいてありがとうございます。(*'▽')