20 成就
いつ何時にシャールの名前がベナルブ伯爵の口から出るかと緊張した雰囲気の中、ケインには申し訳ないが食べた気のしない朝食が終わると早々に部屋に引っ込んだ。今朝は食欲もあまりなかった。伯爵は時折、空いた席に視線を向けてシャールが朝食に出ていないことを気にしていたようだったが、誰になにも訊くことはなかった。
お父様、お母様、ヴィーリアと伯爵はそれぞれに休憩をはさんでから執務室で協議を始める。
寝台に横になると昨夜この部屋で楽しくシャールと語り合ったことが思い出された。
今年の柘榴のシロップは一緒に飲めなかった。
……なにも言わずに行ってしまったことには一抹の寂しさを覚える。でも「行ってらっしゃい」と送り出したとしたら、ここに残るわたしはきっともっと寂しさを感じていたかもしれない。
シャールは一度こうと決めたことはなにを言われても頑として譲らない。可愛らしいふわふわとした雰囲気からは想像もつかない意志の強さを持つ。幼い頃からそうだった。屋敷の者なら誰でも知っている。以前にシャールの頑固さは誰に似たのかしらとお父様とお母様が首を傾げたことがあったが、ブランドとわたしは顔を見合わせてそんな二人を笑ってしまった。シャールの決めたことを曲げない頑固さは両親譲りだった。
シャールがノルンのもとで本気で学びたいというのなら応援してあげたい。シャールはノルンがいた頃も熱心に授業を受けていた。フェイもついているのだから公都でもきっとうまくやっていくことだろう。
……伯爵はどうするのだろう。シャールは伯爵を試してもいるのだ。本気で好きなら追いかけてきて、と。
ノックの音で目が覚めた。寝台に横になって考え事をしているうちについ浅く眠ってしまったらしい。飛び起きて寝台に腰を掛け、慌てて髪と服を整える。
「どうぞ」
返事と同時にヴィーリアが入ってきた。
「もう協議は終わったの?」
スカートの裾を直しながら訊いた。窓から差し込む、斜めに伸びて床を這う陽光はまだ正午前だと告げている。
「今は休憩中です」
ヴィーリアは片手でタイの結び目を弛めて隣に座って長い足を組んだ。
「どんな感じで進んでいるの?」
ヴィーリアはいつものように平然として、いともあっさりと言った。
「貴女の願いは叶いましたよ。伯爵は自ら申し出て以前の過剰な請求を破棄した上で、正当な返済額に同意しました」
「……」
あまりにも淡々とした報告のために言葉の意味を理解するのが一瞬、遅れた。
シャールとの会話の内容から伯爵はもしかしたら自分から請求を破棄するのではないかと考えてはいた。自分から破棄することで過ちを認めてお父様に謝罪をするために。
そして……思わずヴィーリアの両手をとった。言葉が出てこなかった。
やっと、やっと……やっと。
お父様と資料を探しに訪ねた町の書店で偶然に魔術古文書に目を留めた。やってみるしかないと、切羽詰まった半信半疑のダメ元で地下室に魔法陣を描いた。痛いのは嫌だし、怖かったが震える手で指先に充てたナイフの刃を引いた。……あの朔の晩に、ヴィーリアがわたしの依代に引かれて召喚されてからやっとここまできたのだ。あっという間だったような、とても長かったような、その両方であったような気もする。そしてついにライトフィールド男爵家が抱えていた大元の問題が解決されたのだ。この二年間、ずっと望んでいたことだった。それが、今、ヴィーリアの口から現実になったと聞かされた。
願いが、叶った。
ヴィーリアの両手を強く握りしめる。
喜ばしくて躍り出したいくらいなのに身体が小刻みに震えてしまい、足も立たない。
目頭がどうしようもなく熱くなる。深い紫色が滲みだすのを止められない。
「……ミュシャ」
名前を呼ばれてはっと引き戻される。気持ちが昂って思わず強く握ってしまったヴィーリアの両手を離した。
しまった。このままだと……。
雫が頬を伝う前に、ヴィーリアが唇を寄せる前に拭ってしまわないと。
……もう、困るのだ。
うつむいて素早く手の甲で頬を拭う。その手をヴィーリアに掴まれた。冷たく、筋が浮いた大きな手はわたしの手首を捕えて簡単に覆ってしまった。
「……離して」
「貴女は……そればかりですね」
顔を上げると、ヴィーリアは眉間を寄せてなぜだか複雑そうな表情をしていた。
今回は珍しく唇を寄せてはこなかった。いつもなら否応無しに冷たい唇で掬い取っていくのに。
しかし、掴まれた手首は離してはもらえない。
深く、大きく深呼吸をした。……気持ちを切り替えなければ。
「もう、ちょっと、本当に離して?」
ぶんぶんと大きく手を上下に振るとヴィーリアは掴んでいた手首を離した。
自由になった両手で自分の頬をぱんと叩いて気合を入れる。痛いくらいがちょうどいい。
「よし! もう大丈夫」
とにかくこれで、あとは伯爵とシャールの拗れた糸を解けばいいのだ。
「……以前から思っていましたが……貴女はもう少し情緒というものを理解した方がいい」
ヴィーリアが呆れたようにため息をついた。しかし、それはヴィーリアにだけは言われたくないのであえて無視する。
「シャールへの求婚の件と噂の確認は?」
「これから伯爵に男爵家と侯爵家の事業を説明します。それからでしょうね」
シャールとの縁が続くか否かは、伯爵が馬鹿な画策(仮定)を告白して、謝罪がお父様に認めてもらえるかどうかにかかっている。
「朝は口添えしてくれてありがとう。わたしを助けてくれたみたいに伯爵も助けてあげてね」
「貴女が……お望みとあらば」
「それで……噂の真偽はどうなのかしら?」
今朝、ヴィーリアがお父様とお母様に提案したアロフィス家の諜報網というのはもちろんヴィーリアの魔術のことだ。
「それは後ほど。まずは伯爵の弁明を聞いてみることにしましょう」
「……なるほど。そうね」
ヴィーリアにかかれば噂の真偽や、伯爵が真実を話したかそうでないかもすぐにわかるはず。もし、この期に及んでも誠実な対応を取らないのであれば……残念ながら信用に値しない人物ということになる。せっかくここまできたのだから伯爵にはきちんと本当のことを話してもらいたい。お父様に誠意をみせてほしい。
部屋の扉がノックされた。休憩が終わり協議を再開するためにベルがヴィーリアを探しにきたのだ。
▽▲▽▲▽
お昼前に再開された協議は陽が傾き始めても終わる気配がなかった。執務室からは誰も出てこない。
昼時にはサンドイッチのような軽い食事をブランドとベルが運んでいた。コディも町から戻っていた。駅に着いたときには公都へ向かう汽車は出発してしまった後だった。お昼過ぎには伯爵家から連れてきていた従者たちが伯爵付きの侍従と御者を残して伯爵領への帰途についた。
秋の陽が落ちるのは早い。空が夜の紺色に覆われてリモール山脈とユーグル山脈の山の端が橙色に染まる頃、わたしは執務室の前に立っていた。
こんなに時間がかかるということは、話が上手く進んでいないのだろうか。
周囲をきょろきょろと見廻し、廊下に誰の気配もないのを確認すると執務室の隣の部屋の扉を静かに開けて中に入り込む。ここは応接室だ。隣の執務室とは扉で繋がっている。今日は執務室を使っているからだろう。誰もいない部屋でもランプが灯されていた。
執務室へと続く扉の前でしゃがみ込んだ。厨房から持ってきた硝子のグラスの縁を扉に当ててグラスの底に耳を押し付けた。『こうすると音響結合が高まり聞こえやすくなります』とノルンが言っていた。どういう仕組みなのか理解したかどうかは置いておく。まさかこんなところで授業で習ったことが役に立つとは思わなかったが、こんなことに知識を使っていると知ったらノルンはさぞ嘆くことだろう。
一応貴族の年頃の令嬢としても、基本的に人としても盗み聞きはダメ。と、そう昨夜に反省したばかりだ。昨夜の今日で本当に反省しているのかとヴィーリアに疑われても仕方がないが、反省だけは本当にしている。
今朝、この協議にはわたしも参加させてほしいとお父様にお願いをしてみた。しかし、許可を出してはもらえなかった。
協議が終わり次第、ヴィーリアは必ず報告してくれることはわかっている。しかし、こんなに時間がかかるほど話が拗れてしまっているのだろうかと、気になって気になって仕方がない。少しだけ、ほんのちょっとだけだからと誰にでもなく言い訳をした。
執務室の扉が厚いせいなのか、グラスの効果が低いのか、ぼそぼそとした低い話声はところどころで聞こえるのだが、なにを言っているのかまでは全く解らない。グラスの角度を変えたり、立ち上がってグラスを充てる位置を変えたりといろいろと試してみたがやはり音としての声が聞こえるだけだった。それでも諦めずにしゃがみ込んでグラスに耳を充てていると、微かにシャールと公都という単語が聞こえた。
うん。この高さがちょうどいいのかもしれない。耳もぐっとグラスの底に押し充てて……。
そのときに肩先に微かになにかが触れたような気がした。しかし、そんなことを気にしている場合ではない。
やっとこつが掴めてきた。なんとか単語だけでも聞き取れるようになれば……。
肩先に気配がして、またもやちょんとなにかが触れる感覚があった。
なに? 今、やっと……
「ミュシャ様?」
振り向くとブランドが口元を引きつらせながら中腰で立っていた。その背後にはちょうどブランドに隠れて顔は見えないが白いローブを来た人物が立っている。
ブランド!? 司祭様!? どうして!?
「……あ、え、や、……あの、歩いていたらちょっと躓いて足首を捻っちゃったみたいで……あ痛たたたっ……ここで少し、座って休んでたの……」
グラスをさっと後ろ手に隠して片手で足首を擦ってみせる。ブランドの口元も引きつったままだがわたしの口元も引きつっている。片眼鏡を人差し指で持ち上げて、それはいけません、大変です。歩けますか? ベルを呼びましょうか? と訊いてきたが、絶対になにをしていたのかはわかっている。
「痛いのですか? 少し見せてもらっても?」
ブランドの背後から白いローブの人物がすっと前に出た。
司祭様はダメ! 弾かれちゃう! かもしれない!
背中は執務室への扉にぴったりと張り付いている。横に逃げる時間もなかった。しかし姿を見せた人物は、波をうったような濃い金髪を肩に垂らした分厚い丸眼鏡をかけたロロス司祭様ではなかった。
焦げ茶色の真っ直ぐな髪を後ろで一つに結んだ少年だった。歳はシャールと同じくらいかもしれないし、もう少し若いかもしれない。白いローブを着ているので司祭様だと思ったが、よく見るとローブの裾に金糸で刺繍された神殿独特の幾何学的な模様が入っていない。裾に金糸で刺繍が施されたローブは司祭様だけが着ることができる。
……ということは、見習い司祭様だ。そういえば……昨日、馬車から旅の荷物を持って降りてきたのを見たような覚えがなんとなくある。歓迎会にも……出席していた。
見習い司祭様が足元にしゃがみ込み足首に手を伸ばそうとした。
「ミュシャ!」
ヴィーリアの硬い声とともに執務室の扉が勢いよく内側に開かれた。
それこそ蟻の這い出る隙もないくらいに扉にぴったりと張り付いていたわたしは次の瞬間、そのまま毬のようにころんと、背中から執務室の床に見事にまるく転がりこんだ。
読んでいただいてありがとうございます。(*'▽')