2 召喚
「え? え? ええ?」
金色、虹色、白銀色の神々しいほどに美しい光の洪水がひいた後に、目の前に突如として現れたソレを指さした。わたしは間抜けにも口を開けたまま、それしか言葉が出てこなかった。
なにこれ? どういうこと? 失敗? 成功? いや、そもそも召喚呪文を唱えてさえいないよ?
「むやみに指をさしたらいけないと、教えてもらいませんでしたか? お嬢さん?」
目の前のソレが腕を伸ばした。白く長く美しい指を、わたしのさしたままの指に絡めて、やんわりと腕を下ろさせた。絡められた指はひんやりと冷たかった。それがやけに心地よく感じられたのは、地下室のじっとりとした湿気に充てられていたからに違いない。
訳の分からない事態に混乱して、頭の中が真っ白のままそんなことを考えていた。
「……お口も閉じたほうがいいですね。淑女にはあるまじきお顔になっていますよ?」
目の前のソレは、絡めたままのわたしの指先をソレの唇に持っていくと、軽い音を立てて口づけた。
「―――っ!?」
その衝撃で我に返る。わたしはさっとソレの唇から腕を引いた。指がソレの唇に触れた瞬間、本能的な寒気が全身を廻った。自分の心臓の鼓動が耳にうるさい。
「おやおや、類い稀な芳香に抗えず渡ってみれば……ずいぶんと初心なお嬢さんですね。ああ……お口も閉じられたようでよかったです」
探るような上目遣いのソレは、妖艶としか形容のできない微笑みを浮かべた。
深い紫色の光彩を持つ瞳の周りは、白銀色の髪と同じ色の長い睫毛に縁取られている。きれいに整った卵型の小さい輪郭。白磁器のように白く滑らかな肌。すっと通った高い鼻筋。ふっくらとした柔らかそうな桃色の唇。白銀色の艶やかな長い髪は、ゆったりと一つに束ねられていた。
身長はわたしと同じくらいだ。高くはない。細身の身体に飾り気のない黒いタイと黒いシャツとジャケット、黒いスラックスを身に纏っている。その黒一色の簡素だが機能的な装いは、美しい少女の容姿をさらに際立たせていた。
「……あなた、なに?」
ソレから目が離せなかった。獰猛な獣に遭遇したときには、視線を逸らさずにゆっくりと後退すれば助かる可能性が高いからね。絶対に背中を向けて逃げてはいけないよ。と、狩りのときにお父様から教わったことが頭をよぎる。
ソレはとても美しい容姿をしていた。しかし、それがかえってとても恐ろしく感じられた。視線を逸らせば、すぐにでも捕って喰われそうな恐れと威圧を感じながらも震える声でソレに問う。
最初は、もしかしたら美しすぎる魔術師なのではないか? とも思った。転移に失敗して、間違えてこの地下室の魔法陣に迷い込んでしまったのだろうかとも。しかし今は、はっきりとわかる。ソレは少なくとも人ではない。なぜなら全身が総毛立つようなこの感覚。生存本能が人ではないなにかだと告げている。
「そんなに警戒しないでください。お嬢さんに召喚れたから来たのですよ?」
桃色の唇の両端を上げて優雅に微笑んで、わたしに一歩近づく。
「……まだ、召喚してない」
ソレが近づいた分だけ一歩下がる。
ソレはわたしの腕にしっかりと抱えられている魔術古文書と、床の朱い魔法陣にちらりと視線を移した。それから、わたしの左手を素早く掴んで顔の前に上げさせる。
左腕で抱えていた固い表紙の魔術古文書が床に落ちて重い音をたてた。握りしめていた指を広げられる。
左手の薬指の先にはナイフでつけた傷がある。ぎゅっと強く薬指を掴まれた。ナイフの傷から、再びゆっくりと赤い血が球になって浮いてくる。
「……ほう」
浮き上がってくる赤い血の球を観察していたソレは、ためらうことなく、わたしの薬指の先を自分の口に咥えた。
「!?」
あまりに突然のことで動けなかった。
ソレは紫色の瞳でわたしの視線を捕らえたまま、口の中の薬指を冷たい舌で舐った。傷に舌を這わせ、血を味わっている。
「やだっ! 放して!」
ぞっとした。慌てて手を引いたが、ソレに掴まれた腕はびくとも動かない。見かけはわたしと同じくらいの身長の細身の少女だ。年齢も下に見える。でも、掴まれた腕は動かすことができない。
「放してよ……」
情けないことに声が震えてしまった。
この計画は、窮地に陥り破産寸前、没落寸前の我が家の、どうにもならなくなった財政状況を立て直すために計画したことだった。拾い子のわたしをこれまで育ててもらった、せめてもの恩返しだ。
喩え失敗してもほかに打つ手がない今はダメで元々である。
もし成功したらなら借金をすべて返済し、できることなら、家族や屋敷で働いてくれている者たちがこれからも生活には困らないようにお願いして、わたしだけが対価を支払えばいいと思っていた。
しかし、今、この計画が―――魔術古文書に記された、悪魔を召喚して対価と引き換えに望む願いを叶えてもらうという計画が―――失敗したのか成功したのかもわからない今、なにがどんな状況なのかも不明な上に、この世のものとも思えないほど美しくて、それ以上に禍々しく感じるソレに指をしゃぶられ、血を吸われている。訳がわからない。もう、泣きそうだ。泣いてもいいだろうか?
「……うっ」
感情が高ぶって思わずしゃくりあげる。ソレはぎょっとしたように驚いて、口からわたしの指を離した。
「痛いのですか? 優しく舐めたつもりですが……」
「優しくもなにも、初対面の人に普通はそんなことはしないからっ! ……初対面じゃなくてもしないし」
不覚にも目から汗が零れる。そう、これは汗である。
「……もったいない」
「はぁ? なにがもったいない……」
ソレはおもむろにわたしの顎に手をかけた。顔を近づけ、冷たい舌で唇の淵をつうっと舐めた。そのまま頬を伝う目からの汗もぺろりと舐めとる。
「いやああああああ!」
有り得ない出来事に一瞬呆けてしまったが、我に返ると同時に渾身の力を込めて、ソレを突き飛ばしながら叫んだ。しかし、やはり先ほどと同様に、細身の少女の身体は微動だにしない。突き飛ばした反動でわたしの身体が後ろにのけ反った。
「気を付けてください」
ソレに腰を腕で囲われて、後ろによろめく寸でのところで支えられる。思わずありがとうと助けられたお礼を言ってしまいそうになり、でもこれはソレのせいなのだからと思い直して口を結ぶ。
「……手を離して」
ソレはにこりと微笑んでわたしの腰から手を離した。この機会にさっと後ずさりソレと距離を取る。あまりの出来事に汗なんかどこかに吹っ飛んでしまった。
「……質問に戻るわ。あなた、なに?」
「なに、とは心外です。お嬢さんが召喚したのでしょう?」
顎に指を置きソレは返答した。
わたしは床に落ちた魔術古文書を拾い上げて、さっと前に突き出す。
「わたしはまだ、召喚の呪文の詠唱すらしていないの。召喚される前に出てきたでしょ? だから、まだ、呼んでないんだけど……」
話の途中でソレがぷっと哂い出した。
「ちょっと! 人が真面目に話しているときに失礼でしょ?」
「ああ、申し訳ない。……その魔術書はかなり昔のものでは?」
ソレは仕切り直しだというように咳払いをすると、わたしの手から魔術古文書を取り上げた。ぱらぱらと頁を捲る。
最初から禍々しい寒気とは別に、なにか違和感があった。ここでその違和感の正体がはっきりした。
ソレの容姿は美しく儚げな少女なのだが、話す言葉と仕草が似つかわしくない。なんというか少女らしくないのだ。見た目が美しい少女の姿だからといって、ソレがそのまま見た目通りの少女だとは思わない。しかし、違和感が半端ない。
「かれこれ三百年ほど前に書かれたもののようですね。しかし……まだ、こんな古い魔術書で我々を召喚しようとする人間がいるとは」
「……?」
「お嬢さん。昔と比べて格段に進歩しているのですよ。魔法陣も簡素化されましたし、呪文の詠唱も必要ありません。依代と対価は非常に重要ですが……」
と、いうことは?
「さて、貴女は私になにを願うのでしょうか?」
紫色の瞳がきらりと光った。わたしを映した後にソレは、恭しく頭を垂れた。
読んでいただいてありがとうございます。(*'▽')