16 密会
区切りの都合で少し長めになっています。
歓迎会に出席するためにドレスに着替えるのをベルに手伝ってもらっていた。
社交界に縁がない辺境底辺貴族なのでパーティーやお茶会の招待はほぼない。そのために着飾る機会もそうそうない。衣装棚には、着回しの利く簡素なデザインで落ち着いた色彩のドレスを数着ほど残してあるだけだ。小物次第で違った印象になるので、簡素な仕立てのものが一番使いやすいと個人的には思っている。お母様やベルには若い娘らしくもう少し華やかなドレスを着てはどうかと言われる。でも、わたしにはレースやリボンのついたドレスは似合わない。飾りつけられた甘いお菓子のような可愛らしいドレスは、ふんわりとした雰囲気を持つシャールによく似合う。
鎖骨がぎりぎり見える程度の浅い切れ込みの胸元に七分丈の袖、腰からくるぶしにかけて広がりながらも嵩が出ない濃紺のドレスを選んだ。腰の部分は締まっていて右側の腰から斜めにドレープがはいっている。踵の高い銀色の靴を合わせれば、背の低いわたしでも重くならずになんとか見栄えた。髪は上げられない。自分で耳を隠すようにゆるく左耳の下で一つに結んだ。ドレスと揃いの濃紺の薔薇の髪飾りをベルにつけてもらう。何年も着まわしているドレスだがとりあえず袖を通せるのでよしとする。身長も体型も変わっていないので良いのか悪いのかはわからないがドレス代の節約にはなる。
「忙しいのに頼んじゃって悪いわね」
背中の釦をベルに留めてもらう。
「大丈夫です。伯爵様がお手伝いの者を何人も寄こしてくださいましたから」
「……」
「……」
ベルとお互いに顔を見合わせてしまう。伯爵のひととなりはなにも知らない。聞きかじってつなぎ合わせた情報では社交界では黒い噂のある悪名高い人物。実際、ライトフィールド男爵家を没落寸前にまで追い込んだのは伯爵だ。我が家は断崖絶壁の崖っぷちに立たされた。おかげでわたしは絶体絶命の男爵家をどうにかして救いたいがため、ダメで元々と魔術古文書を用いて『人の理の外の者』を呼び出し、願いを叶えてもらうことを決意したのだ。
しかし一方では、五年前の異常気象が原因でどうにも立ち行かなくなったリモール領に救いの手を差し伸べてくれたのも紛れもなく伯爵だ。我が家の財政状況を見越して、こうやって手伝いの者を寄こすという気遣いもみせる。自身を含めて伯爵家の従者や司祭様たちが滞在する間以上の食材や雑貨類を何台もの馬車で運んできた。
救った者をまた突き落とす。ベナルブ伯爵はなにを考えているのかわからない。一体、どういう人物なのだろう。男爵家が破産寸前、没落寸前まで追い込まれたことだけを考えたなら伯爵は憎むべき悪役に違いない。その反面、リモール領に手を差し伸べて救ってくれた伯爵は感謝するべき大恩人だ。当時、伯爵の援助がなかったらリモールは飢える者や困窮者で溢れ、農業や畜産に壊滅的な被害を受けてとても三年では持ち直せなかったと、お父様は言っていた。
途中で手ひどい裏切りを受けたにも関わらず、お父様が伯爵に敬意を忘れず丁寧に接するのは家格のこともあるが、やはり本当にどうにもならなくて苦しかったときにリモール領を救ってもらったという恩義を多大に感じているからなのだ。
……悪役ならば悪役らしくしてくれていればわかり易い。傲慢に高飛車にふてぶてしく高笑いでもしていればいいのに。そうすれば、余計なことを考えずに心置きなく大嫌いになることができるのだから。
ささやかながらも歓迎会は予定通りに始まった。お父様の挨拶が済むと伯爵は、お父様や招待客たちとグラスを交わしていた。司祭様と見習い司祭様はさっそく信徒の代表者たちに囲まれている。
お父様と一緒にいるヴィーリアは光沢のある黒の上着と揃いのスラックス、黒いシャツに薄黒色のタイという装いだった。タイには銀色のピンを刺している。どれだけ黒が好きなのかとも思うが、白銀色の長い髪と深い紫色の瞳には黒がよく似合う。
お母様はご婦人たちと談笑していた。シャールは腰から裾にかけてふわりと広がった、鮮やかなレモン色のドレスを着ていた。若々しい色のドレスを着たシャールは会場を華やかせた。年配の招待客が多かったためにご婦人方のドレスの色は落ち着いたものが多かった。
わたしとシャールは面倒なことにならないうちにと、歓迎会の会場になった食堂を後にした。なにも食べずに出てきたのでケインになにか食べさせてもらいたい。厨房に寄るとケインとルウェインが忙しく動き回りながら、伯爵家から遣わされた手伝いの者たちに指示を出している。気後れして声をかけそびれていると、気付いたケインがわたしとシャール用に準備されていた夕食の皿を渡してくれた。
厨房にいては仕事の邪魔になりそうなので部屋に戻って食べようとシャールを誘ったのだが「ごめんなさい。お腹が空いてないから、あとで食べるわ」と自分の部屋に戻ってしまった。ケインが心を込めて作ってくれた料理の味は申し分なく美味しかったのだが、部屋に一人で食べる食事は味気なく感じた。
夕食が済むと特になにもすることがない。図書室に行こうにも司祭様と廊下で鉢合わせをしたらと思うと迂闊に部屋からは出られない。さて、どうしようかと寝台に腰をかけて窓硝子越しに夜空を眺めた。空の半ほどに満月から少しだけ細くなった月が昇っている。静かに輝く月はもの柔らかな光を地上に落している。澄んだ月明りが寝台の足許まで差し込んでいた。
……ヴィーリアが現れたあの朔の晩から目まぐるしくいろいろなことが変化した。まるで都合のいい夢の中にいるようだ。今が夢の中で、ある朝目が覚めたらヴィーリアが召喚れる前の現実に戻っているという夢を見て夜中に起きることがある。
ランプの灯りを消した。
窓を少しだけ開けてみる。冷たい秋の空気が夜の匂いを室内に運んだ。もの寂しい虫の音が時折聞こえてくる。秋が深まってきたのだろう。
庭に目を遣ると、柔らかな月明りに照らされた樹木の蒼い影が落ちていた。その影の中にふと白っぽいなにかが揺れたような気がした。見間違いだろうかと目を凝らす。確かに、庭の樹の影の間に白くひらひらと揺れるものがある。定かではないがドレスの裾のようにも見える。
招待客が美しい秋の月に誘われて庭を散歩でもしているのだろうか。もしくは庭に出て酔いでも覚ましているのだろうか。しかし、招かれた客の中に明るい色のドレスの女性はいたか……。そこまで考えてはっとした。
……シャール? もしかしてあれは、シャールが着ていたレモン色のドレスの裾?
まさかと思いしばらく様子を見ていると、もう一つ現れた影が迷うことなく白い影に近づいていく。
…………もしや、伯爵……では?
部屋から出ないように言われているので屋敷の中は歩けない。それならばと退屈のあまり外に出たシャールが伯爵に見つかってしまったのではないか。そんな考えが頭をよぎり、震えていた薄い背中や、噛み締めていた唇を思い出す。
―――助けに行かなくては―――早く。
そう思うや否や部屋から飛び出していた。
シャールと思しき人影は、屋敷の正面玄関から外れた横手の樹木の茂みの影の中にいた。
正面玄関は人の出入りがあり、誰と顔を合わせてしまうか分からないので通ることはできない。それならばと厨房へ足を向ける。幸いにも廊下では誰とも顔を合わすことはなかった。
厨房には食材などを搬入するために裏庭に面している裏口がある。その裏口を使えばいい。ケインになにかご用ですかと尋ねられたが食器を下げにきたと言った。ケインも慌ただしくしていたのでその隙に裏口から裏庭へ出た。屋敷の横を通り抜けて表の庭にまわる。
月明りだけが頼りだが、今夜の月は影を創ることができる。それに勝手知った我が家の庭なので目を閉じながらでも歩くことができる。強いて言うなら靴は履き替えてくればよかった。高い踵の靴では土の上を歩きにくい。踵が土にめり込んでしまう。もっと言うならば上着も羽織ってくればよかった。ドレス一枚では夜の庭は空気が冷たくさすがに寒い。
この空気の冷たさに頭を冷やされて冷静になっていた。シャールが大変! と、勢いだけで思わず部屋を飛び出してきてしまったのだが、あの白い影ともう一つの人影がシャールと伯爵であるという確証はなにもない。
寒さのために両腕を抱えた。見つからないようできるだけ小さく背中をかがめて足音を忍ばせて歩く。小枝を踏まないように、衣擦れの音をさせないように二つの影まで近づいた。
かろうじて会話を聞き取ることができそうな距離で、樹木の繁みの間にしゃがみ込んで身を隠す。小枝の隙間からそっと覗いて聞き耳を立てた。いざなにかがあったときには飛び出せば十分に間に合う距離でもある。覗き見も盗み聞きも年頃の、一応貴族の令嬢としてどうかと思う。いや、それ以前に基本的に人間としてダメだろう。しかし、今は緊急事態。まずは本当にシャールと伯爵なのかを確認する必要がある。違っていたのならごめんなさいと心の中で土下座して即座に撤退である。
「…………尊敬できる方だと思っていたのに……」
声が聞こえてきた。小さく、くぐもって聞こえる。普段よりも硬い気がするがシャールの声に間違いない。
「……すまない。でも、どうしても君を……」
……挨拶を交わしたときに聞いたこの声はベナルブ伯爵。
二人の姿は月明りが落とす枝の影に隠されてしまい影絵のようだ。
会話はところどころ聞き取れないが、なんとかなるだろう。あとは出ていくタイミングを見計らいシャールをこの場から連れ出せばいい。いざというときにも、飛び出せる。
「だったらあのような方法……取らなくても……。正式に申し込んでくれさえいたら……。 我が家は男爵家です。伯爵家からの申し入れならお断りは……。……どれだけお父様やお母様やお姉さまが……皆が大変な……してきたか……おわかりになりますか?」
……ん?
「……それは……君も含めて大変な思いをさせてしまったことは……。君と私では歳も……離れている。社交界では私の……まことしやかに囁かれて……。もちろん……事実無根……、男爵殿がそれを…………許すとは……なかった。…………絶対に断れないようにと……。……成婚したら…………条件は……最初の約束……戻す…………」
「今さらそんな………。それにお父様は噂だけ…人…判断…………ことはなさらないわ」
なに……これ……?
「酷いことをしたのは…………。君を、…………を傷つけてしまって本当に申し訳ない。しかし、…………噂は本当に酷いもので……。……シャール、わかってほしい。どうしても………手に入れたかった。諦められなかった。あの日に、柱の影に恥ずかしそうに隠れた可愛らしい君の事が……」
「わたしも、優しく微笑んでくださった伯爵様のことがとても心に残ったの。うちの領地を救ってくれた、わたしの…………こんなにも素敵な方だったなんて……」
感情が昂ったのか二人の声が先ほどよりも大きくなった。
「ではシャール、私と……」
「…………それでもいいと、思っていたわ。……でも、今は……」
「……シャール?」
「伯爵様、あなたはずるいわ。自分が傷つかない方法だけを探しているみたい。それに手に入れたいだなんて……。わたしはモノじゃない。そんなにわたしが好きなら正々堂々と求婚すればよかったの。……それだけの話よ」
シャールの声の調子が変わった。鈴の音の響きは消えた。怒気を強めるでもない静かな物言いに返って冷たさを感じる。……ああ、シャールが本気で怒っている。
「…………今さら言い訳はしない。その通りだった。……愚かなことをしたと、悔いている。……どうか私を許してはくれないだろうか?」
「…………わたしだけが勝手に許す訳にはいかないの」
さらさらとした衣擦れの音と高い踵のある靴で草を踏みしだく音がした。シャールが伯爵に近づき爪先立ったように影が上に伸びた。すると伯爵の頭が傾げられて二人の腕が回り……影が重なった。
!!!?
………………しまった。会話の内容が内容だけに、飛び出すこともできず、そうかと言って立ち去ることもできず、つい、聞き入ってしまった。わたしはなんというところにのこのこと……。これは……、つまり、あれだ、密会とかいう秘密のやつではないのか。……迂闊すぎる自分を呪いたい。……もう絶対に、絶対に見つかるわけにはいかない。そうかといって今さら動けもしない。だから、せめて目を閉じるしかない!
「……シャール」
しばらくして二人の影が離れる気配がすると伯爵が甘く名前を呼んだ。
……いけない。これ以上は本当に、人として聞いてはいけない。見てもいけない。ここにいることすら許されない。だけど、だけど! 動けない! 少しでも動いて音でも立てようものなら……。背中に冷たい汗が流れる。どうしたらいいのかわからずに取り敢えず耳をふさいで目をぎゅっと閉じて小さく小さく縮こまっていようと決心した。不幸中の幸いにもドレスは濃紺だし髪は黒檀色だ。顔を伏せて銀色の靴さえドレスのスカートに隠してしまえば闇に紛れて溶け込める……はず。
ごめんなさい。シャール。こんなつもりじゃなかったの!
「……もう、名前を呼ばないで」
シャールの声は震えていた。耳を塞ごうとしていた手が止まる。
「どう……して?」
伯爵はシャールに手を伸ばした。混乱しているようだ。わたしも混乱している。
「あなたはずるい。でも、わたしもずるいの。…………本当にわたしが好きなら、捕まえにきてよ。そうすれば……」
シャールはそう呟くと伯爵の手を振り払った。最後の声は小さくて、なにを言っているのかは聞き取れなかった。小さく縮こまって闇に同化している……はずのわたしの横の繁みをシャールが勢いよく走り抜けた。
「シャール!」
伯爵の叫びは悲痛なものだったがシャールは振り返りもしなかった。そのままドレスをひるがえして屋敷の裏手へと走り去って行った。伯爵は追いかけるような素振りをみせながらも迷っているように動きを止めた。
ええ!? ちょっと! 追いかけないの!?
心の中で声を上げてみたものの伯爵には届くはずもなく、わたしは堂々と姿を現わせる立場にもない。
結局、伯爵はシャールを追いかけなかった。シャールの去った屋敷の裏手を戸惑うように見ていた。ため息をつきながらくしゃりと前髪をかき回し、そのまま途方に暮れたように夜空を見上げて立ち尽くした。屋敷に戻っていったのはそれからしばらく経ってからだった。
伯爵の後ろ姿が見えなくなると、緊張の糸が切れたようにその場にへたり込んだ。固く強張っていた身体中から力が抜けてしまった。しゃがみ込んでいたために足が痺れている。背中を冷たい汗が流れていく。息を殺すようにしていたため、深呼吸を何度も何度も繰り返す。冷たい空気を胸いっぱいに吸っては吐き出した。気持ちを落ち着かせて冷静になろうとした。しかし、頭の中は依然として混乱したままだった。シャールには訊きたいことがたくさんある。
でも、それよりも―――。
…………ごめんね。シャール。
「ミュシャ」
小さく名前を呼ばれる前に大きな手で口を塞がれ、背後から背中を覆うようにして硬い胸の中に瞬時に囲われて抱き込まれた。
「!!!!」
心拍数が一瞬にして最大に跳ね上がる。あまりの驚きに叫ぶことさえできなかった。
「貴女は一体なにをしているのですか?」
白銀色の髪がわたしの肩にさらりと流れてかかった。口元は微笑んでいるが紫色の瞳は眇められ、声には微妙に険がある。
「まあ、おおよその見当はつきますが」
口を塞がれながらも、もがもがと唇を動かして抗議した。
ちょっと! お願いだからわたしの心臓を労わってほしい!
激しい鼓動をなんとか落ち着けようと胸の辺りを必死にさする。口を塞いでいた手を離したヴィーリアは、寒がっていると勘違いしたのか上着を脱いで肩にかけてくれた。絶対に見つからないように夜の闇に紛れようとして、もしくはその辺りに転がっている小石になりきって伯爵が去るまでじっとうずくまっているうちにかなり冷えてしまったので心遣いがありがたい。しかし当分、心臓の激しい鼓動は治まりそうにない。心遣いはぜひそちらにもしてほしい。
混乱と寒さと動悸で指先が細かく震えていた。
ヴィーリアこそどうしてここに? と尋ねかけたが、訊くまでもなくわたしの平常心がどこかへ飛んで行ってしまったので様子を見に来てくれたのだろう。
「とりあえず……そんな恰好でこんなところにいたら風邪をひいてしまいます」
腕を引かれて立たされるとドレスについた枯葉や土埃をざっと払って落としてくれた。痺れている足がもつれ、高い踵のせいでよろけてとっさにヴィーリアの腕につかまるとそのまま横抱きに抱えあげられる。
耳元でぱちんと指を鳴らす音がするとほぼ同時にくるりと視界が回転した。柔らかな澄んだ月明りの秋の庭から、一瞬のうちに見慣れたソファや寝台のあるわたしの部屋の中へと戻っていた。
読んでいただいてありがとうございます。(*'▽')