15 伯爵と司祭様
区切りの都合で少し長めになっています。
ベナルブ伯爵家の馬車が屋敷に到着したのは、午後の陽が傾き始める少し前だった。
屋敷の者総出でベナルブ伯爵と司祭様を出迎えた。
お父様はヴィーリアに、アロフィス家は家格が上の侯爵家なので迎えの必要はないと言った。しかし、『ミュシャ様と離れていたくないのです』と何喰わぬ顔をしてのたまったヴィーリアは、伯爵と司祭様を出迎えるためにわたしと並んで立っていた。一緒にいてくれるのは心強いのだが、お父様とお母様の前でそれを言われるわたしの身にもなってほしい。愛おしそうにわたしを見つめて、はにかんだ微笑みを浮かべたヴィーリアに合わせるために照れた笑顔を返したが、心中は穏やかではない。『あら、まあ』とか『おやおや』とか、いろいろな含みを込めたお父様とお母様のぬるい眼差しが恥ずかしくてたまらなかった。
シャールと一緒に、お母様の背中に隠れるようにして馬車から降りてくる人物を待っていた。
ちりちりとした違和感を首の後ろに覚えてそっと手を充てる。朝からうなじのあたりの皮膚が、髪の毛を強く結び過ぎたときに皮膚を引っ張られるようにつれる感覚があった。その感覚がずっと続いているわけではないのだが、気が付くとちりちりとつれるような感覚を覚え、また気が付くと治まっているというような具合だった。痛くはないが少し気になっていた。
馬車から最初に降りてきたのは、柔らかそうな生地の深緑色の外套を羽織った長身の男性だ。
少しの風が吹いても流れるような、さらりとした細い栗色の髪を耳にかけていた。涼やかな切れ長の目許がこちらを向いた。瞳は髪と同じ栗色だった。口元に黒子がある。ベナルブ伯爵だ。
お母様の背中に隠れるようにして立っていたにも関わらず、伯爵の視線はすぐにシャールを捕えて微笑んだ。隠れて覗いていたシャールに淡い憧れを抱かせるのには十分な、情に満ちた、優しさが溢れ出しそうな微笑みだった。
次に姿を見せたのは伯爵よりはいくぶんか背の低い男性だった。
肩までの濃い金色の髪は強めに波をうっている。分厚く大きな丸眼鏡をかけていて顔がよくわからない。白いローブの司祭服に身を包んでいるので彼が司祭様なのだろう。
司祭様は馬車から降りるなり、こちらに顔を向けた。首の後ろの皮膚がまたちりちりとひきつれた。
ヴィーリアは背が高いので隠れようもないが、わたしはお母様の背中に隠れるようにしていたのに分厚い眼鏡越しに見られているという感覚があった。司祭様との距離は半径一メートルどころではない。もっと離れているのだが、やはりなにかわかるのだろうか。
別の馬車からは、伯爵家の従者たちや見習い司祭様と思しき白いローブ姿の少年が、旅の荷物を抱えて降りてきていた。
「ベナルブ伯爵様、司祭様、よくおいでくださいました」
「お久しぶりですね。ライトフィールド男爵様。皆様も」
伯爵はお父様、お母様、シャール、わたしと順番に視線を移して目礼し、最後にヴィーリアで止めた。お父様が伯爵をヴィーリアに紹介した。
「……そうですか。アロフィス家の……お初にお目にかかります。ミカロス・ベナルブです」
「ヴィーリア・アロフィスです」
ヴィーリアはいつも通りに、柔らかい物腰で対応していた。伯爵はヴィーリアと挨拶を交わすと、後ろで待っていた司祭様を紹介した。わたしはさらに数歩後ろに下がって適当な距離を確保する。ヴィーリアは司祭様のかなり近くにいるが大丈夫なのだろうか。
「ルークス神殿司祭のフィリップ・ロロスと申します。今回の巡礼ではリモール領に立ち寄らせていただきます。ご面倒をお掛けすることと思いますが何卒よろしくお願いいたします」
ロロス司祭様は丁寧に挨拶をし、礼をした。いつのまにか後ろに控えていた見習い司祭様もそれに追従する。
「ようこそおいでくださいました、ロロス司祭様。リモール領を治めておりますハリス・ライトフィールドです。我がリモール領にもルークス教の信徒はおります。お立ち寄り下さったことを領民に代わりお礼申し上げます。どうぞ遠慮なくご滞在ください」
ロロス司祭様は挨拶を終えた後は、一切こちらを気にしていない様子だった。お父様と伯爵とにこやかに談笑している。ヴィーリアにかなり脅かされて気にしすぎたのかもしれない。油断は禁物だが、警戒し過ぎるのも疲れてしまう。
お父様とブランドが、伯爵とロロス司祭様と見習い司祭様を応接室へと案内した。後からお母様も応接室へと向った。
シャールは早々に部屋へと返された。伯爵も数日は屋敷に滞在することになっている。話し合いが拗れれば、それ以降も逗留する可能性がある。伯爵が滞在している間はなるべく部屋で大人しくしていなさいと、シャールもわたしもお父様に言われていた。
ベルたちは伯爵が連れてきた従者たちの対応に掛かりきりになり、ケインとルウェインは歓迎会の準備のために大急ぎで厨房に戻っていった。
「ミュシャ、貴女の部屋でお茶でも飲みませんか?」
「いいわよ」
気が付くと、いつものお茶の時間はとっくに過ぎていた。
「ヴィーリアは司祭様の近くにいたけど、大丈夫なの?」
ヴィーリアはなぜか当たり前のように、わたしの隣に腰を下した。なんだかんだと思いつつ、この距離に違和感なく慣れつつあるのが怖い。
「問題はありません」
ヴィーリアがぱちんと指を鳴らす。テーブルの上のティーポッドの細い注ぎ口から白い湯気が上がった。しばらく茶葉を蒸らしてから、カップにお茶を注いでくれる。香りを楽しむと満足そうに肯いていた。前回よりも上手く淹れられたようだ。そういえば、ベルがお茶の美味しい淹れ方を尋ねられたと言っていた。カップに口をつける。香りも良く出ている。ベルの淹れてくれる紅茶の味に近かった。
「美味しいわ」
当然ですというようにヴィーリアの口角が上がった。
「私は普段は力を抑えていますので……」
そういえば……ヴィーリアを召喚したときには、本能的な恐れを感じて全身が総毛立つような寒気がした。しかし願いを叶えてくれるとわかった途端に、そこまで気にならなくなった。我ながら現金なものだと思っていたのだが、実際はヴィーリアが魔力を抑えていたということなのか。確かに今は、ヴィーリアに触れても禍々しい悪寒などみじんも感じない。
「神殿の者が力を抑えることができなくても、弾くようなことはありません」
「そういうものなの?」
「……磁石というものをご存じですか?」
「知っているわ」
「神殿の力と我々の力は、例えるなら……磁石の同じ極同士のようなものです」
家庭教師がいた頃に磁石を触らせてもらった。違う極同士は吸着し、同じ極同士を近づけるとまるで見えない壁があるように反発し、弾き返していた。前にヴィーリアが言っていた弾力のある空気の壁のようだった。
「私の力を抑えていれば反発はしないので、弾くこともないということです」
なるほど。わかった……ような気がする。
「……司祭様も気にしていないみたいだったわ」
緊張したのは司祭様が馬車から降りた後、すぐにこちらを見ていると感じた一瞬だけだった。お父様たちと歓談する司祭様は、ヴィーリアにもわたしにも注意を向けているようには思えなかった。
「気が付いてないのかしら?」
「あり得ませんね」
確信を持った答えだった。
「基本的には神殿の者も魔術師と同じです」
司祭様が魔術師と同じとはどういうことだろうか?
司祭様は原初の輝きと呼ばれる光を奉り、ヴィーリアは朔の晩の闇の中から現れた。白いローブの司祭服姿の司祭様と、いつも黒を基調とした服を身に纏っているヴィーリア。印象としても正反対だ。
「貴女は……またそんな顔をして」
ヴィーリアが苦笑しながら手を伸ばした。眉間を軽く指で押される。
ミュシャにでも解るように簡単に説明しますと、前置きをされた。以前にも同じことを言われたのは気のせいじゃない。
ヴィーリアの説明によれば、魔術師が契約をするために必要なのは魔力だが、司祭になる者は信仰心で契約をするという。つまり信仰心が依代であり、対価となる。報酬は奇跡の技とも呼ばれる神聖術だ。
信仰心が強い者ほど効果の高い神聖術を使うことができる。しかし、魔術師と同じく無限ではない。魔術師と司祭は依代と対価は違うものだが、報酬を受ける契約の仕組みは同じようなものだということだった。
「本当はもっと複雑ですが、要約するとそういうことです」
司祭様たちが施す治療や、授ける祝福も神聖術だ。
司祭様の力にもよるが、治療院に通わなければならない怪我や病気も、治療を受ければ一回で治ることもある。治療や祝福を受けるにはそれなりの謝礼が必要だが、小さい傷や怪我は巡礼の旅に出ている司祭様は無償で癒してくれる。祝福というのは災いを避けることができるようにというお祈りだ。
魔力と神聖力は反発するものだから、魔術師と神殿も反りが合わない。知らずに近くにいてもお互いになにかしらの気配を感じる。だから司祭様が気づいていないということは、絶対にないとヴィーリアは言った。
「貴女のように魂を対価とした契約者を近くに感じれば、関りを持とうとするはずです。……貴女はなにか感じませんか?」
観察されるように、紫色の瞳でじっと見つめられる。
そう言われても……司祭様が近くにいても特に変わったことはなにも感じなかった。もう少し近づけばなにかを感じることがあるのだろうか?
「……首をどうかしましたか?」
「え?」
無意識に首の後ろに手を充てていた。また、ちりちりとひきつれているような感じがしていた。
「ああ、今朝から少し皮膚が引っ張られるような感じがあるの」
「……見せてください」
「でも、ずっと続いているわけじゃなくて」
黒檀色の髪を一つにまとめて掬いあげる。そのまま頭の後ろでまとめてから身体の向きをずらした。
「少し触れますよ」
首の後ろ、ちょうどうなじのあたりを指でなぞられた。冷たい。
「……う」
髪を上げて外気に晒されたうなじに、さらに冷たい指が這わされたために、背筋がきゅっと縮こまるような冷たさとくすぐったさを感じた。思わず口をついてへんな声を出しそうになるが、かろうじて耐えた。地下室の二の舞はしない。わたしだって学習している。
指先はそのままなにかを確かめているように、皮膚を探っていく。
「あの……もう大丈夫よ。ずっとちりちりとした感じがあるわけじゃないから、ひゃう」
今度はおかしな声をあげてのけ反ってしまった。ヴィーリアが指を充てている場所の、ひきつれた感じが急に強くなったのだ。
「ミュシャ。……動かないで」
「……はい」
動きたくて動いたわけではないが、珍しく真剣な声だったので大人しく従っておく。ヴィーリアの手のひらでうなじを覆われる。ちりちりとしたひきつれるような感覚がさっきよりも徐々に強くなっていく。痛みはないが強い違和感があり、首の後ろすべてが痺れているようだ。
「……どうですか?」
「ひきつれている感じが強いわ。……痺れているみたい」
「痛みはありますか?」
「痛くはないわ。でも、へんな感じがする」
「では、これは?」
ふっと、強いちりちりとしたひきつれ感が治まった。痺れも消えていく。
「……ちりちりしたひきつれる感じもなくなったわ」
「……なるほど」
ヴィーリアが首筋から手を離した。
「もう髪を下ろしてけっこうですよ」
「なにをしたの?」
「……抑えている力を加減してみました」
ヴィーリアが軽く腕を組みながら顎に指を置いた。なにかを考えているようだ。
「つまり……?」
「なにしろ初めてのことなので……」
そう前置きしてヴィーリアが推測したのは―――。
わたしとヴィーリアの魂は一部分が混ざり合ってしまっている。そのために、ヴィーリアの力の影響を、自覚はなくても多少なりとも受けているはずだということ。なぜなら魂を対価とした契約者は、司祭様の近くにいて、程度の差こそあれ特になにも感じないということはないらしい。
しかしその一方で、うなじのちりちりとしたひきつれ感は、やはり司祭様の力の影響ではないかという。
うなじにひきつれ感を覚えたり、覚えなかったりするのは、ヴィーリアの抑えている力との繋がりが不安定に揺らいでいるからではないか。
先ほど力を少しだけ解放した時に、ちりちりとしたひきつれ感が強く痺れるようになったのは、司祭様の力に反応したその証なのではないか。ということだった。
「私の力を抑えていると、貴女に刻んだ紋章の気配も弱くなるようです。ですから神殿の力にもそこまで反応しないのでしょう。……まあ、貴女が人並外れて鈍感でさえなければの話ですが」
口角を上げて余計な一言を添えるのを忘れなかった。
結果的にヴィーリアと魂の一部が混ざったおかげで、司祭様の力にそれほど反応しなくなったらしい。しかしもしも、魂が混じっていなければ司祭様に近づくと弾かれ、先ほどの首の後ろが強くひきつれる痺れのような感覚がずっと続いていたということだろうか。
魂を対価とした契約を薬とするならば、その副作用みたいだ。そういうことも前もって教えておいてほしかった。
「ですから、私から離れなければいいと申し上げていたはずです」
……そういえば、初めて転移魔術でヴィーリアの膝の上に移動させられた夜に、そんなことを聞いたような気がしないでもない。あのときは転移魔術に興奮してしまった。それどころではなくなって、その意味を訊かなかった。
「私の傍にいれば神殿の力の影響は受けにくくなりますので」
紫色の瞳が細められた。
……うう。ヴィーリアもあの魔術古文書と同じだ。肝心なことを言わない。それに、うなじのひきつれ感は今朝からあった。司祭様がまだ遠い距離にいるときでも反応していたということだ。鈍感などとは言わせない。
「まあ、そういうことにしておきましょう」
お代わりをいかがですか? と温かい紅茶をカップに注いでくれた。
「しかし、初めてのことですから……。貴女も充分に注意はしていてください」
「わかったわ。やっぱり、司祭様とはできる限り顔を合わせない方がいいわね」
そうは言っても、同じ屋敷にいる限り全く出くわさないという保証はない。
今夜だって伯爵と司祭様たちの歓迎会がささやかながら行われる。リモール領の有力者たちとその伴侶、領内のルークス教の信徒代表数名を屋敷に招待している。シャールとわたしは最初の挨拶だけで部屋に下がることになっていた。ヴィーリアは今後のために、招待客とも親交を持つようにとお父様から言われている。
お父様はヴィーリアを婿に取って男爵家を継がせる心づもりだ。
ヴィーリアは次男で庶子という設定のために、アロフィス侯爵家を継ぐことはない。男爵家に婿に入ってライトフィールド男爵を継ぐ。
契約の成就を見届ければいなくなる存在なのだから、本当はそれ以前の問題なのだ。しかし、世間的には、今はそういうことになっている。
これから伯爵とシャールの結婚は白紙に戻る予定である。それならば男爵家の正当な後継者はシャールだ。ヴィーリアやわたしではない。どのみちヴィーリアはいなくなってしまうのだから、シャールが婿を取るか爵位を継げばいい。幸いにリューシャ公国では娘が爵位を継ぐことを禁止しているわけではない。前例があまりないだけだ。
「また憂いごとですか?」
「そういう訳じゃないけど」
カップに口をつける。ヴィーリアの淹れてくれた二杯目の紅茶も、ベルと同じくらいに美味しかった。すっかり美味しいお茶の淹れ方を心得たようだ。
「明日の伯爵との話し合いには私も同席します。アロフィス侯爵家が、ライトフィールド男爵家の事業に全面的に協力することを伝えますので。侯爵家の人間である私から説明して差し上げたほうが納得しやすいでしょう」
「お願いね。シャールの件もうまくいくようにお父様に協力してね」
「……お望みとあらば」
紫色の瞳でじっと見つめられると、最近はなんだか落ち着かない気持ちになる。こちらは常に平常心を保てるように意識しているのだが、ヴィーリアは至って普通に平然としているのが余計に悔しい。
「なにかあれば私を呼んでください」
「そうするわ」
実際に声に出さなくとも、心の中でヴィーリアを呼べばすぐに駆けつけてくれるのだろう。
それに安心感を覚えてしまったのは良いのか、悪いのか。刻印の影響なのか、そうではないのか。だんだんとわからなくなっていた。
読んでいただいてありがとうございます。(*'▽')