14 秋の夜
回想が入ります。開始部分と終了部分に△▽△▽△が付いています。
ベナルブ伯爵が、司祭様を伴ってリモール領に訪れる日が、いよいよ明日に迫った。
この数日間、ブランドやベルたちは屋敷を磨き上げ、客間を整え、庭の手入れなどでくるくると回る独楽のように忙しく動いていた。
ケインは食材の調達や仕込みなどで間食をしている暇もないほどだと笑っていた。
司祭様が滞在する間だけ、ケインの孫で町の食堂のコック見習いをしているルウェインが手伝いに来てくれることになった。
それでも十分に手が足りるとは言い難かった。仕事の合間をみてはベルたちを手伝い、厨房へと足を運んだ。その度に、冷暗所に保管してある、ガラス瓶に詰めた柘榴の砂糖漬けを底の方からかき混ぜた。溶け残った砂糖をシロップに溶かし込んだ。
以前に仕込んだ時に残ってしまった柘榴も、ケインが砂糖漬けにしておいてくれた。透明感があり深い紫色になったシロップは、ヴィーリアの瞳の色そのもののようで美しかった。
△▽△▽△
お父様たちが屋敷に戻って皆に報告を行い、わたしとシャールが執務室へと呼ばれたその日の夜、ヴィーリアが滞在している客間を訪ねた。ノックをするとすぐにどうぞと返事があった。
『貴女が私を訪ねてここへ来るのは初めてですね』
ヴィーリアはソファに腰をかけ、長い足を組んでいた。ゆったりとした厚手のシャツの上に光沢のある黒いガウンを羽織り、スラックスというくつろいだ格好で本を読んでいた。白銀色の髪がしっとりとまとまっている。お湯を使った後のようだった。
『訊きたいことがあって』
開いていた本をぱたんと閉じる。
『どうぞ』
優雅に微笑んだヴィーリアは、隣に座るようにわたしを促した。しかし、警戒しながら向かいのソファに腰を下ろす。
『さて、なにを知りたいのですか?』
『ヴィーリアは、何年か前に認知されたアロフィス侯爵家の庶子で次男って言ってたでしょ?』
『それが、なにか?』
『勝手に騙っていたわけじゃないの?』
『騙るなどとは人聞きの悪い』
ヴィーリアは小さく鼻を鳴らした。
『ヴィーリアの仲介でアロフィス侯爵家が全面的にライトフィールドの事業に協力してくれるっていう話だけど……本当に次男になったの?』
『私は紛れもなく庶子で次男ですよ。……今はね』
唇の端が上がってヴィーリアは愉快そうに笑った。
『貴女はそんなことを尋ねにきたのですか? 私はてっきり……』
『そんなこと、じゃないわ……それに、それだけじゃない』
騙っているだけならただの詐欺師だ。しかし、本当に認知された庶子で次男という肩書を造ってしまったのなら、わたしの願いはアロフィス侯爵家の皆様にも多大なるご迷惑をかけることになってしまったのだ。侯爵様の信用にも関わる複雑な問題だ。
庶子というのは、当主が奥様以外の女性ともうけた子どものこと。
侯爵様が認知したということは、正式に侯爵家の一員となったということでもある。喩え認知されていなかったとしても、どういった事情を設定して庶子という肩書を造ったのかもわからないが、奥様やご家族にご心労やご迷惑をおかけしているのであれば非常に申し訳ない。それがヴィーリアの魔術で創られた架空の設定でも、ヴィーリアが去れば記憶から消えてしまうことだとしても、今、このときに痛みを抱えている人々がいるのならば、それはだめだ。
『……だから、アロフィス侯爵家の皆様にご迷惑をお掛けするわけにはいかない』
『貴女は本当に……』
ヴィーリアはため息をついた。
『ことが上手く運ばないと貴女の願いは叶いません。それなのによく他人の心配ができますね』
『自分だけ良ければいいという考え方は……怖いわ』
世の中がそのような考え方をする人たちばかりだったら、わたしはミュシャ・ライトフィールドとしてこの場所で生きてはいなかっただろう。施設で育ったかもしれないし、今、生きてさえいなかったかもしれない。莫大な借金を背負ったライトフィールド男爵家だって、残ってくれたブランドたちがいなければ早々に立ち行かなくなっていたはずだ。
人は皆、多かれ少なかれ支えられて生きている。支えられることばかりのわたしが自分さえ良ければいいなんて……絶対にだめだ。
『綺麗ごとですね』
ヴィーリアが興ざめしたように紫色の瞳を眇める。
『所詮は偽善の自己満足です』
『……』
どう思われてもいい。これは譲れない。紫色の瞳をじっと見つめ返した。
『……安心なさい。貴女の心配は杞憂です』
ヴィーリアは言い争うつもりはないというように両手を上げた。
『本当に?』
『私は貴女に嘘はつけません。……ところで、貴女は魔術師についてはどの程度知っていますか?』
黙って首を横に振る。魔術師はその名の通り魔術が使える。知っているのはそれだけだ。
『そうですか。……魔術師となる者は、血の中に宿る魔力を依代として我々と契約します。依代と対価は魔力、報酬は魔術です。ここまではわかりますか?』
『なんとなく』
わたしがヴィーリアを召喚した依代は血液だった。
魔術師は血液の代わりに、血に宿る魔力が依代になるようだ。わたしの願いの対価は魂だが魔術師は対価も血に宿る魔力。願いの代わりに、魔術師は報酬として魔術を受け取るということでよいのだろうか?
『簡単に説明するとそういうことです』
一つ疑問がある。
『……“人の理の外の者”とは魂以外の対価でも契約は出来るの?』
『魔術師たり得る器ならば。……魔力が血に宿っている者は、魔力で我々を呼び出して契約することができます。その場合は我々、つまり複数のものとの契約が可能です。我々は魔力を依代と対価として、魔術を行使する権利を与える。ただし使える魔術は無限ではありません。魔術師の魔力量と契約した者の力量にもよります』
『じゃあ、魔力を持っていれば、契約して誰でも魔術師になれるということ?』
『そういう訳でもないのです。血に宿る魔力というものは基本的には生まれ持ったもの。魔力の質が悪くても、魔力量が少なすぎても契約はおろか我々を呼び出すことさえできません。我々が惹かれる魔力を持ち、一定の魔力量を保ち、なおかつ魔術師となることを望んだ者のみが魔術師と成り得ます。……しかし、魔力を宿した人間の数は多くない。それが魔術師の少ない理由の一環でしょう。それに……貴女が私と交わした契約による願いは、当代一の魔術師でも実現は難しいですよ』
『そう、なのね』
『アロフィス侯爵家は魔術師の血筋です。そう生まれる者が多い。正当な取引ですよ。私に協力している間は使える魔術の制限を弛めています。喜んで応じましたよ。貴女が心配するようなことはなにもありません』
わたしに嘘はつけないと言ったから、本当のことなのだろう。
誰も傷つくことがないのならばそれが一番いい。胸の奥につかえていたものがとれた気がした。
『納得しましたか? では次は? まだあるのでしょう?』
その前にとヴィーリアは指を鳴らした。
脚の低いテーブルの上に置かれたティーポットの口から白い湯気が上がった。いつの間にかわたしの分のティーカップも用意されている。
ヴィーリアは紅茶を注いでどうぞと言った。カップから立ち上る香りを吸い込むとお茶を淹れるのはベルのほうが上手ですねと少し首を傾げた。
『前に……司祭様と接触できないって言っていたでしょ? 弾かれるって。具体的にどれくらいの距離で、どう弾かれるの?』
『そうですね……。その者の持っている力にもよりますが、半径一メートルといったところでしょうか。力と力の反発ですから……弾力のある空気の壁を想像してください。ゆっくりと当たれば押し返されるように感じるだけですが、勢いをつけて当たれば跳ばされます』
思っていたより激しいかもしれない。司祭様の周りでは走らないようにしよう。でもその前に近づかないようにしなければ。
『司祭様と一月以上も一緒なんて……大丈夫かしら?』
『貴女は憂い事が絶えませんね』
『司祭様のことはヴィーリアが不安にさせるようなことを言ったからじゃない』
昨日の午後の秋桜の平原を思い出してしまい顔が熱くなる。
いやいや、だめ! 平常心!
気持ちを落ち着けるために深い呼吸を繰り返した。ヴィーリアは組んだ足に肘をついて、面白いものを見つけたように眺めていた。
『伯爵のことは気にならないのですか?』
『それはお父様とお母様がうまくやってくれるわ』
気にならないわけがない。でも借金を返済できる目途はついた。あとはお父様たちが話をつけて破談にするはずだ。
『神殿のほうは布教が目的で来るのですから、屋敷にずっと籠っているわけでもないでしょう。貴女からは近づかないようにすればいいのです。……ただあちらは放っておいてはくれないでしょうが』
そうだ。司祭様の巡礼の旅の目的の一つは布教のため。町や村に布教活動と治療に出ていくことが多いだろう。屋敷に四六時中いるわけではない。屋敷にいるときはなるべくこちらが外に出るか、顔を合わせないようにすればいいのだ。でも、司祭様が放っておいてくれないとは?
『どういうこと?』
ヴィーリアの口角が不敵に上がる。
『……貴女は私から離れなければいいということです』
指を鳴らす音がしたかと思うと、視界がくるりと回転してヴィーリアの膝の上にいた。
見える背景が瞬間的に変わった。先ほどまで目の前にいたヴィーリアに、今は両腕を腰に回されてしっかりと横向きで抱えられている。
―――え?
『これ、転移魔術?』
『そうです』
『わたし……初めてよ?』
これが転移魔術! ……すごい! 物語や歴史書には出てくるが体験したのは初めてだ! 一瞬で見る景色が変わる! なにこれ? すごい! 面白い!!
『気分はいかがですか?』
『楽しい! 最高よ!』
思わず興奮してしまった。ヴィーリアの膝の上だというのに、満面の笑みで答えていた。
「……!」
――――――しまった。
平常心を転移の途中でうっかりと、どこかに落としてきてしまった……。
気付いたときにはすでに後の祭りである。
『……まあ、問題はありません』
ぼそりとヴィーリアが呟いた。哂いながら顔を背けている。
『……哂わないでよ。だって……初めてなんだもの』
以前にもヴィーリアと地下室で同じような会話をした。あの時は、髪の毛が首筋に当たるのがくすぐったかった。変な声をあげたことを、どこからどう見ても絶世の美少女にしか見えないヴィーリアに哂われたことが恥ずかしかった。
失礼と言って哂うのを止めると、ヴィーリアは黒檀色の髪の中へと顔を埋めてきた。
『訊きたかったのは気分が悪くはないかということです。転移は慣れないと辛いので』
訊かれたのは感想ではなく、具合だったようだ。
『全然大丈夫よ。問題ないわ』
移動した場所に着地をしたときに多少の衝撃を感じたが、気になるようなものではなかった。移動先がヴィーリアの膝の上だったからかもしれないが。
『そうですか』
ヴィーリアは髪の中に顔を埋めたまましばらく動かなかった。腰に手をしっかりと回され、囲われているのでわたしも膝の上から動けない。
秋の夜は日に日に長くなっている。陽が沈んでしまうと空気もだんだんと冷えてくる。
……暖房代わりにされている? もしかして寒いのだろうか。寒いのであればもう少し厚手のガウンか毛布を用意してあげよう。
『ヴィーリア?』
あまりにも動かないので名前を呼んでみた。寒いの? と訊こうとしたときに、髪の上から左耳に唇が寄せられる。
『……ヴィーリア?』
今朝も依代はしっかりと徴収された。今日の分はもう間に合っているはずだ。緊張で身体が固まる。深夜は歯止めが利かなくなると言っていた。
『ミュシャ』
耳元からいつも以上にしっとりとした低い声で名前を呼ばれる。肩がびくりと跳ねた。
『神殿が私との契約についてなにか言ってきても相手にしないように。……でないと本当に取り返しがつかないことになりますよ』
囁かれた声色とは正反対な不穏な言葉に胸騒ぎを覚えた。腰に巻かれたままのヴィーリアの腕を強く握って肯いた。
△▽△▽△
ほとんど回想でした……(*_*;
読んでいただいてありがとうございます。(*'▽')