13 冷たい唇
区切りの都合で少し長めになっています。
「近いうちに神殿の者がこのリモールの地に来ます」
「司祭様が?」
ヴィーリアは先にライトから降りた。二頭の手綱を手近な木の枝に繋いだ。ライトの背中から抱き上げて、短く繁った草の上に降ろしてくれる。
リューシャ公国はグレナダ大陸の北に位置しており、その中でもリモール領は公国の最西端だ。
リューシャ公国には国教はない。
一般的に神殿と呼ばれているのは、国を跨いでグレナダ大陸全土に広がる多大な信徒を持つルークス教だ。
ルークス教は原初の輝きと呼ばれる光を、世界の創造主として奉っている。大陸の各国にそれぞれにいくつもの神殿を持っていて、神殿は各国から治外法権を認められている。国には属さない代わりに、多額の援助を国に納めて独立した自治権を維持していた。援助というのは金銭だけではない。司祭様たちの治癒の力や祝福も含まれている。
司祭様たちは各神殿に所属している。数年から十数年に一度、各地の神殿への巡礼の旅をする。その旅で神殿が建立されていない地域にも、布教や治療のために立ち寄り逗留する。
逗留先で宿泊の世話をするのがその地の領主だ。幼い頃に出会った司祭様も、巡礼の旅でリモール領を訪れていて屋敷に一月ほど滞在していた。
「巡礼の旅かしら?」
そうなると滞在するのは領主である我が男爵家の屋敷だ。それは……あまりというか、かなりよろしくないのでは?
「おそらくは」
ヴィーリアが切り倒された木の丸太を椅子にして腰を下ろす。ここにはコディも馬を散歩させに来ている。コディが用意したものだろう。
「―!?」
急に腕を取られて引かれた。重心を崩し、ヴィーリアの膝の上に腰が落ちる。
「危ないじゃない」
「こうしないと大人しく座らないでしょう?」
うう……。それはそうかもしれないけど。
「ミュシャ。契約をふいにするような真似は許しませんよ」
腕を取られたまま、腰をぐいっと掴まれて抱き寄せられた。ヴィーリアは黒檀色の髪の中に顔を埋めて耳元で低く囁く。
「……放して」
強く掴まれたままの腕が痛い。
「解っていますね?」
ヴィーリアは顔を離したが、腕と腰は掴まれたままだった。
その声の冷たさに思わずヴィーリアを見上げる。
紫色の光彩が、声と同じように冴え冴えと冷たい光を湛えていた。秋の穏やかな陽光を反射して、風に流れている髪の白銀色も、今は心の内側に無遠慮に入り込む真冬のしんとした鋭い冷気のようだ。
―――怖い。
しかし、それ以上に美しいと思ってしまった。
「わかっているわ。―――だから放して」
腕が離されると指で顎を掴まれた。そのまま白銀色の髪が、さらさらとした粉雪のように頬に降りかかる。
濃淡の桃色が揺れる一面の秋桜や、雲が高くたなびく薄く青い空や、眼下に広がるリモールの町の色とりどりの屋根が視界から遮られる。
目の前には透明度の高い紫色と、きらきらと輝く白銀色しかない。
唇に、冷たくて柔らかいヴィーリアの唇がゆっくりと降りてきた。一瞬だけ唇に触れて離れ、そしてすぐにまた深く深く唇を合わせられた。冷たい舌が唇の縁を探るように動いたかと思うと、するりと内側に入り込んだ。まるで飴玉を転がして舐めるかのように口の中で動く舌が熱を奪いとっていく。
「!?」
驚く間もなく、喉が痛くなりそうなほどの濃厚で芳醇な甘い香りに包まれた。甘すぎて甘すぎて、喉が焼けそうだ。くらくらとする眩暈が止まらない……。
鼻で空気を吸い込んでも、張り付くような甘い香りが胸に満ちて苦しい。唇も塞がれているので思うように息ができない。息苦しくて視界が滲んでくる。
「ん! っん!」
言葉を出せない代わりに、ヴィーリアの胸をどんどんと叩く。
ヴィーリアの唇がやっと離れた。
周囲にとりどりの色が戻るが視界は滲んだままだった。
ヴィーリアは赤い舌で自身の唇を舐めた。全身の力が抜けてしまった上に、酸素も不足していた。ヴィーリアの胸に倒れるように、もたれ掛かってしまう。
繰り返し深く息を吸って、荒い呼吸と心臓の鼓動を整える。その間に、狂おしいほどの甘い香りは、余韻だけを残して消えていた。
「いつもそれくらい従順でいてほしいものです」
ヴィーリアの唇が近づいてきて眦に寄せられ、滲んだ雫を拭っていった。いつものしっとりとした声色のなかには、もう尖った氷のような鋭い冷たさは感じられない。
「なんで……こんなこと」
「言ったはずですよ」
「……」
「啼かせてみたくなるって」
……確かに甘すぎて、苦しくて、視界が滲んだ。
「貴女は私のものです。よく覚えておきなさい」
秋の午後の柔らかい陽射しのせいだろうか。それともヴィーリアがあまりにも妖艶に、しかもそれ以上に優しく微笑んだせいだろうか。
……あの雷の夜は、揺りかごの中で微睡んでいるような、絶対的な安心感を覚えた。今また、ヴィーリアの腕の中で不覚にも同じような気持ちを覚えてしまった。
これは、絶対に秘密だ。
でも……。
「ヴィーリア……。こっち向いて」
「なんです……」
最後まで言わせなかった。
両手で思いっきり、ヴィーリアの両頬を挟むように叩いた。
ばちんと乾いたいい音が鳴る。
草を食んでいたライトとフィールドが、耳を立てて頭を上げたのが視界の端に映った。
「……」
ヴィーリアが驚いたように目を瞠る。
「……わたし、初めてだったんだからね!」
「……それは、まあ、そうでしょうね」
そう、そうなのだ。初恋もまだだけど、そんな相手もいないけど、片田舎の貧乏貴族でも一応は貴族だから想う相手と結ばれるとは限らないけど! でも、それなりに淡い憧れをもっていたのに。いきなり、あんなの……。
叩いた手が痛い。
「そういうのって普通は、最初に合意とか? あるでしょ? なんていうかもっと……うまく言えないけど、こんなのじゃない」
「……そうですか。一面の秋桜畑なんてかなり情緒的だと思ったのですが。では次回はご期待にそえるようにいたしましょう」
「そういうことじゃないの!」
「……わがままですねぇ」
叩いたせいでまだ微かにじんと痺れている指に、ヴィーリアが指を絡めてくる。大きく腕を振って外そうとするが外せない。
じっと恨めし気に紫色の瞳を見上げる。思いっきり叩いた白磁のような滑らかな頬には、手形の痕さえついていない。なんだかいろいろと悔しい。
「ヴィーリアは慣れているだろうけど……わたしは違うもの」
「なにかと思えば……やきもちでしたか」
「違うよ!?」
「では、なんですか?」
なんですかと訊かれても答えられるわけがない。自分でもなにがなんだかわからないのだから。
ヴィーリアがふっと笑う。
「私ではお嫌でしたか?」
優しく囁かれてまじまじとヴィーリアを見てしまう。
陽に透ける白銀色の艶やかな長い髪は風に揺れている。今は気遣わしげに、深い紫色の瞳がわたしを映している。口角が上がった、形の良いふっくらとした柔らかな唇は穏やかな微笑みを浮かべる。顎を支えた長い指は、そのまま指に絡められたままだ。
『貴女は私のものです。よく覚えておきなさい』
……こんなの、意味を勘違いしそうになる。
「……ヴィーリアはずるい」
「お褒め頂いて光栄です。では……次回は期待していてください」
「次回はないから!」
屋敷に戻るなりシャールが玄関ホールへと駆け込んできた。後からブランドも続く。
「お姉さま! 大変! ベナルブ伯爵様がお見えになるって!」
「おかえりなさいませ。お嬢様、ヴィーリア様」
「……あ、ごめんなさい。お帰りなさい。お姉さま、ヴィーリア様」
シャールは興奮しているようだった。手には封筒を持っている。
「どういうことだか説明して?」
伯爵が来る? どうして? ヴィーリアは司祭様も来ると言った。
「それが、お姉さまたちが出かけた後に伯爵家から知らせが届いたの」
シャールは封筒から手紙を取り出した。クリーム色の肌触りの良い滑らかな紙を受け取る。ブルーブラックのインクで書かれた、流麗な文字が並んでいた。素早く目を通す。
「…………五日後? 司祭様も同行されるの?」
「そうみたい。どうしよう? お姉さま」
「ブランド」
ブランドは心得ましたというように肯いた。
「コディにはお嬢様たちがもどっていらしたら、旦那様に早馬を出すように申し付けております」
さすが執事の鑑。仕事が早い。
「ありがとう。ブランド」
ベナルブ伯爵の手紙には、五日後に巡礼の旅の司祭様と見習い司祭様を伴って、屋敷を訪問すると告げられていた。それとともに、間もなく婚姻が迫った花嫁に会いたいとの旨もそれとなく記されていた。
「お姉さま……わたし……あの……」
シャールが桃色の唇を噛み締めていた。
「シャール、大丈夫よ。落ち着いて。ほら、唇を嚙まないの。切れてしまうわよ」
シャールのふっくらとした頬を両手で挟み、唇を噛むのを止めさせる。
「大丈夫よ。シャール。なにも心配しなくていいの」
シャールの大きな緑色の瞳を見つめて肯く。もう大丈夫。ベナルブ伯爵に嫁ぐ必要はない。全て元に戻るのだから。
「お姉さま…………ご……な……」
シャールは目を伏せてうつむいた。なにか小さい声で呟いたような気がした。しかし、シャールのことはもう大丈夫という安心感と、司祭様の件をどうするかで頭がいっぱいで、そのときは気に留めなかった。
△▼△▼△
お父様とお母様が炭鉱から戻ったのは、翌日のお昼過ぎだった。
「ミュシャ、シャール! 戻ったよ」
「お帰りなさい! お父様、お母様!」
お父様とお母様に挨拶と抱擁を交わす。二人とも屋敷を発つ前とは見違えるほど明るい表情をしていた。
「ヴィーリア殿にも留守をお任せしてしまいました。感謝いたします」
「どうぞお顔を上げてください。私は婚約者として当然の義務を果たしたまでです」
ヴィーリアは男爵夫妻の前でも、ブランドたちの前でも、非の打ちどころもない完璧な婚約者を演じていた。
こんなにも男爵家に溶け込んでしまったヴィーリアも、願いの成就を見届ければ去ってしまうのだ。皆の記憶からはきれいさっぱりと消えて、記憶は細かく修正されながら本来の日常に戻っていくのだろう。
そこにわたしを除いては。
お父様とお母様は報告があると屋敷の者全員を食堂に集めた。
「みんなよく今日まで耐えてくれた。このライトフィールド家を支えてくれたことを本当に……本当に感謝する」
お父様がそう前置きをして語ったことは――――――。
炭鉱から掘り出された鉱石を詳しく調べた結果、緑柱石であることがわかった。掘り出された緑柱石は色によってそれぞれに呼ばれ方が変わるものらしい。
青色の緑柱石はアクアマリン。緑色の緑柱石はエメラルド。黄色の緑柱石はヘリオドール。桃色の緑柱石はモルガナイト。赤色の緑柱石はビクスバイト。無色の緑柱石はゴシェナイト。
今回、炭鉱で発掘された鉱石は、緑色とも青色ともつかない色彩で高い透明度を持っていた。研磨し鑑定した結果、かなり上質のエメラルドだと判明した。現在発掘されている緑柱石の色彩の具合を見ると、鉱脈からはもしかしたら全ての色の緑柱石が発掘される可能性があった。それはとても珍しいことで、さらに鉱脈自体が非常に大きい可能性があることが技師たちの調査で示唆された。
炭鉱の別の個所からも、黒瑪瑙や琥珀と思われる原石が見つかっていた。こちらはまだ調査中とのことだった。
そして、ヴィーリアの仲介で、翡翠を産出するクリムス領を持つアロフィス侯爵家から、発掘から宝石として加工するまでの技術や資材や人員などの全面的な協力を得られたこと。
アロフィス侯爵家が取引をしている商会を通じて流通網を確保し、公国や大陸全土に商品として出荷できること。そして一連の事業が軌道に乗れば、男爵家の財政は大幅に改善され、新たな事業の発展に伴う関連事業も誘致される。領民の経済活動なども潤うであろう。といったことだった。
「旦那様……本当にようございました」
ブランドは片眼鏡をそっと外して目尻を拭った。コディはそんなブランドを見て鼻をすすり、ケインは顔を真っ赤にして言葉を詰まらせている。ベルとフェイはお互いに手を取り合って、瞳を潤ませていた。わたしもシャールと肩を抱き合った。
その後でわたしとシャールが執務室に呼ばれた。執務室にはお父様とお母様、ヴィーリアが揃っていた。
お父様とお母様が座ったソファの向かいにシャール、わたし、ヴィーリアの順で腰を下ろす。
「まずヴィーリア殿、この度のこと改めて誠に深く感謝申し上げます」
お父様が頭を下げた。
「男爵様、どうぞお顔を上げてください。先ほども申し上げましたが、ミュシャ様の婚約者として当然のことです。礼には及びません」
ヴィーリアがこれでもかというように慈愛たっぷりの微笑みを浮かべる。お母様がハンカチで目尻を拭った。そのついでにハンカチの陰から、ほら、ミュシャもお礼を言いなさいとの目配せをされる。
「あの、ヴィーリア様。本当になにからなにまで、ありがとうございます」
ヴィーリアに向き直り頭を下げる。
「ミュシャ様まで……。私は貴女のお役に立てたのならそれだけで……」
冷たい両手でわたしの手を取り、うっとりとした微笑みを浮かべる。どうしてもヴィーリアのふっくらとした唇に視線がいってしまう。逃げるようにうつむいた。
お父様とお母様は、傍から見れば仲睦まじく手を取り、労わり合う婚約者同士に目を潤ませていた。
本当はなにを考えているのか解りはしないヴィーリアの微笑みは、わたしにとっては胡散臭いことこの上ない。だけど、感謝だけは本当に心の底からしている。
「……それからミュシャ、シャール」
お父様がこほんと一つ咳払いをした。握られていた手をぱっと引っ込めた。
「私たちが留守の間、よく補佐をしてくれた。ありがとう」
「本当に頑張ってくれたわ……。今までも……」
「これからはもっと忙しくなる。しかし、お前たちにもやっと、報いることができるだろう」
お父様もお母様もずいぶんと顔色が良くなった。思わず目頭に熱いものがこみあげそうになったが、隣からも熱い視線を感じて引っ込んだ。おちおち感動もできない。
「それから先日の嵐の被害については、すでに指示を出して処理を始めているから心配はいらない。それで……ベナルブ伯爵様と司祭様の件だが……」
シャールが隣でぴくりと肩を震わせた。
「司祭様は巡礼の旅で、伯爵様の領地から我がリモール領に足を運ばれる。この屋敷に滞在してもらうことになるだろう。以前の巡礼が十年ほど前だ。一月ほどいらっしゃったはずだ。それを考えると、今回は十年ぶりということもあって……それ以上の期間になるかもしれないな」
一月以上も同じ屋敷で生活するというのは大丈夫なのだろうか? 傍に寄ると物理的に弾かれるということだが、具体的にはどれくらいの距離でどのように弾かれるのだろう。
それに、司祭様の件とは別に……後できちんと確認しておかなくてはならないこともある。
そのときに一緒に訊いてみようとヴィーリアをちらりと見る。司祭様を鬱陶しがっていたことなどおくびにも出していない。なんでもないというように澄ましていた。
「……伯爵様のことだが……シャール」
突然、名前を呼ばれてシャールがはいと緊張した声をあげた。
「実はお前に言っていなかったことがある。手紙を読んだのなら気が付いたかもしれないが……ベナルブ伯爵はお前に求婚の申し入れをしていたのだ」
「わたし……知っていたわ」
シャールの言葉にお父様とお母様はうなだれた。
「すまない……。どうしても言えなかった」
「不安にさせてしまっていたわね……。ごめんなさい。シャール」
「いいのよ」
シャールが微笑むと、お母様がハンカチで目頭を押さえた。
「しかし、緑柱石の鉱脈が発見されたことで伯爵様に全額返済できる目途はついた。今回、こちらに司祭様を伴っていらっしゃるというのはいい機会だ。伯爵家からの申し入れとはいえ……この縁談は担保の要素が強い。シャールとの縁はなかったことにしていただこう」
お母様が隣で肯く。
シャールは、はいとも、いいえとも返事をしなかった。
合意がないとダメ! 絶対!
読んでいただいてありがとうございます。(*'▽')