12 高台の秋桜
「お姉さま、ヴィーリア様と喧嘩でもしたの?」
朝食が終わった後に、シャールがこそこそと囁いた。
「そんなことないわよ」
「……そうかしら?」
「そうよ」
ヴィーリアとわたしが、朝の挨拶を交わしただけでなにも会話がないのをおかしく思ったようだ。
話さないというか、話せない、話すこともない。
昨夜、図書室であんなことを言われたとあってはこちらにも意地がある。平常心を保つために極力、なにも考えないようにすることにした。特にヴィーリアの前では。するとなにも考えないようにすることに精いっぱいで、必然的に話すことができなくなる。なにも考えないようにしているので話す話題もない。
今朝に依代を徴収されるときにも、できるだけ心を無にしていた。心頭滅却すれば火もまた涼しと、遠い国の僧侶も言っていた。とにかく平常心。いつでも無念無想。
「でも、ヴィーリア様は気にしていたみたい」
「そんなことないわよ」
「……そうかしら?」
「そうよ」
「なにか、今朝からお姉さま……へんよ?」
「そんなことないわよ」
「……」
シャールがため息をついた。
「お姉さま、きっと疲れているのよ。今日のお仕事は休んで。わたしがやるから」
……。
シャールに気を遣わせてしまった。なにも考えないようにするのは難しい。考えないようにすることを考えてしまう。……うう。それによく考えてみると、平常心を保つのと心を無にするのは似ているようで違う気もする。
「……ごめんなさい。シャール。大丈夫よ。ちょっと、考え事をしていて……というか、考えないようにしていたというか……」
「……? でも、お姉さまは今日のお仕事はお休みするのよ。昨日、わたしがさぼった分、今日はがんばるわ」
「本当に大丈夫だから……」
「ダメ! ヴィーリア様とのんびりお茶でもしてね!」
シャールに図書室を追い出されてしまった。
思いがけず仕事の予定が空いてしまった。それならと、屋敷の仕事をすることにした。
ヴィーリアとのんきにお茶を飲む気にもなれない。それに男爵家はいつだって人手不足だ。
廊下の窓から庭を眺めると、コディが先日の嵐で折れてしまった木々の枝を集めているのが目に入った。ヴィーリアも一緒にいる。
なんだかんだと、ヴィーリアはすっかりと男爵家に馴染んでしまった。
リューシャ公国でも指折りの侯爵家の次男を騙っているのはどうかとは思う。
しかし、庶子という触れ込みのために、家格が釣り合わない辺境男爵家の養女の婚約者という立場でも世間的には通用するだろう。
侯爵家の皆様には、御家名をお借りして非常に申し訳ないと思う。
願いの成就を見届けてヴィーリアがここを去るまで、リモール領のような片田舎中の片田舎の辺境の地の噂が、公都の侯爵家に届かないことを願うばかりだ。
ケインを手伝うことにして厨房へと足を運んだ。玄関ホールではベルとフェイが拭き掃除をしていた。
ケインは昼食と夕食のスープを仕込んでいる最中だった。
何か手伝うことはないかと訊くと、ジャガイモの皮むきと柘榴の仕込みを頼まれた。
かなりの量のジャガイモをむき終えると今度は柘榴だ。
丸い柘榴の表面を布でこすり汚れを落とす。それからへたから少し下を切り取る。中は白い房で実が分かれているので、皮の外側から房に沿って切り込みを入れる。それに沿って柘榴を開く。あとは赤紫色の小さい柘榴の実をボウルの中に落として取り出していく。
「大分手際が良くなりましたね」
ケインがグリルにこれから焼くパンの生地を入れた。
「上手になったでしょ?」
「いい事なのかどうかはわかりませんがね」
ケインが笑いながら複雑な表情をした。
柘榴の入ったボウルに水を張り、きれいに洗った実をテーブルの上に広げた布巾に取り出して水気を切る。ガラス瓶の中に柘榴とその半分ほどの砂糖を入れる。軽く混ぜて仕込みはおしまい。時々、ガラス瓶の底に溶け残った砂糖をかき混ぜれば、あとはシロップが完成するのを待つだけだ。
柘榴の砂糖漬けの仕込みが終わったのは、ほぼお昼時だった。そのままケインと昼食の準備をした。途中からベルとフェイも加わり賑やかになった。厨房には、焼きたての小麦のパンの芳ばしい香りと食欲をそそるスープの匂い、砂糖と柘榴の甘くて酸っぱい匂いが混ざり合い漂っていた。
昼食を終えて、午後からはシャールと仕事を交代しようとしたが断られた。
「ダメよ。今日はお姉さまのお仕事はお休みです。ヴィーリア様とゆっくりしてね」
「でも、シャールも疲れたでしょう?」
「昨日は休ませてもらったから大丈夫」
こうなった時のシャールは頑固だ。絶対に譲らないし折れない。
「あ! ヴィーリア様」
シャールが手を上げた。振り返るとヴィーリアが廊下を歩いてこちらへと向かってくる。
「どうかしましたか?」
人畜無害そうな爽やかな笑顔を浮かべて、ヴィーリアは首を傾げた。
「お姉さまと遊んであげてください」
……シャール、貴女ってば……。
ヴィーリアは一瞬の間を置いてから、はい。喜んで。と微笑んだ。
「……ということですが、なにをして遊びましょうか?」
シャールが図書室に入って扉を閉めてしまうと、ヴィーリアが面白そうに訊いてきた。
「遊ばないわよ」
「まだ機嫌が悪いのですか?」
「機嫌は悪くないわ」
「今朝から……いえ、昨夜から少しへんですね」
「……」
「ほら、黙る」
「……」
「ミュシャ?」
「―――!?」
すっと顔を寄せてきて、耳元で名前を呼ばれる。全く油断も隙もない。
「世話が焼けますね。大方何も考えないようにしているのでしょうけど」
「……平常心でいようと思って」
「それはそれは。是非がんばってくださいと言いたいところですが……」
「そうやって、からかっていればいいわ」
もう絶対に、ヴィーリアになんか心を動かされたりしないと決めたのだ。
「……まだまだ解っていませんね」
ヴィーリアはこれ見よがしにため息をついた。
「どういう意味?」
「そんなことをすれば、余計になかせてみたくなるものですよ」
久しぶりに背筋を冷たいものが駆け抜けた。
これほど台詞とかけ離れた優雅で上品な微笑みは見たことがない。だからかえって得体が知れなくて恐ろしく感じる。似合う背景は、昼間の明るい陽の中ではない。薄暗い夕闇の、蝙蝠が飛んでいるような人気のないうらぶれた墓地だ。絶対に。
「……いや、遠慮させてもらうわ」
人をあえて泣かそうとするなんて、とんだ悪趣味だ。どんな目に合わせようというのか。考えただけで恐ろしい。今のうちにきちんとお断りをしておこう。何回も言うが目から出るのは汗だけど。
「そうですか? 残念です」
「もう行くわ。ベルの手伝いをしてくるから」
待ってくださいと、ヴィーリアに腕を掴まれて引き止められた。
「ところで貴女は馬には乗れますか?」
ライトフィールド男爵家は、リモールの町並みを見渡すことができる小高い丘の上に建っている。屋敷の奥には湖があり、後方にはリモール山脈とユーグル山脈が連なっている。
屋敷の門を出て町に下る道をそれる。横路に入り進んでいくと見晴らしの良い高台の平野へと続く。
横路は一昨日の嵐のせいで、小枝や葉があちらこちらに落ちていた。
道はすでに乾いていた。水はけの良い土地なのだ。
『コディがライトとフィールドを運動させたいと言っていましたので、少し散歩にでも行きませんか?』
そう、乗馬に誘われた。
ライトとフィールドは、かなり安直に名付けられた男爵家の馬だ。他にリモールとユーグルの二頭がいるが、今はお父様たちの馬車を牽いている。
名付けたのは全てお父様だ。名付けの感性は壊滅的だった。
馬も半分以上手放していた。残っているのは早馬と馬車を引くためのこの四頭だ。
『少しなら』と答えたが、実は乗馬は得意な方ではない。馬は可愛いのだが、背中に乗ると高さがあるので少し怖い。運動不足のせいで体力もあまりもたない。乗馬はシャールの方が得意だった。
『まあ、今日のところは私と乗ればいいでしょう』
『一人で行けばいいじゃない』
『貴女は私を、慣れない土地に一人で放り出すのですか?』
『そういう訳じゃないけど……』
『確認したいこともありますので。付き合ってもらいますよ』
半ば無理やり強引にヴィーリアに抱えられて、ライトの背に乗せられた。
ゆっくりと歩を進めるライトに揺られて、背中をヴィーリアに預けていた。
ヴィーリアが二頭の手綱を引く。フィールドも後ろからついてきていた。
秋の陽が色づき始めた葉の間から、木漏れ日となって降り注ぐ。すがすがしい空気の中で、深い樹々の匂いや土の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。これはこれで悪くはなかった。
しばらく進むと樹々が途切れて、展望が開ける。高台の上に平野が広がった。
一面の秋桜が咲いている。濃い桃色から、白に近い色まで濃淡もさまざまに、波のように風に揺られていた。嵐でも花びらは散らなかったようだ。
眼下にはリモールの町並みが一望できる。その先にきらきらと光っているのはミゼル河の水面だ。
「なかなかに美しい光景ですね」
ヴィーリアに褒められて得意な気分になった。
「そうでしょ? 朝はミゼル河の向こうから陽が昇るの。夕方にはリモール山脈に沈んでいくわ。その時の景色もとても美しいわよ」
だから絶対に守りたい。朝日に開く窓や、夕闇に灯る明かりの中にそれぞれの生活がある。歴代の領主が大切に守ってきた土地だ。ベナルブ伯爵には渡せない。
ヴィーリアはしばらくなにも言わずにその光景を眺めていた。風が髪を巻き上げて吹き抜ける。一面の秋桜も大きく花びらを揺らす。
「ミュシャ。私がこちらに渡った日に話した事を覚えていますか?」
見上げると、ヴィーリアはリモールの町の遥か先、ミゼル河の向こうを見つめているようだった。
「いろいろ言われたから。どのことかしら?」
皮肉っぽく返すと、ちらりと視線を向けられた。
「神殿には近づくなと言ったことです」
「もちろん。覚えているわ」
「それはよかった」
「ヴィーリアたちと契約すると、神殿にも司祭様にも祝福にも弾かれて治療も受けられないって教えてくれたわよね?」
ヴィーリアを召喚した、あの朔の夜に話をしたことだ。
なぜ今、突然そのような話をするのだろうか。
「その通りです……来ます」
「なにが?」
「……嫌な気配をここ数日の間で感じていたのですが……」
「……気配?」
「……まったく、鬱陶しい」
呟いてからヴィーリアが舌打ちした。いつもは慇懃無礼ながらも紳士然としているのに、珍しいこともあるものだ。
「ヴィーリア?」
ヴィーリアは紫色の瞳でしっかりとわたしを捕らえた。
「ミュシャ。約束は忘れないように」
だから、なんのこと?
読んでいただいてありがとうございます。(*'▽')