11 甘く薫る
「だから、つまり……呼ばれた気がしたって、そういうことよね? どうなってるの? 昨夜は……明日には元にもどるって言ったじゃない?」
とりあえず資料をテーブルに揃えてから、ヴィーリアを向かいの椅子に座らせる。もう夜も更けているので声をひそめた。
「もどるでしょうとは言いましたが、断言はしていません」
長い足を組み、ヴィーリアは片眉を上げた。紫色の瞳を細めながら平然と言ってのける。
くっ! この×××! おっと、いけない、いけない。これは禁句だった。
だけど、だけど、だけど! わたしの思考や感情が目の粗いざるのようにそのまま筒抜けなんて、そんなの嫌! 絶対に嫌!! 私事の侵害もいいところだ。
「案外便利だと思いませんか? 先ほどだって……」
「思わない」
「……昨夜だって、貴女はそのおかげで私の腕の中で、それはもう安らかにおやすみになりましたよね?」
「それはそうだけど……感謝はしているけど……それは雷のせいで……それに、言い方」
ちょっと、昨夜のことは思い出させないでほしい。確かにヴィーリアがずっと傍にいてくれたから夜を越えられた。でも、あんなに恥ずかしい思いはもう二度としたくない。
わたしは事もなげにしれっとしていたヴィーリアとは違う。ここは絶対に譲れない。
「……」
「なによ?」
ヴィーリアは白銀色の長い前髪を耳にかけて頬杖をついた。
「お互い様だとも言いましたよね。私の思考も貴女に伝わるのですよ?」
「だけど、そんなの、いい匂いがするだけじゃない……」
ヴィーリアの思考や情動は人間には捉えられない。香りとして伝わると説明していた。より強いそれは、より濃厚な香りとして感じると。
だけどそれはずるいでしょ? 甘くていい香りがするだけなら、わたしだってあんなにも恥ずかしい思いはしなくて済んだ。
でも、わたしからヴィーリアに伝わることは違う。香りなんかじゃない。あんなことや、そんなことなど、言葉には出しづらい思考や、説明もできないような感情も、いろいろと直接伝わってしまう。もしかしたら昨夜よりも恥ずかしいことになるかもしれない。
そうなったら……悲惨過ぎる。考えただけでも恐ろしい。自然と元にもどるまで待ってはいられない。今すぐにでも、どうにかなんとかしてほしい。
「貴女は私のものなのですから。気にすることでは……」
「気にします!」
ヴィーリアの言葉を遮る。
「いずれはそうかもしれないけど、今はまだ違うでしょ?」
「……頑固ですね」
「ねぇ、今すぐに元に戻して? ヴィーリアなら、ほら、ぱちんって。ね?」
指を鳴らす仕草を真似てみた。
「……」
ヴィーリアは上目でわたしを見つめたまま、なにかを考えているようだ。
「お願い。ヴィーリア」
胸の前で両手を組んで目をつむる。
「……そんなにしおらしくお願いされても……。大変恐縮なのですが……貴女の魂は非常に私と合うようです」
昨日、それは聴いた。
「惹かれる力が強すぎたのでしょう。魂の一部分が溶け合ってしまった可能性が高いのです」
なにか、嫌な予感をひしひしと感じる。
「……それで?」
「一時的な混線ではないということです」
「……つまり?」
「部分的に融合されてしまったようですね」
「……だから?」
「諦めてください」
ヴィーリアがそれはそれは優雅に微笑んだ。ヴィーリアの言葉が真っ白になった頭の中で、やまびこのように何度も何度も反響する。
「……いや? 本当にちょっとなにを言っているのかわからないんだけど?」
「……」
「あの? なにか方法があるでしょう?」
ヴィーリアは頬杖をつき、無言で静かにわたしを見つめている。
「お願いよ。ヴィーリアだったらできるでしょう? なにか解決策があるわよね?」
諦めてください、なんて言われたって諦められるわけがない。乙女などという柄でもないが一応、一九歳のうら若き乙女の羞恥心がかかっているのだ。必死に食い下がる。もはや懇願といってもいい。
お願い! どうにかできると言って!
「私に出来ないことのほうが少ないのは事実ですが、魂は全く別の問題です。もっと繊細でいろいろと複雑な条件がありますので」
乙女心のほうが繊細で複雑なことに気が付かない上に、さりげなく自身の優秀さを誇示する慇懃無礼な口で繊細云々を語ってほしくはない。
「……ヴィーリアはなんでもできるかもしれないけど、女の子のことはなにもわかっていないわ」
恨みがましくじっと見つめる。ヴィーリアだってわたしのように、顔から火を噴くのを通り越して、火山が大爆発したかのような思いをすればいい。そうすれば絶対に今のような涼しい顔はしていられるはずがないのに。
「ほう……。言いますね。ミュシャ。その歳になっても初恋もまだの小娘のくせに」
紫色の瞳が眇められた。
「なっ!? そんなことヴィーリアに関係ないでしょ?」
なぜそんなことを知っているの? まさか記憶まで読まれているの?
仲の良い幼馴染や従兄弟はいたが、友人以上には考えられなかった。なんでもお見通しだというようにヴィーリアは鼻で哂った。
「そのようなことは貴女を見ていればすぐにわかることです。……お望みならば私が教えて差し上げますが?」
柔らかく形の良い唇から、いつも以上に甘く、しっとりとした声で紡がれた言葉が鼓膜に注がれる。紫色の瞳がいっそう艶を帯びた。
あまりにも妖艶な雰囲気に飲まれて一瞬、魅入られたように呆けてしまった。
テーブルの上のランプの炎がゆらりと震える。影が大きく揺れて、そのおかげではっと我に返った。
危ない! まんまとうっかり、話をすり替えられるところだった!
「……そ、その手には乗らないんだから! 誤魔化さないで。元にもどしてよ」
ヴィーリアはくっと喉を鳴らして、愉しそうに笑った。
「本当に貴女は……退屈しませんね」
「わたしはヴィーリアの玩具じゃないわ。ふざけないで」
ふてくされ気味に軽く諌めると、ヴィーリアはふっと笑うのをやめた。
「今は……まだ、ね」
「……」
その言葉は胸の奥に意外にも重く沈んだ。
解っていることなのに。ヴィーリアとの契約を、実感として思い知らされたようだった。
「また、泣きますか?」
「泣かないよ!?」
なぜそんなことを訊くのだろう。そうだと肯定したらまた、眦に唇を寄せて舐めとろうとするつもりなのだろうか。しかも以前のあれは目から汗をかいただけだ。
「そう見えたので」
「……」
からかう口調から、心配するように声色が変わった。言葉が出てこなかった。ヴィーリアから視線を逸らしてしばらく下を向いて黙っていた。
「……このようなことは初めてです」
その言葉に顔を上げる。ヴィーリアは耳からほつれた長い前髪をかき上げ、腕を軽く組み、ため息をついた。
「魂の一部が溶け合うことなど、今までにはなかった。ミュシャ。貴女には……」
今までにない様子のヴィーリアに緊張して次の言葉を待つ。
「やはり……諦めてもらうしかありません」
「―――は!?」
一周回ってもとに戻ってしまった。堂々巡りにしかならない。
「そんなぁ……」
力が抜けて、情けない声がでてしまう。
「ああ。またそんな顔をして」
ヴィーリアは意地悪く口角を上げた。
「ねえ、本当にどうにもならないの? そうだ! 試しにもう一回、わたしの魂に触れてみるとかは? もしかしたらそれで元にもどるかもしれないわ」
「……それで、さらに融合されたらどうするつもりですか?」
その可能性もある。だけど、だけどもしかしたらという思いで今は藁をも掴みたい。
「でも、とりあえずこの際、可能性があるならなんでもやってみないと」
「もしかしたらなどという不確実さは可能性ではありません。無謀と言います。たった一度、ほんの少し触れただけでこの状態ならば、再び私が貴女の魂に触れてごらんなさい。さらに大きく溶け合う可能性の方が高いでしょう」
ヴィーリアは冷静に、そう判断したようだ。
正論のような気がする。そういわれてしまうとぐうの音も出ない。
確かに今以上に溶け合ってしまったら、強い思考や情動だけが筒抜け状態どころではすまないだろう。今でさえ、すこしヴィーリアの事を考えただけで彼は呼ばれたような気がしてしまうのだ。
「……諦めろといわれても諦められないけど、わかったわ」
未練を全面的に押し出して、気落ちしたように肩を落とす。
ヴィーリアが罪悪感を覚えるのかどうかはわからない。しかし、ほんの一握りでもわたしに申し訳ないという気持ちがあるのなら、この哀れな姿が胸にちくりと刺さればいい。
これは事故のようなものだからヴィーリアも被害者なのかもしれない。でも被害の大きさが違う。思考と感情が駄々洩れの筒抜けと、甘い芳香。八つ当たりだとわかってはいるがそうせずにはいられない。
……でも、ヴィーリアの立場で考えてみると、知りたくもない思考や感情が流れてくるなんて……嫌、よね? それでもヴィーリアは、そんな時にも気にして様子を見に来てくれていた。優しい……のかもしれない。
今まで自分の事ばかり考えていたけど……。
なんだかわたしの胸に、ちくりと棘が刺さってしまった。
「ミュシャ。対処方法を教えましょうか?」
「! あるなら教えて」
ヴィーリアは唇の端を上げて、穏やかに微笑んだ。
「簡単ですよ。貴女が私に欲情しなければよいのです」
はい!! 前言撤回!!
読んでいただいてありがとうございます。(*'▽')