10 まさか!?
今朝も左耳の熱と疼きで眠りから覚めた。
昨夜は雷の閃光と雷鳴を遮るように、ヴィーリアの胸の中に顔を埋めていた。
ヴィーリアに護られるようにして眠りに落ちたのは、雷がようやく治まった頃だ。
今は背中側が暖かい。お腹にヴィーリアの腕が回されている。後ろから抱えられて左耳を甘噛みされていた。
カーテンの隙間から漏れる光もない。外はまだ暗い。きちんとした眠りについてから、そんなに時間も経っていなかった。身体がだるくて、眠い。しかし、左耳から広がる熱と疼きでおちおち眠ってもいられない。
「ヴィーリア?」
「……お目覚めですか?」
「まだ眠い……」
「気にしないでおやすみなさい」
「……ムリ」
身じろいで、幼い子どもが駄々をこねるように頭を振ってみた。ヴィーリアは意に介さなかった。仕方がないのでそのまま目を閉じていたが、今朝はいつもよりも甘噛みされている時間が長い気がした。熱も疼きも眠さも限界だった。
「……ごめん。もう、本当にムリ!」
ヴィーリアの額を両手で押し返すと、意外にあっさりと唇を離した。熱と疼きは掻き消えるように、すっと溶けていった。
「……昨夜は私がいなければ眠れなかったくせに」
ヴィーリアは珍しく、拗ねたような視線を送ってきた。
「でも、眠いの」
依代の提供も契約のうちなので申し訳なくも思う。しかし、今朝は眠さが勝った。
目を閉じるとすぐに眠りに落ちていく。
ヴィーリアになにか耳元で囁かれていた。すでに眠りに引き込まれる寸前だった。なにを言われたのかは解らなかったし、覚えてもいない。ただ、うん、うんと肯いていたような気がする。
二度目の眠りをベルのノックで起こされると、隣にはすでにヴィーリアはいなかった。
嵐が去った翌朝は雲一つない晴天だった。空は高く澄み渡っていた。
昨夜の嵐が雲を一つ残らずどこか彼方へと運び去ってしまったかのようだ。
急いで顔を洗い、着替える。髪も梳かして食堂へと向かうと、すでに涼しい顔をしたヴィーリアが紅茶を飲んでいた。
「おはようございます。ミュシャ様」
「おはようございます。ヴィーリア様」
穏やかに微笑むヴィーリアに負けないように笑みをつくる。
「よく眠れましたか?」
「……おかげさまで」
髪を梳かしているときに鏡を見ると、目の下にうっすらと隈ができていた。昨夜は浅い眠りを繰り返していたせいだ。雷鳴で眠りから引き戻されるたびに、ヴィーリアは心配ないと囁いてくれていた。
夜半過ぎに眠りに落ちた。しかし、明け方にいつも通りに依代を徴収されて目が覚めてしまった。本当はまだ眠い。
ヴィーリアもそんなに眠ってはいないはずだ。それなのに、大丈夫なのだろうか。
滑らかな肌には寝不足の痕もない。
「それはよかったです」
「ヴィーリア様もよくおやすみになられましたか?」
皮肉半分、心配半分で訊いてみた。ヴィーリアはこれ以上はないというくらいの、慈愛に満ちた笑顔をよこす。朝の眩しい陽光の中にいるヴィーリアは、人好きのする爽やかな好青年のようだった。
ベルとフェイの頬が桃色に染まった。あの慇懃無礼さはどこに隠したのやらと逆に感心してしまう。
ベルが紅茶のポットを持ってきてくれた。カップには自分で注ぐ。赤みがかった琥珀色の紅茶は瑞々しい果物のような香りがした。しばらくゆっくりとその香りを楽しんだ。
シャールを呼びに行ったフェイが戻ってきたが、シャールの姿はない。
「シャールは?」
「それが……昨夜、遅くまでお休みになられなかったようです。まだ起きられないと……今朝は朝食もいらないそうです」
「わかったわ。ではヴィーリア様とわたしでいただきましょう」
シャールらしいと言えばシャールらしい。心の底から楽しそうに窓辺に張り付いている様子が浮かんでくる。苦笑してしまう。わたしはあんなにも雷が怖いのに。
今日はゆっくりと寝かせておいてあげよう。もしかすると夕方くらいまでは起きてこないかもしれない。
朝食後に裏庭の菜園に行った。先日、シャールと二人で秋蒔きの葉物野菜を植えた畑だ。
庭はぬかるんでいたが、一面水たまりということもなかった。小さい水たまりはいくつもあるが夕方までには消えるだろう。リモールの土壌は水はけがよい。
種を蒔き、盛り土をした場所は強い雨で土がえぐられていた。小さな芽は倒れたものや、流されて水の溜りに浮かんでいるものもある。手早く植え直していく。
完全に水がはけたら落ち葉も片付けなければならない。昨日の強い風で、赤や黄色に色づく前の葉も、残念なことにだいぶ散ってしまっていた。裏庭の楓や銀杏の樹は、秋が深くなると鮮やかに葉の色を変えて目を楽しませてくれるのに。
スコップを片手にしゃがんで作業をしていた。
物珍し気にあちこちを見廻して裏庭を散策していたヴィーリアは、シャツの袖をまくって隣に腰を下ろした。
「手伝います」
「……ありがとう。でも、できるの?」
「失礼ですね」
わたしからスコップを奪う。水の溜りに浮いた小さい緑色の芽を手際よくつまんで植え直し、崩れた土も盛っていた。
大きな背中を丸めて一生懸命に作業をする様子に、なぜだか獰猛な肉食獣がお行儀よくテーブルについて、フォークを器用に使いながら野菜サラダを食べる姿を想像してしまった。なんだか大きな背中が可愛らしくみえた。
ヴィーリアが手伝ってくれたおかげで、考えていた時間の半分もかからずに作業が終わった。
魔術で片付けないのかと訊くと、面白そうだったのでやってみたくなったとのことだった。好奇心は旺盛なようだ。
ブランドからは屋敷の状況報告があった。被害は考えていたよりも少なかった。雨が強く吹きつけた窓から染み入った雨水で、屋根裏部屋の床に水が溜まったとのことだった。
「地下室の浸水はありませんでした」と報告したブランドは、誰がいつの間に片づけたのやらと呟いて首を傾げていた。
午後からは陳情があれば、不在の男爵夫妻に代わって嵐の被害状況も受け付けなくてはならない。場合によっては領地の視察も必要になる。
昼食にもシャールは起きてはこなかった。心配したフェイが部屋に行くと、気持ちよさそうに眠っていたので起こせなかったと困っていた。
三時のお茶の時間の前にシャールの様子を見に行った。
「シャール? 起きたの?」
ノックの後に「はあい」と、なんとものんきな返事が返ってきた。
部屋に入ると、着替えを済ませたシャールが机に向かって書き物をしていたようだった。ちらりと視線を向けると遮るようにシャールが立ち上がった。
「起きたのなら何か食べないと。昨夜はずっと雷を見てたの?」
「ごめんなさい。……だってとっても綺麗だったから」
シャールは緑色の大きな瞳をうっとりとさせた。
「フェイも心配してたわ。お茶の時間になるし、焼き菓子を用意してもらったから行きましょう?」
「はあい。ところでお姉さまは……昨夜は大丈夫だったの?」
「大丈夫よ」
雷が苦手なことはシャールにも話していない。それは姉の沽券に関わる問題だ。
「ふうん。まあ、ヴィーリア様もいるし、ね?」
「なに?」
「ふふ。なんでもない。お腹が空いちゃったわ」
夕方までに領内の村と町から、早馬で三件の嵐の被害と状況の報告があった。
雨が降る前に収穫が終わらなかった果樹園の林檎が、大風で落ちてしまったこと。山から切り出した木材を運ぶ林道の一部が崩れてしまったこと。リモール領と伯爵領の間を流れるミゼル河の水位が上がっていること。幸いなことに人的な被害は上がっていなかった。
報告されていない被害はまだあるだろうが、大きなものは今日のところは以上だった。
お父様にもすでに報告されているかもしれないが、炭鉱のある村まで早馬で使いを送った。
夕食の後にベルたちと一緒にお風呂の準備をした。さっぱりとしてから図書室に向かう。少し残ってしまった書類の確認を終わらせておきたかったためと、林道の補修のための資料の確認をしたかった。
ランプを片手に灰暗い廊下を歩いていると、手前で図書室の扉が開いた。
「シャール?」
「あ、お姉さま……」
「どうしたの? こんな時間に」
「遅い時間に起きたから……まだ眠くならなくて」
綿菓子のような金色の髪をくるくると指で巻いて、恥ずかしそうに笑う。午後も遅い時間まで寝ていたのなら当然だろう。
「明日の朝食は一緒に食べましょう。今夜は眠くなくても早く横になってね。夜更かししちゃだめよ」
「はあい。……お姉さまはどうしてここに?」
「資料を探しにきたの」
「お仕事の?」
「昨夜の嵐で林道が崩れたでしょ? 補修工事が必要になるだろうから、昔の工事の記録とか図面があればと思って」
「……お姉さまばかりに押し付けてしまって………ごめんなさい。わたし……」
シャールがうなだれた。
「いいのよ」
仕事は嫌いじゃない。どちらかと言えば好きだ。
書類の作成や資料の収集、整理などの事務仕事も性格的に向いている。
反対にシャールはそれらに全く興味がない。机に向かうよりは野外で視察や行動することを好む。
男爵家の財政が立ち行かなくなる前に授業を受けていた家庭教師は、自然科学の専門だった。
授業時間外でも、暇さえあればシャールと外に出て、植物や樹木、虫の観察などをしていたことを思い出す。
「シャールも知っているでしょう? わたしは机仕事が得意なの」
「お姉さま……」
「さぁ。もう戻って。わたしも遅くならないようにするから」
「はい」
シャールを見送ってから半刻ほどで書類の整理を終わらせた。資料を探して、書架の間をランプを片手に行き来した。目当ての図面は棚の上方に見つけた。
秋の虫の音色だけが忍び込んでくる図書室に、きぃ、と扉の開く音がした。
「ミュシャ?」
ヴィーリアの声に本棚の間から顔を出す。今日はいきなり部屋の中に現れるのではなく、扉から入ってきた。いつもそうしてくれると心臓も安泰だ。
「ここよ。どうしたの?」
「まだ仕事は終わりませんか?」
「来てくれてちょうどよかったわ。あとこの棚の上の、図面が取れれば区切りがつくの……」
さっきから思い切りつま先を立てて背伸びをしているのだが、もう少しのところで届かない。指先は背表紙に触れるのだが掴めないでいた。
椅子を持ってくるのも癪だった。なんとかしようと腕を精一杯伸ばして、指にひっかけようとしていたところにヴィーリアが現れた。そう、ヴィーリアの身長なら、上の棚にある書物も楽に取れるのだろうと考えていた……。
うん?
「これですか? どうぞ」
背後に回ったヴィーリアはわたしの肩に手をかけて腕を伸ばした。薄い茶色の表紙の図面にゆうゆうと手が届く。
「ありがとう……」
図面を受け取り、紫色の瞳をじっと見つめる。
「それで、どうしてここに来たの?」
ヴィーリアは顔色一つ変えずに、唇の端を上げた。
「貴女に呼ばれたような気がしたものですから」
読んでいただいてありがとうございます。(*'▽')