1 朔の夜
初投稿です。どきどきしています。
少しでもお楽しみいただけたら嬉しいです。
よろしくお願いします。
地下室に行くためにランプを手に取る。胸にはハンカチに包んだ小型の果物ナイフと、記されてから長い年月を経たために綴じも弛みかけた魔術古文書を抱えた。
部屋の扉をそっと開ける。それから真っ暗な廊下に滑り出た。
油の節約のために家人が寝静まる夜中には屋敷中のランプは消してしまう。月明りのない朔の夜。時刻は夜半過ぎ。廊下の窓から見上げる新月の夜空は、一面の星明りでぼんやりと銀色に光って見えた。
わたしはランプを揺らさないように足元を照らす。ランプの灯りが届かない場所は真っ暗でなにも見えない。しかし、ここは勝手知ったわたしの育った屋敷だ。地下室の扉までなら目をつむっていても簡単にたどり着ける。
二階から階段の踊り場を通り抜けた。玄関ホールを横切り、屋敷の端の突き当りの扉を静かに開ける。
三ヵ月前にこの地下室への扉を開けようとしたときには、蝶番が錆ついていて動かなかった。長い期間、人の手が入っていなかったためだ。
家人たちの目を盗んでは何度も蝶番に油を刺して錆を取り除いた。やっとすこしだけ開いたと思ったら、今度は金属が擦れる嫌な音が大きく響いてしまったこともある。そのときは幸いにも誰にも見咎められずに済んだが、それからもこまめに油を刺しては扉を開閉して慣らした。
今では音も立つことはない。簡単に滑らかに動くようになっていた。
ランプを足元にかざして地下室への階段を照らす。いよいよ計画を実行するときがきた。今夜の朔の日を逃せば、もう間に合わない。ごくりと唾を飲み込む。
魔術古文書を抱えた腕に知らず知らずに力が入る。やるしかない。やってみるしかない。この方法がだめならもうほかに打つ手はない。
―――どうか、どうかお願いします。か……。
はっとして言葉を飲み込む。
いやいや、なにをしようとしているのだ、わたしは。これからすることを考えれば、神頼みなどできるはずもないのに。
意を決し地下室の階段を降り始める。ランプの光の先は深い闇の淵だ。
足を降ろす度にぺたぺたと顔や髪や腕に蜘蛛の巣が引っ掛かり、辟易する。蜘蛛の糸は細い割には非常に強度だ。取り除こうと払っても払ってもまとわりついてくる。
今までは昼間の明るいうちに、お父様やお母様、妹や数少ない屋敷の者たちの目を盗んでは掃除に来ていた。長いこと放置されていた地下室の埃を払うためだ。床に魔法陣を描く必要があったため、不要な物を片付けた。積もった埃を掃いて床を磨いた。
しかし、蜘蛛はすぐに巣を張ってしまう。せっかく張った巣をわたしに壊される蜘蛛もたまったものではないだろうが、地下室に降りるたびに蜘蛛の巣だらけになるわたしもたまったものではない。
一度、髪の毛に盛大に張り付いた蜘蛛の巣に気付かずに、お母様に不審がられたことがあった。まさか娘が一人で地下室に降りているなどとはお母様は露にも思っていない。庭の木の下をくぐったときに絡まったのではないか、と押し通した。人手不足で手入れの行き届かない庭でなら不自然なことでもない。なにしろ、これからすることを絶対に知られたくはなかったのだから。
持っていたランプの炎を、地下室の天井に設えたランプに移した。
橙色の明かりに、床一面がぼんやりと照らし出される。朱いインクで五芒星に、円や三角形やら、見たこともない文字のような文様やらなんやらを、規則性があるのかないのかさえわからないように組み合わせ、象った複雑怪奇な魔法陣が描き出されている。
これからすることを考えると心臓の鼓動が跳ね上がる。たとえこれが成功しようとも、失敗しようとも窮地には変わりない。だったら、成功してすこしでも恩を返してわたしだけ窮地に陥りたい。
ふぅ―――。
気持ちを落ち着けるために深く息を吸い込んだ。地下室の空気は澱んでいてかび臭い。おまけになんだかじっとりと湿気を帯びているようで、薄気味悪い。ランプの芯が炎に炙られて、時折小さくじじっと音を立てるほかは物音ひとつしない。ただ、わたしの心臓の速い鼓動だけが鼓膜に響いている。
ここ数年は我が家の財政事情が芳しくなかった。もともと多くもない屋敷の働き手の数をさらに減らしていた。長年放置されていた上に、使用もしていない地下室の管理などに手が回るはずもない。手入れも掃除もされていない地下室は、最初に降りたときには相当ひどいことになっていた。
窓がない地下室は昼間でもランプの灯りがないと闇夜に放り出されたかのようになにも見えなかった。天井に吊るされたランプの油は切れていて、ランプシェードも壊れていた。換気もされていなかった空気は、黴や埃の臭い、なんだか古いものがすえたような臭いも混ざって鼻を刺激した。最初の頃は布で口を覆っていても、くしゃみが止まらなかったものだ。
積もった埃で床が見えない上に、埃と一緒に虫の死骸やらなんやらが黒や茶色に点々と散らばっていて……。ああ、あまり思い出したくもない。
手始めにランプを修理した。その後、密かに何回も通ってそれらを片づけた。喜んでやりたくなるような作業では決してなかった。
そんなことを思い出してため息をつき、床一面の朱い魔法陣に目を向ける。自分で言うのもなんだが、魔法陣そのものはなかなかよく描けていると思う。腕に抱えている魔術古文書に記されている通りに描けたはずだ。あとは依代を捧げて契約の儀式を行えばよい。
懐からハンカチに包んだ果物用のナイフを取り出す。ハンカチを外すと長年丁寧に使われていたよく研がれて小さくなった刃が姿を現す。
魔法陣の中心へと進んだ。ランプの灯りを鈍く反射させる刀身を左手の薬指の先へと充てる。痛いのは苦手だ。できれば極力避けたいが、仕方がない。覚悟を決めて震える手で指の上でナイフをひく。
最初はなにも感じなかった。しかし徐々にぴりりと沁みるような鈍い痛みを覚える。ナイフをひいた線の上にじわりと、小さい赤い血の球が浮かび上がってくる。そのまましばらく指先を見ていた。しかし、なんだか思ったようには血は流れてこない。もっとこう、なんというか、指先からぽたぽたと滴り落ちる様子を想像していたのだが……。
薬指の先の傷からは、ゆっくりとゆっくりと、赤い血が球になって滲んでくるだけだ。依代となる血液を滴らせるように魔法陣に注ぐためには、もっと深くナイフで切らなければならないのか……。
「……。いや、無理……」
思わず呟く。今でさえ、薬指の先にはじんじんとした痛痒いような感覚がある。これ以上に深く切るなんて。しかも自分で切るなんて、怖すぎてムリ。
仕方がないので左の手のひらを下に向けて、血が魔法陣に落ちるように大きく上下にぶんぶんと振ってみる。ほんの少量だが振り落とされた血液が魔法陣にかかる。
魔術古文書には依代となる血液を魔法陣に注ぐとあった。どれくらいの量を注ぐかという具体的な注釈がなかったから、まあ、これでも間違いではない。と思いたい。とりあえず、指の血を舌でぺろりと舐めて傷をきれいにしておく。瞬く間に鉄の味が口の中に広がった。
次は召喚呪文の詠唱だ。
腕の中の魔術古文書を開く。三百年ほど前のリューシャ語で記されているために、今の言葉とは文字も読み方も少し異なっている。召喚呪文を練習するために同じ頁を繰り返し開いた。そのために癖がついてしまった頁も自然と開かれる。指も覚えてしまった。
いざ呪文を詠唱をしようとしたそのときに、足元に靄のような煙のような、ゆらりとした白いなにかが見えた……ような気がした。
「?」
足元を見廻すと、魔法陣からしゅうしゅうと音を立て、半透明な白い煙が立ち昇っている。
「……ん?」
なにこれ? こんなこと魔術古文書には書いてなかったよね? そもそもまだ召喚呪文の詠唱もしてないけど? あれ?
慌てて魔術古文書の頁を捲る。こんな不測の事態について、なにか対処方法は記されていなかっただろうか?
この計画を決めてから、不備があってはいけないと魔術古文書を隅から隅まで何度も読んだ。しかし、こんな状況の記述はなかったように記憶している。だとしたら対処方法など、記されているはずもない……よね?
半透明の白い靄だか煙だかよくわからないものは、次から次へと魔法陣から湧いて出てきた。もうすでに腰から下は白く覆われてしまった。この調子で湧き続ければすぐに地下室いっぱいに充満してしまうだろう。
どうしよう? これはいわゆる失敗? わたし、逃げた方がいい? でも。逃げてどうする? どうにもならないでしょ!
魔法陣の中心で、不測の事態に為す術もない。
すると半透明の靄なのか煙なのかわからないものは、突然にきらきらと光りだした。
半透明の白い色の中に金色や虹色や白銀色のきらきらとした光の粒子が混ざりだす。魔法陣から次々に湧き出してくるその様子は、まるで光の洪水だった。
やがてそれらの光は一箇所に集まりだした。人型を採り始めているようだ。
この世のものとも思えぬほどの美しい光の乱舞に半ば魅入られてしまった。その場から動けなくなった。あとの半分の理由は訳の分からない非常事態に足がすくんでしまい、動かすことができなかったからでもある。
しばらくして金色、虹色、白銀色の光は、象った人型に吸い込まれるようにして消えていった。半透明の靄のような煙のようなものも光の粒子と一緒に、霧が晴れたように消えていた。
天井から吊るされたランプが、きぃきぃと耳障りな音を立てて左右に揺れている。そのせいで地下室が不自然な角度で橙色の灯りに照らされていた。影が大きく揺れては、また元に戻ることを繰り返している。
わたしはその揺れる影に照らされた目の前のモノを、茫然と見ていた。
きらきらとした美しい光の粒子が消えた後、わたしの目の前には突如としてソレが現れた。そう、そのときはまだどういう状況で、どうなっていたのかもわからなかった。だからやっぱり、ソレはまさしくソレとしか呼べなかったのだ。
読んでいただいてありがとうございます(*‘∀‘)