梵字って読めますか?
【閑話・現世】
さて、現世の小雪は居間でぶっ倒れていた。
白目をむいて、舌がだら――んと下がっている。
頭の働きが、わりと緩めの雅史と有菜ですら、慌てふためいた。
「ど、ど、どうしよう!! か、かあさん、死んじゃった」
「お、お、落ち着いて、まあくん。まだ脈はあるよ! えっと、えっと……」
有菜は必死に考える。
「あ、頭を横に向けて!」
有菜が指示する。
雅史が小雪の頭を横にした時に、小雪の首から、ペンダントが流れ出た。
雅史が子どもの頃から、いつも首にかけていたもの。
平素指輪をしない母に、なぜかと一度尋ねた。
「手も指も洗剤でガサガサだし、仕事の邪魔になるからね」
その代わりに父が贈ってくれたのは、ハート形のロケットタイプペンダントだったそうだ。
「意識がない時は、顔を横に向けて、次は次は、なんだっけ、そうだ! AED!!」
「さ、さすが、准看生!」
「中退したけどね!」
それは無資格者というのではないだろうか。
まあ、AEDを操作するのに、資格は必要ないからいいけど。
さて、AEDすなわち、自動体外式除細動器が有効なのは、心室細動であって、心房細動ではない。AEDは心房細動時に必要な電気ショックの、2倍以上の電気を流してしまうのだ。
しかも幸か不幸か、小雪と雅史、有菜らが住むマンションには、AEDが設置されていた。
今まさに、小雪の心臓をめがけ、強力な電気が流れようとしていた。
【悪意を祓う】
切られた老女は、後方にふっと飛ばされ、棺桶バケツにぶち当たった。
「おばあさん!!」
小雪が駆け寄ると、老女は何事もなかったかのように、上体を起こす。
切り裂かれた老女は着物の下に、黒いうろこ状のものを身に付けていた。
「はあ、びっくらした。鎖帷子着ててよかったよ」
くさり、かたびら?
忍者が着たりする、アレ?
何でそんなモノを、この婆さん着ているの?
「それより、なんですか、あの黒い人」
老女を切った黒い亡者は、右手に刀を下げたまま、ひたひたと近づく。
「霊界の奥、そのまた奥の院に、二度と転生も出来ない魂が封印されとる。最悪最凶のな。それを取り戻すために、わざわざ仮死状態になってまで、やってきた輩よ」
わざわざ仮死状態になるとは、ご苦労なことだ。
しかし、仮死状態でも、三途の川までは来られるのか。
老女によれば、死ぬ前に持っていたり、棺桶に一緒に入れたモノは、ここまで持って来ることができるそうだ。黒い亡者は、刀を抱えて、仮死状態になったのだろう。
「現世から持ち込まれた武器に、あたしらは対抗できない。霊界警備隊が来るまで、持ちこたえないとな」
老女は袖から小袋を出し、黒い亡者に向かって何かを撒いた。
「せめて塩でも撒いておけば、時間が稼げるだろう」
「レイカイケイビタイ、そんなのがあるんだ?」
小雪の口振りも、段々とぞんざいになる。
「現世とは『うつしよ』とも読む。何を映す? 現世は霊界を映しているのさ。
さて、ふーちゃんとびいちゃんが来るまで、しのいでいかないと」
『ふーちゃんとびいちゃん』が警備隊のトップツーだという。
もうツッコミたくもない。
ところで現世から持ち込まれた武器に、霊界の婆さんは対抗できない?
では、同じく現世から持ち込まれたモノであれば……
「ばあさん、あの黒い着物、何で染まっているの? 墨よりも黒いけど」
「ああ、ありゃあ、血糊だろ」
血糊……血液か!
そうか。
ならば。
落とせる!
「ばあさん! さっきの、さっきの袋ごと頂戴!」
準備しながら小雪は思う。
町の普通の洗濯屋だった。
早くに父が死んだあと、小雪は母を助けて、毎日毎日衣類を洗い、シミを抜き、アイロンをかけた。
知人の紹介で夫と結婚してから、夫の才覚により、店舗は増えていった。
収入はそれなりに増えたが、休みなんてなかった。
息子には、寂しい思いをさせただろう。
先ほど舟に乗っていった、元銀行員のことは笑えない。
「クリーニング屋なんて、もうやめてよ!」
そう言った息子の頬を叩いた。
叩いた掌が痛かった。
いくつものため息を閉じ込めて、洗濯一筋で生きてきたのだ。
汚れを、見過ごすことなんて、出来ない。
小雪は棺桶に残った灰汁に、老女から取り上げた塩を入れる。
血液は酸性。アルカリ性の溶剤であれば、血の汚れは落とせる。
黒い亡者は、うっすらと撒かれた、結界もどきの塩を刀で切りながら、近づいて来る。
小雪は老女と目配せをし、左右に別れて走る。
小雪は左から、老女は右から、黒い亡者に向かって灰色の塩水をぶっかけた。
黒い亡者は一瞬怯む。
どす黒い衣は、しゅうしゅうと音を立て、血糊を落とす。
目にでも入ったのか、黒い亡者は左腕で顔の辺りを拭っている。
黒い亡者の衣から、赤い色が落ちた時、老女と小雪は目を見開いた。
亡者の衣には一面、梵字が描いてあったのだ。
「チッ。逆梵字か」
梵字。
梵語を表記する文字だそうだ。
一説によれば、その一文字一文字に、仏が宿ると言われている。
それを逆に書き連ねるとしたら、仏の働きが抑えられてしまうのだ。
黒の亡者は、逆梵字の亡者となり、先ほどと比べ物にならないスピードで、小雪に刃を突き出した。
小雪の首を狙って突き出された刃が、金属のチェーンで一瞬止まる。
ロケットタイプのペンダントについている、金鎖だ。
刃が止まったのは僅か一秒弱。
その一秒。
現世では、雅史と有菜が、小雪に対してAEDを作動させていた。
AEDの電圧、二千ボルトが、小雪の体を通し、亡者へと流れた。
あくまでコメディです。ホラーでもないし、童話でもない。もちろん純文学でもありません。
ラストまで、もう少し、走り続けます。