鬼と戦ったこと、ありますか?
【トメって、何?】
「ひゃくめおに、させつ、さん?」
クラス中がドッと沸いた。
高校の入学直後、担任が呼名した時のことである。
『百目鬼』を「ひゃくめおに」と読むのは、まあしょうがない。
だけど、小雪はフツウに「こゆき」と読めばいいじゃないか。
この後、小雪のあだ名は、一時「ひゃくめ」となった。
しかし、それも呼び名としては、言いにくかったようで、「とどめき」から「とどめ」に変わり、 最終的に「トメ」となった。
いや、だから「こゆき」呼びじゃだめなの?
「トドよりは良いでしょ」
そう言われた。
後々、ネット上で『トメ』とは、意地悪な姑を指すと知り、小雪はげんなりした。
せめて、息子に嫁が来たら、『オトメさん』と呼ばれるよう、言動を慎もうとも思っていた。
それなのに……
「ほら小雪! ぼ――っとしてないで、手を動かす!」
三途の川の畔で、小雪はハッとした。
川で洗濯をしているうちに、いつしか回想していた。
ともかくも、小雪は今、三途の川で洗濯をしている。
川の水は透明ではないが、濁ってもいない。
そこで白い布地を洗っているのだが、襟あたりに微弱な汚れが残る。
プロの洗濯屋としては、少々気に入らない。
「すいません、何か洗剤ありませんか?」
小雪は老女に訊いた。
「洗剤? ああ、ダメダメ。界面活性剤が川を汚しちゃう。霊界環境に優しくないのよ、アレ」
霊界も、界面活性剤に影響を受けるのか。
「でも、白い着物が真っ白にならないですよ。せめて灰とか、ないでしょうか」
老女は小首を傾げる。
「ちょっと待ってな。並んでいる男どもに、聞いてくる」
老女が向かったのは、先ほど着替えさせた亡者たちが、並んでいる場所だった。
ざっと見ると、だいたい百人くらいいる。男性が七割ほどだ。
皆、生気のない顔をしている。
まあ、死んでいる者たちだから、生気がないのは当たり前か。
老女が戻ってきて、「ほい」と小雪に投げた。
ライターだった。
「この辺の枯れ草を、適当に燃やしな。灰くらい出来るだろ」
確かに。
「ところで、あそこで並んでいる人たちは、これから何をするんですか?」
「見てりゃあ分かるよ。面白いよ、いろいろ」
老女の科白が終わらないうちに、渡し舟が岸に着いた。
深々と編み笠を被った船頭が叫ぶ。
「よ――し。全員、川に入れ!」
ノロノロと、亡者たちは川に入って行く。
すると。
着物の裾が水にふれた途端、みるみるうちに、着物の色が変わっていく。
ある者は赤に、ある者は紫に、ある者は真黒に染め上がっていく。
全員の着物の色が変わった。
「よ――し! 青と緑と紫に変わった者は、この舟に乗れ! それ以外は待て!」
着物が青や緑、紫色になった亡者は、舟に乗り込んだ。全体の六割くらいだ。
残った者は、川原に残る。
「あの色の識別は何ですか?」
小雪が尋ねると、老女は鼻を膨らませる。
「今、舟にのったのは、まあまあな霊界に行く連中さ」
「それじゃあ、残った人は……」
残った亡者の来ている着物は、血のような赤い色や、闇を思わせる真黒ばかりだ。
老女は言う。
「推して知るべし!」
舟はゆっくり、小雪と老女のいる場所を通り過ぎていく。
いきなり舟から声がした。
「トメ? トメだよね! オトメちゃーん!」
小雪が声の主を見ると、青く染まった着物の袖から、大きく手を振る一人の女性亡者がいた。
それは小雪の高校時代の友人。
「邪眼? じゃがんちゃーん!!」
邪眼……もちろんあだ名である。
本名は、巌状令子。
高校二年の時に、脳に腫瘍が見つかり、手術を受けた彼女。
「がんじょうなんて、名ばかりよね」
そう言いながら、令子は額に残った傷を自分で指さした。
「ここにね、『邪眼』が生まれるの」
入退院を繰り返していた令子のもとに、小雪は令子も好きだった漫画を抱え、しばしば見舞いに行った。すべて、BLだった。
そうか。
逝ったのか、邪眼。
私たちは、もう、そんな年なのか。
「あんた、腐女だったんかい」
しんみりとした小雪に向かって、老女は言う。
小雪はギョッとする。
なんで、そんな単語知ってるんだ、この婆さん。
「大丈夫さ。青い着物になった奴は、結構良い霊界に、行けるから」
【鬼が出た】
再び洗濯に戻る前に、小雪は川原に生えている、枯れ草を燃やし始めた。
すると、どこから現れたのか子どもが一人、川原で石を並べている。
一つ、また一つ、石を積み上げていく。
辺りは薄ぼんやりとした、夕暮れのようだ。
舟に乗れず残った者たちも、川原に座りこむ。
何かのわらべ歌を唄いながら、子どもは石を積み上げる。
小さな石を集めては、石の上に乗せていく。
その時である。
子どもの背丈ほど積まれた石に、金属音が走る。
子どもが大切に積み上げた石は、ガラガラと崩れた。
子どもは泣き始める。
泣き始めた子どもの首を、ひょいと掴む者がいた。
「泣――く――な――!!」
太くデカい声。
子どもは「ひいっ」と息を吸い込む。
小雪も、残された亡者らも、息を呑む。
そこに、一体、鬼がいた。
赤黒く焼けた肌に、ギラギラした双眸。
額の両脇に、牛よりも太い角。
紛れもなく、鬼である。
「あんまり泣くと、食っちまうぞお!」
鬼の恫喝は、縮みあがった小雪に、スイッチを入れた。
彼女の脳裏によみがえる、ある風景。
あれは、息子の雅史が、小学校の一年か二年の頃だ。
いつまでたっても帰ってこない雅史を迎えに行ったら、雅史たち小学生が中坊に囲まれていた。
どうやら遊び場の奪い合いを、しているようだった。
「ここは、ぼくたちの校庭だ!」
雅史は涙声で、中坊に抗議していた。
中坊らはにやにや笑いながら、雅史を突き飛ばした。
その瞬間、小雪は走り出したのだ。
「止めなさ――い!!」
子どもを川原に投げつけようとした鬼に向かって、小雪は叫んでいた。
手に持っていた着物で、川原の石を何個か包んで縛る。
それをぐるぐると大きく振り回して、小雪は鬼に向かって投げつけた。