踏みわらしと湯気
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
いやー、ヤカンの湯気を見る時って、なんだがほっとしてこない? 特に、こんな寒さの厳しい日なんかはさ。
いかにもあったかい気配がするでしょ。すぐカップ麺に注ぐのも、ポットの中へストックするのも、これからポカポカ身体を暖めてくれるのかと思うと、安心するんだよねえ。なんだか。
湯気の正体は細かい水滴。熱いうちは目に見えない状態だった水蒸気が、周りの空気に冷やされて、肉眼で見える状態に戻ったものだという。いわばかくれんぼしていた水分が、強制的に暴かれた状態といえるかな。
僕たちの視覚は、最も受け取る情報量が多い。目に見えないものを見えるようにするっていうのは、代表的なマーキング方法だ。
そのマークに関して、ひとつ興味深い話を聞いてね。ネタのひとつとして、耳に入れてみないかい?
むかしむかし。とある盆地にある町中で「踏みわらし」が出始めた、という話が広まった。昼夜を問わず、道行く者の足をにわかに踏んづけていく輩がいるというんだ。
これが雑踏の中ならやむを得ない部分もあるだろう。しかし、ひとりですたすた歩いているときも、ぐっとつま先を押さえつけられる感触に襲われて、事態は一気に気味の悪さを帯びていく。
どうも対象は人間に限らず、犬、猫、馬などにも及ぶらしい。何もないところで彼らが不意にそっぽを向き、声を荒げてにらみつけるものだから、すぐに判断がついた。
いまのところ大事には至っていないものの、もし早馬などの足が取られたりしたら危ない。早急に「踏みわらし」をどうにかせねばいけなかった。
そしてとある冬の日の夜のこと。
早めに仕事が終わった男は、帰りにそばとおでんの屋台へ寄る。住んでいる長屋で食べられるよう、器ごと受け取り、こぼさないようゆっくりと歩いていた。
雪のちらつきそうな、寒い晩だ。大根やこんにゃくを放り込んだそばは、だしの匂いとともに、真っ白い湯気を周りへ振りまいていく。
と、その歩く彼のつま先を、何者かがいきなり踏んづけた。ここは彼ひとりが歩く道で、人影は見えない。
――「踏みわらし」が出やがった。
舌打ちまじりに見回すも、やはり姿は確認できず……と思われた。
ところが、彼の持っている器から立つ湯気が、いきなり向きを変える。風もなく、まっすぐに昇っていた湯気は、男の左手。四つ辻の角の一方へ向けて首を曲げ、姿勢もどんどんと低くなっていく。
するとどうだ。辻の角、塀の隅にひとりの女の子がうずくまっている姿が現れたんだ。
しばし湯気にさらされ、その白さがそれてしまっても、彼女は動かずにそこにいた。尻をつき、膝をかかえて座り込みながら、顔だけは男の方を真っすぐに向けて、いささかもそらさない。
女の子は顔立ちが整っているだけに、男はその視線にぶるりと震えて、一瞬かたまってしまう。真正面から目を合わせてしまった以上、このまま知らんふりをするのも、ムリがある。
ぎこちなく声をかけたとき、すでにそばたちの入ったどんぶりから、湯気が出なくなっている。
彼女からの反応はない。更に二度声をかけるも同じ。その口元は開くどころか、わずかな息の漏れ、唇の震えすらも見せなかった。
――話す気はないってか。それとも、耳が聞こえていないのか?
男は自らも腰を落とすと、どんぶりを彼女の目の前まで持っていき、ゆらゆらと左右へ動かす。更にはどんぶりから片手を放し、パチンパチンとも鳴らしてみせた。
そのいずれにも、身じろぎひとつなし。ただ男の顏へ真っすぐ目線を外さない。
間近で見ていて、男も改めてぞわぞわと鳥肌が立ってくる。彼女はこの間、ひとつもまばたきをしてくれないのだから。
ややあって。
ずずっと音を立てて、彼女が辻の交差点へ動く。これもまた足を持ち上げず、地面を滑るかのような動きだったが、それをいくらも見届けないうちに、姿が消えた。
ぱっとではなく、頭から足にかけて、ところどころにぽつぽつと穴が開き、空気に溶け込んでいくかのようだったという。男の持っていたどんぶりのだしは、もはやほとんど熱を失っており、こそりとも湯気が出てこないほどになっていた。
あの女の子が、踏みわらしの正体だろうか。
そう感じた男は、仕事の仲間うちで昨日に起こった出来事を話した。皆が半信半疑で、試しに湯気を盛んに吐き出すやかんを手に、街中をめぐったそうなんだ。
ほどなく、件の女の子は姿を現わした。昨日の場所からはずっと離れた町の辻で、しかも動いているところを目撃されたんだ。
彼女はうずくまった姿勢からわずかに尻をあげ、足を引きずってはかすかに飛び、引きずってはかすかに飛び……と、アメンボとウサギが一緒くたになったような、それでもせいぜい三寸(約10センチ)ほどの跳躍を経て、滑らかに道を横切っていく。その着地先に、何者の足があろうと、関係なく踏んづけていく。
その間、彼女はまったく目を動かさない。顔が左右へ振れることはあっても、目の中の瞳は顔の正面からそれることはない。無機質なそのにらみに、たまたまかち合ってしまった人々は、例外なく不愉快さを覚えたそうだ。
そして彼女は、湯気から遠ざかってしまうと、さほど時間を置かずに見えなくなってしまうんだ。そして音さえも響かなくなってしまう。
回数を重ねて分かったのが、彼女は日中こそ動き回るが、夜はじっとしているらしいとのことだった。件の男以降も、夜になって湯気を浴び、姿を現わした彼女を目撃する者がいたが、いずれもうずくまって動かない彼女に、目を向けられたという証言ばかり。
話を受けた同町の同心たちは、岡っ引きを使い、彼女の捕縛を命じたそうだ。自分たちも、これまで踏みわらしと思しき被害に遭っているし、解決の糸口になればと思ったらしいのさ。
岡っ引きたちは、手に手にヤカンを持って、夜の町へと散っていく。いくぶん時間はかかったが、子の刻の入り(午後11時ごろ)には見つかったことを知らせる、笛や拍子木、鐘の音が高らかに響き渡り、寝ていた町人たちも「なんだなんだ?」と起き出してきた。
橋のたもとで見つかった彼女は、岡っ引き十数名に取り囲まれ、見失わないよう絶えず湯気にさらされていた。やはりじっとにらんだまま動かない彼女に、岡っ引きのひとりが詮議の旨を伝えるも、眉ひとつ動かさない。
やむなく、膝を抱える手をそのまま縛りにかかったが、その手首をとって「あっ」と岡っ引きは声をあげた。
彼の指先で、ぷっくりと血の玉が浮き、その端からたらりとしずくが垂れていく。彼女の腕には、縫い針のように細く、短く、鋭いトゲが生えていたんだ。湯気を携えたまま全身を見やると、足をのぞいたあらゆる箇所に、何本も生えている
直接は触れづらいと、岡っ引きは投げ縄を持ち出した。暴れる牛や馬用のものだが、人の形をしたものに対しても十分だ。
他の者にかからないよう、囲みにある程度余裕が作られ、それでも彼女へ湯気が届くよう、真新しいヤカンや鍋が持ち寄られる。この湯気は、立ちさえすればもれなく彼女へ引き寄せられて行き、彼女の周囲はほとんどもやが陰っている状態だった。
だが、いざ投げ縄を投げた瞬間に、それは起こった。
彼女の身を隠すようにまとわりついていた湯気が、一気に姿を消したんだ。それどころか、新たに追加した湧きたてのお湯をたたえるヤカン達も、あまさず湯気が消失してしまう。
――彼女が湯気を余さず吸い取ったんだ。
皆がそう感じ取った一瞬で、ぷちっと彼女の頭頂からあごにかけて、真っすぐに亀裂が走る。そしてそのまま、頭がぱっくりと割れたんだ。
八重咲きだった。
彼女の頭部は、およそ人のものとは思えない、緑色に染まる裏側を見せながら開く。六枚の花弁をつけ、そのすき間にまた六枚。そうしてまた六枚……と投げ縄が届く数瞬の間で、彼女の頭はすっかり細くなってしまった。
残ったのは目鼻どころか、輪郭の面影さえない細い樹のような軸が一本。花に見立てるならば柱頭にあたる部分に、投げ縄が引っかかったんだ。
赤子の鳴き声のような。それでいて腹の虫が盛大に鳴いたような、奇妙な叫び声が響き渡る。
とたん、噴き出した悪臭に、人々は「わっ」と逃げ散ってしまった。わずかにでもとどまった者でも鼻がバカになり、更に長くいた者は、後日になって鼻がかゆくなったり、脂が出続けたり……ひどいと鼻先が溶けたりしてしまったそうだ。
その晩、多くの者がこれ以上の臭いを吸うまいと家を締め切り、岡っ引きたちも彼女だったものに近づけなくなってしまう。
ただ、橋の近くに住まう者たちはその晩に、いくつもの大きな虫の羽音らしきものが近づいてきたこと。
更に数少ない、窓をわずかに開けて様子をうかがったものは、あの柱頭らしき部分に群がり、やがて飛び立っていく巨大な蚊のような群れを見たのだという。
そして翌日には彼女だったものも、その臭いもみじんの痕跡も残さず、いなくなってしまったのだとか。




