31.デートな夏休み
「――さん、起きて下さい」
「んー……夏休みだからまだ寝ます~」
「甘いですね。そうして寝ている状態を許すとでもお思いですか?」
「オモッテナイデス……むにゃむにゃ」
「仕方のない兄さんです。本当に仕方ないですね。一度だけですよ?」
兄さん呼ばわれも捨てがたい。これはもしや、目覚めのキスを頂戴して頂けるイベント?
「ぐはっ!? ちょ、ちょっとタンマ……あががが。ま、待って、あの、華乃ちゃん?」
「はい? 起きますか? 起きませんか?」
「なんすか、そのマニアックな起こし方……どこで誰にソレを? 起きる前に永遠の眠りにつく所なんですけど?」
「痛みが快感になるんじゃないんですか? 私が参考にした本によると、妹からの蹴りは兄にとっては至高の悦びなのだとか」
責任者出てこいや! ちっとも快感じゃないぞ。というより、本気の蹴りは本気で泣ける。寝るのが苦痛になりすぎる。
「高久兄さん、今日も涼しい場所で勉強ですか?」
「そうですよ。だから悪いんだけど、華乃ちゃんは留守を頼むね」
「……分かりました。明日は一緒にパンを食べ歩きに行きたいです。好きですよね、パン」
「そうだね、行こうか」
夏休みに入り、小悪魔彼女は家にはいない。その代わり、三咲姉妹と俺の母さんが家に来ている。親父曰く、別にヨリが戻ったわけでもないらしい。別れても友達関係を保っているだとかよく分からない言い訳だった。
今の相手側の子供たちが、三咲姉妹という世の中狭すぎる問題が起きていた。俺のことを色々教えてくれやがったらしいので、そのせいで興味を持って今に至る。
特に妹の華乃ちゃんは積極的に近付いて来ている。だとしても俺の心の中には入り込めないというのに。
「じゃあ俺は行ってくるね」
「はい。いってらっしゃいです」
あの子と違う点といえば、俺の好みであるパンを一緒になって食べてくれる所だ。元はと言えば俺が全面的に悪いのだが、食べ物の恨みさえ残さなければ、きっと違う結果になっていたはず。
俺はとにかく家の中に居たくなかった。好きを見せて来る華乃ちゃんが嫌いなわけでは無い。でも何かが違う。だからいけないと分かっていても、あの子に会いに行っている。
「おそーい! わたしを待たせるとか、何様?」
「ご、ごめん。もちろん、高久様でお兄様ですよ」
「はっずれー! 今は兄妹じゃないし。ただの男と女です」
な、何か怪しい響きに聞こえる。俺もそうだが、花ちゃんも妹というしがらみから外れたことで、前よりも近くなった気がしている。
もしやこれこそが俺の理想郷? 真の恋人関係になれるという奴ではないか!
「は、花ちゃん。ど、どこ行こうか?」
「水の中!」
はい、出ました。期待しても無駄な奴。そんなセリフは聞き飽きた。夏だろうが何だろうが水は俺の中ではタブー。
「ほら、行こ?」
「ほえ? 水の中って、まさか……」
「水族館だけど?」
「デスヨネー」
彼女はわざとなのか、天然なのか、小悪魔なのか……俺が動揺するような単語を駆使して来るようになった。だがこれはこれで試されているに違いない。忍耐と根性と、ゆかりな耐性を。
「手を出せ!」
「ひっ! はい」
「行くよ」
どういう気持ちなのか計り知れないけど、俺と外で会う時は必ず手を繋ぐようになった。
「金を出せ!」
「ひいいいいい」
「嘘。高久、ほらわたしの分」
「はいぃ」
ゆかりなさんと何故か呼べなくなった俺は、花城の花ちゃんと呼んでいる。外でふたりきりで会ってるのだから、呼んでもばれないし何かが変わるわけじゃ無いにも関わらず、彼女はそれを拒んだ。
そしていつからかもはや記憶にないが、俺の事は呼び捨てで呼ぶことが当たり前になっていた。彼女の気持ちの変化がどこからか切り替わったのか、あるいは心境の変化が出て来たのだろうか。
「おい!」
「何だよ?」
「わたし、見えない。分かる? 分かるだろ?」
「分かった。じゃあ、頼むから顔を蹴らないでくれよな」
「そんなことしないし」
夏休みに水族館なんて混んでいるに決まっている。その混んでいるピークな時間に、彼女は意地になって大きな水槽のヌシを見ようとしている。そんな時は俺の出番である。まさに俺得!
「や、やめっ、くすぐるな! バカ野郎!」
「何にもしておりません。てか、敏感すぎだろ。花ちゃんは敏感肌なわけか。メモっとこう」
それにしても言葉遣いはパワーアップしている。以前からこんな感じだったが、俺と一緒にいる時は控え目にもならない。
もう少しレディらしさを成長して欲しいものだ。
「高久はどういうのが好み?」
「花ちゃんですけど?」
「バカ!」
「うそうそ、嘘じゃないけど、ラッコが好きかな」
バカというストレートなお言葉も彼女なりの照れ隠しということを学習した。その証拠に、好きな生物を聞いたはずのくせに、俺の好みの答えを聞いた時点で全然人の話を聞いちゃいない。
「高久、わたし疲れた」
「はいはい、ではどうぞ」
これも夏休みに入って出会うようになってからの変化。兄と妹という関係の時よりも俺に素直に甘えるようになった。忠実に従う俺も俺だが、彼女をおんぶするのはまさにこの世のパラダイス。
しかし悲しいことに、どう見てもこの光景は兄妹のそれである。身長差があるからだろうが、花ちゃんにはまだ色気が無いという何ともけしからん……いや、幼さが残る可愛さが溢れまくりである。
「ねえ、わたしを連れて逃亡してよ」
「高飛びっすか? 南国に行けたら最高ですな」
「……バカ」
彼女の言葉の意味は何となく分かっているつもりでいた。今回の別居もたぶんそれを意味しているに違いない。俺と彼女の関係はこの先、これからどうすべきだろうな? などと、俺らしくない真面目な思考を働かせてしまった。
「ゆかりなさんはオレの嫁」
「はぁ? 何言ってんの……違うし」
ですよね、ええ。妄想は言葉に出してはならない。
「明日はどこ行く?」
「えーと、明日は妹さまとパン巡りに……」
「わたしも行くし。いいよね?」
「い、いや、それはさすがに……」
「駄目なの……? わたしも連れて行ってよ、お兄ちゃん」
「連れて行きますとも!」
清楚系な黒髪の妹さんと、明らかに小生意気な……じゃなくて活発な妹女子を両手に独占している。それに対して、爆ぜろリア充が! などとハッキリくっきり聞こえて来るわけだが、そんな彼らよりもむしろ情けないのは俺の方だ。
「高久さんは情けないですね。それだけパンを作り、食べておきながら細かな味の区別が出来ていないんですから」
「ホント情けないよね。それでも学校サボってまで本店に行ってたの? ホントはパン作りの方をサボってたんじゃないの?」
「な、なんだとぉうぉう! あ、あれだけイースト菌を体中にくっつけて来た俺に何てことを言うんだ!」
「それ、何の自慢にもならないし」
「花城さんの言う通りですよ?」
ふたりは敵同士のはずだった。それなのにパン食べ放題デートに来た華乃ちゃんと、それにくっついて来た花ちゃんは、パン屋主催の味比べなるイベントで仲良くなっていた。
「ブラック的なことをしていただけであって、パンのプロになったわけじゃないんですよ? そこを勘違いしちゃあかんですよ。そういう花ちゃんだって味音痴のくせに」
「あ? 今何て?」
「ようやく普通の味覚を覚えたくらいでいい気になられても困りますな」
「へぇ……? そういうことを言うんだ? 高久の分際で」
「分際ですが言いますとも!」
喧嘩するつもりはもちろん俺には無い。だが料理のことになると、絶対的な自信を持ってしまったのか、その手のワードを言っただけで喧嘩腰で向かって来る。
「じゃあ勝負するか?」
「俺はさすがに花ちゃんには負けねえぜ? いくら料理が上手くなったからって元が酷すぎたんだからな!」
「ぶつぞ?」
「た、たんまたんま!」
「まぁまぁ、花城さん。ここで高久さんを殴るのはフェアじゃないので、きちんとした場所で勝負しませんか? 私が見届けます」
「うん、いいよ。三咲さんなら厳しくジャッジしてくれそうだもんね。高久、逃げんなよ? 勝負は三日後だかんな! 場所は学校の調理室! 絶対来いよ」
「いやっ、夏休み中だし勝手に使うのはまずいんじゃ?」
「大丈夫ですよ。私、許可取れますから」
「ホワット!?」
「私のパパさん、偉い人なので」
「おけおけ、じゃあわたしは帰るよ。三咲さんはバカ久を見張っていてね。バイバイ」
「はい、また」
偉い人がパパなのか、パパが偉い人なのか……華乃ちゃんは何者なんだ。俺の元ママは誰を捕まえた?
花ちゃんとの料理バトルは三日後。それはそれとして、俺たちは何だかんだでデートの日々を送っている。ちなみに今日は遊園地デートだ。水の中デートは水族館だったが、今回は空の上と言われたので恐らくここだろうと思っていたら案の定だった。
「ねえダーリン……わたし、次はアレに乗りたいなぁ」
ダ……ダーリン!? うおおおおお!! なんすかなんすかこの可愛い呼び方は! これは俺も応えねばならないな。
「分かったよ、ハニー」
「ハ? 今何て?」
「ハニーですが? 何か?」
「トラップでも仕掛けるつもりでそう呼んだってこと? 高久のくせに!」
ハニートラップのことかな。でもあれの意味はR18だしな。さすがに違う意味で聞いたんだ、きっとそうに違いない。
「いえいえ、単純に花ちゃんが俺のことをダーリンと呼んで下さったので、お返しにハニーと呼んであげただけでございまして……決して脅迫のつもりでお返ししたわけじゃ無いんですよ? 勘違いしないでよね!」
「バカなの? や、バカだったね。ごめん」
くそう……冷ややかに返事を返して来るなんて。下手にツンデレなんかやるんじゃなかった。
「とりま、アレに乗ろうよ!」
「いえいえ、わたくしは空はあまり見たくないんですことよ?」
「乗れよ、なぁ。遠慮するなよ? 高久だろ、お前」
「高久ですけど、遠慮しますよ?」
「つべこべ言わずに来いっつってんだろうが! バカ久のくせにわたしに逆らうなっての」
俺は運動無能者だ。体に一定以上の震えだったり負荷だったりがかかると、泣いてしまうという恐ろしい症状が繰り出されてしまう。ましてここは遊園地。
人前で泣き虫の称号を得るのは非常に不本意すぎる。意地でも拒み、大人しい観覧車やお化け屋敷に誘導しなければならない。
「お兄ちゃぁん……わたし、お兄ちゃんと一緒にスリルを味わいたいの。いいでしょぉ?」
「スリルを味わいたいならおばけやし……」
「早く来い、こら!」
「ひっ」
人前で花ちゃんがこれ以上ヤンキー化してしまうのはよろしくない。さらに言うと無意識なのか、俺をヘッドロックしながら乗降口に引っ張る花ちゃんは、とても可愛すぎる女子だった。その行為が俺の胸をドキドキさせたことは墓場まで内緒だ。
「んーーーーたーのしーー!! ね、高久」
「ワタシハドコ? ココハダレ?」
「そっか、ごめんね。じゃあ……観覧車に乗ってあげるから、記憶を取り戻してよね! そうじゃないとわたし孤独になるし、いやだもん」
途中から記憶を失っていた俺だったが、空の上で取り戻すことが出来た。その時の花ちゃんの笑顔は俺を癒やし、俺の気持ちを安らかにさせてくれた。乗り物はともかく、また来たいと思えた。
その後、花ちゃんとのデートの後に自宅へ戻るともう一人の妹さんが俺を待っていた。
「さて、高久兄さん。まずは私に作って下さい」
「ほえ? い、いや、敵に塩を送ることになるだろうし、それは止しておくよ」
「誰が敵ですか?」
「それはもちろん……」
花ちゃんと意気投合をした挙句、学校の調理場まで提供をする華乃ちゃんが俺の味方な訳はない。そう思っていたら、自然と彼女に向かって指を指していた。
「それ、良くないポーズですよ」
「はぁ、すんません」
「花城さんからバカな兄だと伝え聞いていましたけれど、まさか正真正銘のおバカさんだったなんて、がっかりですよ」
ぬおおおお! なぜあの子もこの子も秀才な俺様に向かってバカバカと、襲うぞちくしょう!
「あ、私を押し倒そうとしていますか? いいですよ? その代わり悲しむ人が2人ほどいますけど」
二人……花ちゃんと、誰だ?
「姉の柴乃が泣きます。あんな純情で可愛かった高久さんが、私を無理やりに押し倒したなんて知ったらどうなるか……」
「するわけがないでしょ? そうすると禁じられたお話になるんですよ?」
「ええ、勿論知ってます。もしかして本気にしましたか? しょうがないお兄さんですよね、本当に可愛い人です」
「照れるね」
「ふぅ……花城さんが気に入りそうな人です。それはともかく、私は仮であっても妹なんです。そして今は一緒に寝ている仲じゃないですか。敵だったらおかしなことになっていると思いますけど?」
「その言い方は誤解を招きそうなので許して下さい」
「クスッ……許します。では、料理の腕前を見せて下さいね、お兄さん」
「分かった、大人しく座って待ってて」
「はい」
1時間弱後……予想外だったのか、華乃ちゃんの俺を見る目を改めていた。ふっ、俺を……いや、ぼっち歴をなめるなよ?
「しかしですね、これでは甘いと思います」
「味付けが甘かった? 妹仕様にしてたけど、辛い方がお好みかな?」
「そうではなくて!」
バンッ!!
テーブルを叩いた華乃ちゃんは自滅したのかとても痛そうである。
「ひぃっ!? ってか、湿布貼る?」
「いりません! そのままの腕だと花城さんに勝てないです。だって、今の彼女は料理人のパパさんの所にいるんですよ? さらに腕前が上がっているって考えた方が身のためです!」
勝つとか負けるとか、それは俺にはあまり意味が無いんだよな。そのことはさすがに黙っておくけど。
「とにかく、私があともう少しだけでも、高久さんの腕前を上げたいので台所に一緒に立ってください!」
「は、はい」
なかなか強引な子だ。これもあくまで妹としての心なのか? それとも何を考えているんだろう。俺は華乃ちゃんの心が分からないまま、彼女の待つ台所へ向かうことにした。
「花城さんの勝負に勝ってもらわないと、私が困ります。私が高久さんを奪うんですから……」




