3.パンと俺とゆかりなさん
俺は心の底から後悔している。食べ物の恨みは怖いとはよく聞くけど、まさかこれほどの思いをするとは予想も想像もしてなかった。なぜ俺は食欲を抑えることが出来なかったのだろうか。そしていつになったらこの状況から解放されるのだろうか。
「――高久くん」
「ゆかりなさんほはへり(おかえり)ー! お先に頂いてました。モグ……って、どうしたの? そんな仁王像みたいな表情をして」
「それ、何で……?」
「んん? あ、これ? いや、それがさ……帰ってきたらテーブルの上に大量にパンが置いててさ~これはもう、食べまくるしかないと思ったんだよね。たぶん、親父が買って来たまま放置しといたやつだよ」
「――勝手に食べてしまったんだ?」
「うん? そりゃあ食べるよ。だって家だよ? 家の中にある食べ物は自由に食べますよ?」
「へぇ……そう、そうなんだ」
学校から一足先に帰って来た俺は、リビングから何やら美味そうな匂いを感じてすぐにドアを開けた。そこには、大事そうに包まれている菓子パンのようなものが沢山置いてあった。見た感じは菓子パンそのものだった。
学食とかを利用しない俺は、普段からコンビニのパンばかり食べまくっている。そんな俺の目の前に菓子パンがあったのだ。
食べるしかないだろう。食べることに何の迷いも無かった。迷うはずも無かったのだ。
「それで、何かわたしに言うことは?」
「ゆかりなさんの分は残ってないんだよ、ごめんね!」
「高久くん。そのパンの包装紙を見てくれる? それを見たうえで、わたしに言葉をかけてね」
「ふむ? 包装紙とな? そういや菓子パンのくせに大層なものに包まれているなぁなんて思ってたけど、これってお高いものなのかな」
「見たら分かるよ……」
「あっ……あぁぁぁぁ!」
これは……!? 一部女子たちの間で流行っているらしい、行列が途切れることの無い有名な店の奴。そしてよく目を凝らしてみないと分からない所に、大層すぎるお値段がそこに!
「ああっ!?」
俺の小遣いでは気軽には買えないお値段でございました。そしてその包装紙は、次回の販売は数か月後ですとまでご丁寧に注意書きが! これはもしかしなくても、そういうこと?
「ご、ごごご……ごめんなさぁぁぁい!! ま、まさかそんな、そんなレアな菓子パンだったとは思わなくて、だって沢山置いてたし、てっきり……」
「高久くんはわたしに何をしてくれる?」
「えっ? えと、その……学校で毎日のようにパンをご馳走致します。ど、どうでしょうか?」
「あ?」
「で、ではどうしましょう……」
「本店に行ってくれたら許してあげる」
「おぉ! それなら喜んで!」
本店? 何だろうか。
「じゃあ、念入りに手を……ううん、全身を清潔に保ち続けること!」
「へ? 清潔に? よく分からないけどそうします! ゆかりなさんに報いるために俺はやりますよ!」
そして俺はそのレアなパンを作って売っている本店に来ている。ゆかりなさんが言っていたのは、パン工房でのバイトのことだった。休憩なしでバイト代は貰わなくていい代わりにそのパンを頂けるという、どこのブラックですか的なことをしている最中だ。
パンをよく知り、パンに敬意を払い……この日から、パンに一生付き合っていく覚悟を決めた。そんな苦行を終えた俺に、彼女は満面の笑顔を浮かべて言い放った。
「よく頑張ったね。そんな高久くんには、とっておきのご褒美をあげるね。一緒にプールに行こっか!」
「ほ、ホントでございますか? こ、これで体中の酵母菌……もとい、イーストが綺麗さっぱりに流れて行くのでありますな? 流れるプールで全てを流させて頂きます」
「冗談でもそれは言わない方がいいと思うけど? 高久くんにはもっと知的な発言を望んでるんだけどな」
「はっ!? かしこまりましてございます! 知的生命体になります!」
今思えばあの時の妹さんは、猛獣のようだった。苦行から終えた俺の全身からは、パンの香りがいい感じに漂っていて、家の中が大変だった。家の中で出迎えてくれると思っていた彼女は、言葉を放つよりも俺の腕に向かい、思いきりかじってきた。
「ごめんね? 何だか知らないけれどムカついてたし、わたしが食べるはずのあのパンの香りが高久くんから嫌味ったらしく漂って来てたから、噛み付いちゃった。痛かったでしょ?」
「いえいえ、俺へのご褒美頂きました! ゆかりなさんの歯形をゲット出来ましたんで!」
「うわ、きも……」
「いや、冗談だからね? マジで引かないで下さい……」
そんなこともあったものの、とうとう俺は屋内プールに来てしまった。まさかゆかりなさんの水着姿をここで拝めるとは! 期待を満ち溢れさせながら、俺は彼女が更衣室方面から出てくるのを待望していた。
「ゆかりなさーん、俺はここにいますよ? もうすぐ二時間くらい経ちますよ? まだですか」
妙な高揚感と胸騒ぎを覚えていた。こんなに待ち続けているのに、一向に妹は姿を現わさない。まさか、更衣室で具合が悪くなって倒れてしまった!? それとも、焦らしプレイというご褒美でございますか?
「高久くん、お待たせ!」
てっきり更衣室方面の前方から来るとばかり確信していたのに、何故か俺は背後から声をかけられていた。もしや妹はどこかの忍びの者なのか? 気配も感じさせずに俺の背後に回るなんてすごいじゃないか!
「お、遅かったね、ゆかりなさん――ん? あれ? み、水着は? ご褒美は?」
「期待させちゃったみたいだね。ごめんね? わたし、プールに行こうか? って言っただけだよ。泳ごうとか一言も言ってないし。だから、そろそろ帰ろっか?」
「えっと、二時間ほどどこで何を」
「高久くんウォッチング。ずっと君を見てたよ。どう、嬉しい?」
くっ……凄く怒りたい。だが怒れん。俺一人だけはしゃいで、水着姿になってて泣きたい。あぁ、だから流れるプールに誘ってくれたんだね。ゆかりなさんの慈悲に感謝して、涙もイーストも流しまくらせて頂きました。
「もっと努力しないと見せられないかな。高久くん……頑張ってね」
流されまくる俺を嬉しそうに眺めているゆかりなさんは、すごく素敵な笑顔を浮かべていた。




