次男の帰還
午後からは書斎で歴史の勉強をするのだと言うシェヘラザードを屋敷の中まで送り届け、アリアドネは屋敷の裏手に回り、最低限小奇麗に整備された道を進んでいた。
公爵家一族や、その来客である貴族たちの目に触れるため、屋敷の表側はいつでも美しく整えられているが、使用人ばかりが使う裏側はそうでもない。身分の高い方々はこちら側にはけして回ってこないので、必要最低限の美しさがあれば問題ないのだ。
屋敷の影になる裏側は、炊事場や洗濯場など、家を潤沢に回す家事の中心の場になると共に、公爵家に雇われている使用人たちの生活の場でもあった。
自宅から通ってくる使用人も少数だがいるものの、住み込みで働く者が圧倒的に多い。人一人が寝るのがやっとのベッドに、小さな机と棚がひとつずつ。それだけでぎゅうぎゅうになるほど狭い部屋だが個室が与えられるため、自由な時間は確保されていた。
アリアドネは今、ウィンプソン公爵家の下女として働いていた。
いずれはシェヘラザードの側付きになると見込まれて奴隷市で買われたが、読み書きが出来ないどころかまともに話せもしないアリアドネは、まだまだ侍女教育を受ける段階にまで至っていなかった。
下女として働きながら教育を受け、メイドとなり身の回りの世話を任されるようになってからようやく、侍女として主の側に侍ることが出来るようになる。
そのため、他の奴隷や平民上がりの下女と共に毎日太陽が昇る時間に起床し、そのまま屋敷の下働きをする、という生活を送っている。
洗濯や掃除、皿洗いなど、家主の目に触れない場所での仕事が主なものだ。
買われてから数週間。
同じように過ごしているが、アリアドネと他の下女の間には相容れない溝のようなものがある。
アリアドネはまだ幼い。正確な年齢はわからないがせいぜい5歳がいいところで、他の下女達は、若くて十歳を少し過ぎたくらいだ。それに比べればまだまだ小さく、頼りなさすぎた。
言葉も話せないのでコミュニケーションが取れない。力は強いが、手足も短く仕事の邪魔になることもしばしば。
その癖、立場はお嬢様が所有する、側付き候補の無印奴隷ということもあり、長く屋敷に仕える下女よりも上にある。そして金の目を持つ半人だ。
反感や嫌悪感を持つ者も少なくない。
そんな孤立しがちのアリアドネに、唯一てらいなく話しかける子どもがひとり。
「おう、おかえり」
「う」
地べたにしゃがみこんだ赤毛の少年奴隷、ルーカスが戻ってきたアリアドネに向けて手を振った。その手元には水を張った大きな盥があり、洗濯板がある。盥の横にはこれまた大きな籠が置かれていて、地味な色合いの衣服が山となって積まれていた。
「使用人どもの服だとよ。やったなアリアドネ、今日も楽しいお洗濯だ」
山から何枚かひっつかんでアリアドネに差し出すと、露骨に嫌な顔で返された。
汚れ物を持つルーカスの手は真っ赤に染まっている。暖かな天気ではあるものの、井戸水をくみ上げただけの水は、まだ冬の寒さを残している。キンと冷えていて、痛い。
北の農村出身のルーカスもまた、侍従教育を受ける程の教養はない。そのため、アリアドネと同じように下男としての仕事しか与えられていなかった。
位の高い新人奴隷を持てあまし、やっかんだ結果、誰もが嫌がる仕事を押し付けられてしまっているのだ。誰が好き好んで、自分と同じ下男下女の服を凍えながら洗濯したいものか。気持ちはわかる。だが納得はいかない。
「たく、自分の服くらい自分で洗えっての。……ほら、こっちこい。そっちは日陰だからちょっと寒いぞ」
「あいあと」
ルーカスが尻を少し浮かせて作ってやったスペースに、小さな身体がちょこんと収まる。触れ合う体温と、柔らかな日差しが暖かい。
ちょうど風下の側にスペースを作ってくれたようで、ルーカスにぴたりと身体を寄せてしまえば、風も遮られるので快適だった。
今年で九つになったのだというルーカスとは、扱いに困る者同士、同じ仕事を任されることが多かった。
面倒見がいいのだろう。いつだってこうして些細な事に気を配ることを忘れない。故郷の村に弟妹が多くいるらしく、兄気質のルーカスは、まだ小さなアリアドネの面倒を進んで見てくれていた。
日に二回しか会えないシェヘラザードよりも、過ごす時間は長かった。手がおろそかにならない程度に話し相手になってくれるルーカスは、話し方のいい練習相手でもある。
「あっ馬鹿、おまえ寝るんじゃねーぞ。俺まで怒られるんだから」
重くなった瞼にすぐ気づかれ、触れ合った肩で強めにどつかれた。
不満に唇を尖らせる。
「ねない」
「嘘だね。お前おとといも寝てたもん」
「ねてない!」
「寝てました~」
「あぶっ」
濡れた手を顔の真ん前で払われて、汚れた雫が飛んでくる。
咄嗟に目は閉じたが、反論しようとしていて半開きになった口の中に飛び込んできて、アリアドネはルーカスに向かってぺっぺと吐き出した。
それにひとしきり笑いながら嫌がってから、ルーカスは仕事に戻る。サボれば怒られるのは間違いないからだ。
おしゃべりはここまでだとばかりに、ざぶざぶと洗濯を再開するルーカスに、アリアドネも覚悟を決めて盥の中に手を突っ込む。手から伝わる冷たさに背筋が震えた。寒さには強いのだが、全く感じないというわけではない。寒さでは死なないだけで、寒いものは寒い。
綺麗だった水が二枚、三枚やるうちに汚れて行く。
ひたすら洗濯し続ける作業に飽きたらしい。ルーカスがため息を吐いた。
「片やお嬢様の侍女見習い。片や日陰で洗濯係。同じ無印だってのになぁ」
同じくウィンプソン公爵家に買われた無印奴隷であるマルタはといえば、元貴族であることから、しっかりした教育を受けて育ってきたらしい。ルーカスやアリアドネとは違い、下働きなどはせず侍女教育を受けており、主であるセイレンナーデの末端の侍女見習いとして働いている。
この屋敷に来てから顔を合わせていないので、詳しくは知らない。全ては下女達の噂話で聞いた話である。
「おまえのことだって羨ましいよ。お嬢様に毎日呼びだされてるじゃないか、お茶だの寝物語だの。……おれはまだ、ここに来てから一度もリナ様にはお会いできてないのに」
建物と茂る木の枝に切り取られた青空を見上げて、ルーカスは小さくぼやいた。切れ長のアイスグレーの瞳が、切なげに細められている。それに映るのはきっと、青空などではなく。
「早く従者見習いの勉強をして、お会いしたいよ」
ルーカスにとって、セイレンナーデ・リナ・ウィンプソン――シェヘラザードと同じく、洗礼を受けていないためにまだ【セイレンナーデ】の名はない――は特別だった。それこそ、アリアドネにとってのシェヘラザードと同じくらいに。
ルーカスは北方の貧しい農村に生まれた。苦労してやわらかく耕した畑は次の日には分厚い雪の下に沈み、漸く芽吹いた芽は霜で凍りつくような厳しい寒さの中、その日食べる物にも困窮するほど貧しい家の長男として。
両親と、弟が3人、妹が5人。それから、病気を患い足を悪くした祖母がいる。
弟妹はまだ幼く、母は胎にもうひとり抱えて。働き手は父と自分だけ。毎日毎日、寒さに耐えながら働いて、腹をすかせて帰ればわずかな取り分さえも腹が減ったと泣く弟に分け与える。
両親にとってルーカスは息子ではなく働き手でしかなかった。だからこそ、ほとんど収穫のなかった今年の農作期が終わってすぐ、息子を奴隷商に売り払ったに違いない。珍しい鮮やかな赤毛と涼やかな顔立ちは、いったいどれほどの価値をつけられたのか。ルーカスは、自分の値段を知らない。
両親から売られたことはショックだったが、いつか売られるだろうとは想像していたので、幾分か冷静でいられた。多くの奴隷の中から、比較的待遇のいい無印奴隷として仕分けられたことや、すぐ近くでずっとぐずぐず泣いている少女がいたことも、返って心を落ち着かせた。
しかしやはり不安は大きく、深く、黒々とルーカスを飲み込もうと口を開けていた。
そんな時現れて自分を選んだセイレンナーデは、ルーカスにとって天使か天女、もしくはもっとそれ以上の存在として、あっという間にその暗がりから引きずり出したのだ。
あなたにするわ、そう言って真っ先に自分を選んでくれた。啜り泣く美しい元貴族の少女よりも、珍しい半人の仔よりも先に、自分を。
親にすら選ばれなかったルーカスにとって、セイレンナーデは唯一自分を選んでくれた人だった。
「この御恩は必ず返さなきゃな。おまえも、そう思うだろ?」
ルーカスは自分に向けられた笑顔を思い浮かべてにこりと笑うと、隣でぶすくれた顔のまま洗濯を続けるアリアドネに同意を求める様に水を向けた。
それに何か応えようと唇を開くが、声を出すのにやっと慣れてきた喉は、うまく言葉を紡げない。もどかしげに眉を寄せて、諦めたように小さく息を吐いた。
「……らなさま、は、おやさしい」
「リナ様だってお優しい方だよ。あの時、お前の折檻を止めてくれたのだってお嬢様だろ。……おい首振るなよ、不敬だっつって首切られンぞ」
アリアドネは知っている。
あの女――セイレンナーデが見せる優しさはまやかしだ。
耳触りのいい言葉。美しい立ち居振る舞い。たおやかで優しげで、真っ直ぐに芯の通った――悪女。それも、シェヘラザードを生贄に、男を財を国を手に入れた稀代の悪女だ。
それがアリアドネのよく知るセイレンナーデだ。
一度目の時は何とも思わなかったが、二度目を経験してみると、その矛盾がよくわかる。
あの時――奴隷商から折檻を受けていた時だ――止めに入ったのは、確かにセイレンナーデだ。しかしアリアドネには一言声をかけただけで、すぐに興味は両隣の美しい奴隷に移った。
そして初めにルーカスに声をかけておきながら、買われてからは何のアクションもしない。
釣った魚に餌をやらない。けれど一度釣られた魚は、その餌の味が忘れられないのだ。
アリアドネもそのすぐ後にシェヘラザードに出逢わなければ、セイレンナーデを妄信的に慕っていたかもしれない。現に、何も知らない一度目は、セイレンナーデのこともお嬢様お嬢様と慕っていた。
今でこそ女神の仮面をつけた毒婦だと知っているから何とも思わないが。
ルーカスは釣られた時に与えられた餌の味を忘れられない。暗く澱んだ水から上がった時に見た金色の女神の姿も。その胎の内に宿るのが、竜をも殺す猛毒だとも知らずに。
このままいけば、いつかルーカスとも敵対する時が来る。
刃を交え、血を流し、命を削る時が来る。―― 一度目のように。
(前は、わたしがこの手で殺してしまった。けれど、今回は)
自分を妹のように可愛がってくれる、兄のような少年も。
(まもる。必ず)
その為には、まずやらなければならないことがある。
「そろそろ水換えるか」
「あい」
仕事である。