閑話 アリアドネ、満喫する
「あ、り、あ、ど、ね。貴女の名前よ。言ってごらんなさい」
「あ、い、…あ、とぉ、…えっ」
「まあ凄いわアリアドネ! こんなに早く話せるようになるなんて、貴女はとっても賢いのね」
「えへへへへへぇぇ」
生まれてこのかた、ほとんど声を上げた事のないアリアドネの声帯は、ラナの懸命な指導の元、徐々にその役割を思い出して来たらしい。
まだまだすらすらと話せるようになるには時間がかかりそうだが、こうして自分の名前だと分かるくらいには発音できるようになっている。
自分のことのように喜んで微笑むラナに、アリアドネもまた、満面の笑みを返した。
すごいすごいと褒めちぎる最愛の主に、アリアドネは自分の顔の造詣がでれでれと崩れていることを自覚している。でもそれも仕方のないことなのだ。
シェヘラザード・ラナ・ウィンプソン――まだ洗礼を受けていないので【シェヘラザード】の名はないが、アリアドネにとって呼びなれているのは【シェヘラザード】の方なので、ここでは【シェヘラザード】と呼ぶ――、五歳。一度目の人生で見慣れた姿よりも、十五ほど幼い姿である。
二十の年のシェヘラザードも、十五の年のシェヘラザードも、十の年のシェヘラザードも。いつだってその時その時の最高の愛らしさ可愛らしさ美しさでもってアリアドネをめろめろにしていたが、二度目の人生の今、アリアドネは新しい境地に立っていた。
そう、二度目である。大事なことなので何度でも言うが、二度目なのである。
前回の記憶を取り戻したアリアドネは、身体はシェヘラザードと同じ年頃の幼児だが、中身は違う。すでに成人の儀も済ませた大人なのだ。
精神年齢二十のアリアドネが、正真正銘五歳のシェヘラザードと相対するのは、二度目の人生にして初のことだ。
銀髪の美少女が、すました顔で自分よりも小さく幼い相手に言葉を教えては、歓びに頬を染めてはしゃぐのだ。
サファイアの瞳を優しく細めて、いいこいいこをしてくれるのだ。
お姉さんぶって、自分より小さな手を握り、屋敷の中庭を連れて案内してくれるのだ。
楽園はここにあった。アリアドネは確信する。
(あーーーーたまらん。あーーーーしあわせ。あーーーーーかわいい。あーーーーーーーもーーーーーーーーーすきーーーー!)
脳内お花畑が満開である。
ちょうど、季節は冬を越えて徐々に春の暖かさがやってきた頃である。
太陽が顔を出し、日差しが柔らかに降り注ぐ今の時間帯はあたたかく、散策にもってこいだった。
専属の庭師によって丁寧に剪定された木々は青々と、芽吹き始めた様々な色の花は鮮やかに、そして、嬉しそうに微笑む幼い我が主はこの世の何よりも美しく、アリアドネの目を楽しませる。
シェヘラザードは日々、自分の勉強の合間を縫っては、こうしてアリアドネに言葉を教えようと時間を共にしていた。
幼いといえど公爵家の長女である。勉強、ダンス、礼儀作法などなど、全てにおいて厳しく教育されていた。ゆくゆくはしかるべき相手に嫁ぐため、公爵家令嬢の名に恥じない淑女にならなければならない。
そのことをきちんと分かっているシェヘラザードは、大変なカリキュラムに一つも文句を言わなかった。ダンスで靴ずれが出来て血が滲んでも、作法の習得で手を叩かれても、それが必要な事だと理解している。
厳しい中に与えられた、わずかな休憩時間であるティータイムに、こうしてアリアドネと過ごしてくれているのだから、喜びもひとしおだった。
一度目の時は分からなかった。なんでもっと構ってくれないんだと、ぶすくれては宥められた。
(馬鹿だったなぁ)
ティータイムに庭園を散歩し、寝る前に絵本を読む。
それは毎日変わることなく、どうしても時間が短くなってしまう時もあるけれど、少なくとも一日のうち一回は会う機会を作ってくれている。
わたしもアリアドネに会いたいのよ、と照れ笑うシェヘラザードの、なんと可愛らしかったことだろう。
シェヘラザードは、アリアドネを奴隷だからといって馬鹿にしない。雑にしない。手を上げることも、無理な話を振ってくることもない。いつだって穏やかな愛を注いでくれる。
アリアドネも、そんなシェヘラザードのことを優しい最高の主だと認識し、出来うる限りの愛と敬意を捧げていた。
しかしそれは、二度目を迎えた今だから気づく。
(まるでペットだ)
懐くから可愛がる。芸をマスターしたから褒める。飼い主になったから、育てて面倒を見る。
それはまさしく、愛玩動物と変わらぬ扱いだ。
もちろん、シェヘラザードがそういうつもりではない事は分かっている。優しい人だ。慈しみ、愛でる。これが我が主の愛し方なのだろう。
けれど、失うことを知ってしまったアリアドネは、可愛いペットではいられない。
アリアドネは竜だ。
嵐を呼び雷を轟かせる。
牙を、爪を、研ぎ澄ませ、主に反する全てのものを一息で飲み込み、一足の元に踏みにじる。
「見て、アリアドネ。早咲きの薔薇よ。きれいねぇ」
そう歌うように言って微笑む薔薇の乙女を、守護する竜にならなければならない。
その結果、シェヘラザードに嫌われることになったとしても構わない。
生きていれば。笑ってくれさえすれば。恨まれたって、構わない。
「あぃ、…き、えいれす、ねぇ。らな、さま」
たどたどしくも主の名を呼んでみると、シェヘラザードは興奮したようにアリアドネを抱きしめた。
「わたしの名前! すごいわ、完璧だったわ! もう一度、もう一度呼んでアリアドネ!」
「らなさ、ま! らいすきれすぅ!」
「もう一度!」
癖の強い短い黒髪をわしゃわしゃわしゃわしゃと撫でくり回される。
ここに来たばかりの頃よりも肉のついた頬をむにむにむにむにと揉み込まれる。
(ああああああああああしあわせ)
――訂正。
アリアドネはシェヘラザード様専用のペット竜になります。
飼い主以外に噛み付くことにしよう。