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復讐のアリアドネ  作者: 岡出 千
幼少期:5歳
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悪夢と決意



 半人の奴隷の仔は全てを思い出した。

 幸せの香りがする微温湯に浸かっていた、あの頃を。

 自らの犯した、償うことのできない大罪を。

 全て。


 


 奴隷の名はアリアドネ。

 ウィンプソン公爵家の長女である、ラナ・ウィンプソンの専属奴隷だ。

 奴隷市で競りにかけられるところを、ラナに選ばれ拾われ、公爵家の大邸宅へと連れて来られてから早くも1週間が経過している。


 買われて帰ってすぐ、無印奴隷の三人が連れて行かれたのは使用人用の風呂――の、裏手の水道である。

 けして清潔とはいえない場所で何日も過ごしてきた子どもたちは、最低限見れる姿はしているが、掃除の行き届いた屋敷の中にそのまま入れるレベルではなかったのだ。

 身に纏っていた襤褸布は一瞬の隙に取り払われ、下女の手によって芋を洗うようにごしごしと擦られた。ざばざばと容赦なく水をぶっかけられ、贅沢品である石鹸も使ってきれいに洗われる。

 塞がりかけた鞭打ちの痕に沁みて少しだけ痛んだが、そんなことは些末事である。いっしょくたに洗われている少年と少女は皮膚の削られる痛みに悲鳴を上げていたが、アリアドネはそれどころではない。


『アリアドネ』

 名前のなかった奴隷の仔に、ラナがつけた名だ。読書が好きなラナが、中でも一等好きなお伽噺の登場人物から、その名前がとられた。

 ちなみに、一緒に買われた奴隷は、少年がルーカス、少女がマルタと名付けられた。

 おそらく、元々持っていた名は違うだろう。しかし、身分を捨て、奴隷に落ちた瞬間にその名を持つ子どもは死んだのだ。もうそれを名乗ることはない。

 皮膚が真っ赤になるほど強くこすられ垢をこそげとり終えると、新しくはないが清潔な衣服を渡されて。3人揃って屋敷の中を連れて歩かれ説明され紹介され。

 とにかく忙しい数日間だった。

 

 その数日間、非常に大変だった。何がって、アリアドネの頭の中がである。

 ラナが近くにいる時はまだいい。顔を真っ赤に染め上げて挙動不審な動きを繰り返す様は、周りから見ると、『いきなり雲の上の存在たる大貴族のお嬢様に買われたことを今だに信じられずにあたふたする幼子』だったからだ。

 問題はラナが近くにいない時である。


 何かを考えるように一点を見つめてじい、と動かなかったり。ある一部の侍従や侍女に対して、異常なまでの敵意を見せたり。屋敷の中のものを見ては笑ったり怒ったり泣いたり、機嫌がころころ変わったりと。

 声が出せないことや、珍しい半人であることもあり、アリアドネの扱いに誰もが手をこまねいていた。

 扱いにくい、不気味な子どもだと。ちなみに白痴も疑われている。


 けして気が狂ったわけではない。

 いや、一度はアリアドネ自身も自身の正気を疑った。なぜなら。


 アリアドネには、前世の記憶があった。


 否、正確に言うと、前世ではないのだろう。記憶にあるのは確かにアリアドネ自身のことだ。

 奴隷として売られていたところを、ウィンプソン公爵家に買われ、その令嬢を主として慕い、敬い、愛し――そして殺した。アリアドネとしての、一回目の記憶がある。

 一回目も、同じように拾われ、アリアドネと名付けられた。同時に買われた奴隷、ルーカスとマルタも一緒だった。


 シェヘラザード・ラナ・ウィンプソン。

 アリアドネの生涯の主となった少女の名だ。

 まだ神殿での洗礼を受けていない為に【シェヘラザード】の真名はまだないが、アリアドネが主の顔と名を間違えるはずもなく。

 この幼い銀色の少女は、確かにアリアドネの主である。


 アリアドネは優しいシェヘラザードが大好きだった。

 話せなかったアリアドネに根気よく言葉を教え、文字を教えてくれた。傷を作りながら武術を磨き、必ず守ると誓ったアリアドネの髪を嬉しそうに撫でて褒めてくれた。奴隷身分であるに関わらず、ただの友達のように何気ない日常や恋の話などをしてくれた。能力解放によって変化する金の虹彩をきれいだと褒めてくれた。

 大好きだった。大切だった。

 シェヘラザードは、アリアドネの全てだった。世界そのものだったのだ。


 しかし、その世界はもろくも崩れ去る。

 全ての元凶は―――。


(セイレンナーデ……!)


 シェヘラザードの双子の妹である、この女にあった。


 セイレンナーデ・リナ・ウィンプソン。ウィンプソン公爵家の次女にして、シェヘラザードの双子の妹。

 双子なだけあって、シェヘラザードとよく似た美貌の持ち主だが、その性根は腐り切っている。


 数時間早く生まれただけで長女として優遇されがちなシェヘラザードを嫉み、あの優しい主を地の泉へと追いやった元凶。

 王太子である婚約者を奪い、悪評を流し、シェヘラザードを公爵家から追い出した。それどころか、元となった婚約者の叔父の後妻――慰み者として嫁がせた挙句、王家への反逆を企て唆した稀代の悪女として誹り、世論を煽った。

 婚約者を奪われ、友人に見放され、親からも棄てられ、自分の父親よりも年上の醜い糞爺に身体を心を蹂躙され、ぼろぼろに傷ついた。

 その最後に辿りついたのが、あの雨の日の広場だった。


 忘れもしない。

 記憶を取り戻した今、昨日のことのように鮮明に思い出す。


 その日は、国中を騒がせた悪女・シェヘラザードの処刑の前日だった。

 王城前の広場に設置された断頭台は、たった一人のたおやかな彼女を殺す為に作られたとは到底信じられないほどに立派で。

 悪女の最後を見ようと集まるだろう民衆は数百、もしかしたらもっといるかもしれない。最大で千人を収容できるその広場にそびえ立つそれは、アリアドネにとっては絶望そのものの姿をして、彼女を飲み込もうとしていた。

 広場で処刑される罪人は、城内の北に建てられた塔にある牢の中で1週間を過ごす決まりである。

 その1週間で己の過ちを悔い、地の泉でそれを償い、次に生を得る時には清い魂でこの地に戻ってこれるよう、竜神に願いを捧げながら過ごすという。


 セイレンナーデからシェヘラザードの囚われている牢の場所を聞いたアリアドネは、その身一つで広場――王城へとやってきた。

 アリアドネは、さんざん主の無実を叫んできた。しかしそれらは全て無視されて、とうとうここまで来てしまった。

 言葉で駄目なら、力づくで。

 アリアドネの行為は、まさしく反逆である。王が罪人と認めた女を取り戻しに来た罪人である。明日の断頭台には、自分の首も並ぶかもしれない。それならそれで構わない。

 シェヘラザードのいない世界に、アリアドネは用はないのだから。

 王城への道を塞ぐように、ずらりと並んだ王国兵に剣を向けられる。たかが人間に負ける気はしない。


 金色に光る両目をぎらつかせて、アリアドネは吠えた。


 幸い、アリアドネは優秀な奴隷だった。

 身体の捌き方、剣の扱い方、戦う術を叩き込まれた。半人の身体能力はかすり傷さえ受けることなく、十人、二十人と屠っていく。

 剣を握る手が返り血で滑れば、素手で喉を握りつぶした。遠方から飛んでくる魔術には、その数倍の魔力で返した。持っている剣が血脂で切れ味が落ちては、殺した兵士の武器を奪ってを繰り返す。

 軍隊でかかっているのに、たった一人が殺せない。それどころか、むしろ全滅すら過ぎる戦いぶりは、王国兵の足を鈍らせた。

 距離をとられる。

 正面突破をしようにも肉の壁は分厚く、広場は高い壁に囲われている上、ところどころに開いた穴からは無数の矢じりが覗いている。


 アリアドネは焦っていた。

 早くシェヘラザード様を迎えに行かなくては。早く、早く、早く――…。


 だから気づかなかった。


 膠着状態を崩した十数人の王国兵が、恐怖を振り切る為に大声を上げながらアリアドネに向かってくる。

 邪魔だと、その一心で、全ての兵士を一刀に伏した。 

 よたよたよろよろと寄ってくる弱腰の兵士の腹に、持っている剣を突き立てて――。

 ふわりと香る、優しい香りに気がついたのだ。


 全身から力が抜ける。ぶるぶると震える手で兵士の顔を隠すバイザーを上げた。

 月の光のように美しかった姿はどこへ消えたか、肌や髪の艶は失われ、優しいサファイアは暗く澱み。

 最期の力を振り絞って唇を二音三音震わせると、疲れたように微笑んで、こと切れた。

 

 主の姿を見止めて絶叫し崩れ落ちたアリアドネに向かい、一斉に矢が打ち込まれる。

 戦う意思が刹那の間に削がれ、無防備になったアリアドネの身体に突き刺さる無数の矢。毒が塗ってあるものもあった。痛み、熱さ。それよりも、腕の中で永遠の眠りについてしまったアリアドネのお姫様を、これ以上傷つけるような真似はしたくなくて、全ての矢を身体で受けた。

 これを好機としてなだれ込んでくる軍隊を、命の灯火を震わせて薙ぎ払った。右腕が持って行かれ、左目が潰された。


(あの場にシェヘラザード様が兵士の姿で連れてこられたのも、あの糞女の入れ知恵だろう。あれは欲深いだけの女じゃない。あのままわたしも殺してしまいたかったに違いない)


 主を追い詰めて破滅させ、挙句殺した女を、アリアドネは生かしておけない。

 どこにいようとどれだけかかろうと、命ある限り殺す為に動いただろう。その禍根を残さぬために、シェヘラザードを囮にしてアリアドネの足を止め、その隙に一斉に殺してしまいたかったに違いない。

 しかしたった一つだけ誤算があった。


 それは、アリアドネが竜の血の混ざりモノだということだ。

 あの時、アリアドネは雷雲を呼び、嵐をおこした。人知を超えたその力はきっと、アリアドネの外見にすら影響を起こしていたに違いない。どういう変化があったのか、アリアドネは自身を見ることが叶わぬままだったので分からない。しかし、たしかにセイレンナーデは言ったのだ。

 アリアドネに対して、『竜人』と。


 竜の持つ金の宝玉には力がある。願いを叶える力だ。

 かつてこの国が興った遥か昔の神話の時代、雨を願い、食糧を願い、竜の宝珠によって叶えられた。

 竜をこの身に宿すアリアドネがもつ金色は、両の目。だからこそあの時セイレンナーデはアリアドネの目に手を伸ばし――抉り取ろうとしたのだろう。全く、どこまでも強欲な女だ。


 アリアドネは願った。

 シェヘラザードのいない世界など滅んでしまえ、皆死んでしまえばいいと。

 そして、もう一度――もう一度だけでいい。シェヘラザードの笑顔が見たいと。


(竜の宝玉の力か?)


 アリアドネは自身の瞳の色を思い出す。

 一回目の時は両目とも黒だった。能力解放の時だけ金色に染まっていた。それが二回目となる今、奪われまいと指を突き立てた右目の色だけが違っている。潰れた左目の色はそのままに、黒々としていた。

 あの時に、アリアドネの願いが叶えられたのだろうか。だから、願いを叶えている最中である今、この瞬間、常時能力解放状態になっているということなのか。


(なぜもう一度、出逢いの時からやり直しているのかは、わからない)


 けれど主を傷付けた者に復讐を誓った。

 憎い女を呪いながら、アリアドネはきっとあの時死んだのだ。

 

(馬鹿な奴隷のアリアドネは死んだ)


 勉強をしよう。

 一回目のアリアドネは勉強が嫌いだった。

 シェヘラザードが教えてくれていたうちはいいが、少し高度になってくると他の二名の奴隷と共に専属の教師がついた。その教師が嫌いで嫌いでしょうがなくて、アリアドネは机に向かうことが苦痛だった。

 一回目のアリアドネは馬鹿だった。

 誰が味方で誰が敵か、シェヘラザードの剣として盾として、もっと気を配るべきだった。一番の敵は身内にいるのだ。もう馬鹿ではいられない。

 一回目のアリアドネは無知だった。

 無知でいることは一番の罪だ。主の苦しみも喜びも、主以外のことも、全てを知らねばならない。


 身体を鍛えるだけが守ることだと思っていた。

 けれど、それだけではもうだめだった。それだけでは守れなかった。ならば。


(もっと違うことで。もっと力をつけなくては。もう失うのは嫌だ。守りたい。シェヘラザード様)


 世界の全てを失って、もう一度得たチャンスだ。

 主の幸せの為に、アリアドネは変わる決意をした。


(そして、必ずや同じ痛みを。同じ苦しみを。それ以上の地獄を)


 あの方を傷付け裏切った全ての愚か者どもに、必ずや。



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