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あなたには分からない。
ちくちくちくちく、棘が刺さるような痛みも。
べたべたべたべた、裸足で床を踏みしめる不快感も。
じろじろじろじろ、全身を値踏みされる恐怖も。
きらきらきらきら、力強く輝く青い瞳に映り込む己の醜さも。
何もかも。
貴方には、一生分からない。
アナスタシアは風の当たる頬の冷たさを感じて、漸く自分が泣いていることに気が付いた。
後ろに飛んで距離を取り、力任せに袖で拭う。目尻がひりついて、僅かな痛みを訴える。それが不快で、アナスタシアはもう一度強く目元を擦った。
息を吸う。吐く。吸う。
――止めて跳躍。一気に距離を詰めた。ぶつかり合う刃が火花を散らす。
「分からない、って、どういうこと、だっ!」
「どうも、こうもっ!」
息の出来ないような攻防に、二人の呼吸が荒くなる。そんな中でも、叫ぶように会話がなされていた。
小手先の技を挟む余裕もなく、真正面から斬り結ぶ。
「貴方は昔から、我が儘で、自分勝手で、自己中心的で、独り善がりで、甘ったれで、わからず屋で! 私がどう思うかなんて、まるで考えもしない!」
「ちょっ、おま、そこまで言うか!?」
「そういうところが本当に嫌い!!」
「き、きらい……!?」
ヒュンケルはショックを受けたようによろめいた。すかさず顔面に向けて放った刺突は、仰け反りと共にかわされる。
ヒュンケルはそのまま後転し――その流れで顎を狙って蹴り上げたが、それも余裕をもってかわされた――着地と同時の足払いも、軽く飛んで避けられる。
アナスタシアの鋭い刺突も、ヒュンケルの自由自在な曲短剣も、掠ることなく。
子供の頃から今に至るまで、何度も繰り返し組手をしてきた二人にとって、相手が次にどう動くかなど簡単に予測できた。
けれど今、相手がどう感じどう思うのか。それを察することは難しい。
己を偽り、見ないフリをしていた数年間に出来た溝は深い。
(でも……っ!)
その溝を埋めたい。
アナスタシアは、そう思う。
「洗礼式の時!」
アナスタシアは叫んだ。ヒュンケルがぎょっとしたように目を剥く。
「いきなりプロポーズしてきた。こっちの気持ちなんてお構いなしで、口づけまでして」
「おい、あれは――」
「そのまま婚約がまとまったからよかったものの、下手すれば私はどこにも嫁げなくなるところだったのよ」
ぐ、とヒュンケルは言葉を呑み込んだ。その通りだからだ。
ヒュンケルは公爵家の男であるので、多少の醜聞などどうにでもなる。しかし伯爵家の娘であったアナスタシアにとっては、子供同士のおふざけであったとしても洒落にならないこともあるのだ。
ウィンプソン公爵家とメリウス伯爵家の間には元々交流があり、婚姻によって関係を深める必要性もない。
二人の婚約が認められたのは、二人の意志と、ヒュンケルが次男であったことが大きかった。公爵家をより強く大きくしなければならない長男であれば、伯爵家の娘を希望の相手に望むことなど不可能だったろう。
「私が騎士になると決めた、学院入学前。貴方は大反対だった。両親よりも反対していた。止めなければ今すぐ孕ませると脅しまでして」
騎士は男社会だ。女が騎士として生きていくには辛く苦しい世界。アナスタシアは今なおそれを実感しながら生きているが、それでもいいと覚悟して進路を決めた。婚約者は誰よりも反対していた。貴族の女として、甘く優しく愛され守られながら生きていけと。
子種さえ植えつければその道は閉ざされると暗く笑った婚約者に、であればと婚約解消を申し込んだこともある。
アナスタシアは守りたかった。
鱗の公爵家の次男として、期待や憧憬や嫉妬といった、あらゆる感情の矛を向けられる婚約者を。
家の中で守られるばかりではない。美しく着飾り微笑むだけではない。戦場に行くなら共に並んで守りたい。隣で鎧をまとって剣を掲げて戦いたい。
アナスタシアは優れた魔力と、豊富な知識を持っている。柔らかな女の体を持っている。
時に後ろで背を守り、時に腕の中で男を癒す、そういう女になりたかった。
防戦一方だったヒュンケルが、手の中の短剣をくるりと回した。逆手に持ち直す。
深く沈み込み、一足で距離を詰めた。風の術式を付与した短剣は触れたもの全てを両断する威力を誇る。アナスタシアは咄嗟に展開した防壁で防いだ。水飛沫が飛び散る。
ぐ、と顔を寄せられた。
凪いだ眼だ。夜の海のような仄暗い青の中で、溺れたようなアナスタシアが映り込んでいる。
「ああ、俺もそれに関しては後悔している。――なぜ力づくでもそうしなかったのだろうとね」
ギイン! 金属のぶつかり合う甲高い音が会場中に響いた。
能力開放によって身体能力が上がっているアナスタシアだが、速さでは勝るものの、純粋な腕力ではヒュンケルには敵わない。弾き飛ばされてびりびりと痺れる腕を休めるために距離をとった。
「あの時無理やりにでもお前を抱いて――結婚し、子供を作っていたら。こんなことにはならなかったはずなんだ」
風の刃が飛んでくる。右へ左へ、踊るように会場中を走って避けた。
「お前こそ分からないだろう。お前が騎士になると言った時、半人奴隷として売りに出されたと聞いた時。俺が――」
どんな思いだったのか。噛み締めるように呟いた。
「危ないことなんてしなくていい。ずっと傍にいてくれさえすればいい。誰のものにもならずに、俺の傍で笑ってさえいてくれたら、それでよかったのに」
幼い頃から隣にいた。
いじめられてはすぐに泣く、弱虫で泣き虫の甘えん坊の次男坊を、真っ先に見つけて涙を拭ってくれた少女だった。
優しくて明るくて、笑顔が可愛くて、勉強も武術もなんでもできる。誰より格好いい少女だった。
彼女に相応しい男になりたくて努力した。勉強も、剣術も体術も頑張った。努力が嫌いな子供がそれを貫き通せたのは、偏に婚約者の存在があるからだった。
結婚しよう。
その約束が、ヒュンケルにとっての全てだった。そのためだけに努力に努力を重ねてきた。
「お前は逃げた――俺から」
「……逃げてない」
「逃げたよ」
アナスタシアが参加した軍事演習での事件を人づてに聞いた時は何の冗談かと思った。
セグル砦が夜襲によりほぼ壊滅、死傷者多数、詳細不明。安否の確認が取れたのはそれから5日も経った後のことで、さらには半人として覚醒して奴隷商人に売られ、婚約も解消されたという。
どこの奴隷商に売られたのかを急ぎで調べ上げ、ぎりぎりのところで競りに間に合い大金を積んで。これで漸く約束が果たせると思えば、「よろしくお願いいたします、ご主人様」ときたもんだ。
気が狂うかと思った。
幼馴染みから婚約者へ、婚約者から主従へ。
二人の関係を表す言葉が変わっても、自分たちの思いは変わらないと思っていた。しかし学院を卒業して家に戻ったヒュンケルを待っていた現実は、契約竜を得て、再び自分の元から去っていくアナスタシアの後ろ姿だった。
ヒュンケルを顧みることなく、我が道を進む彼女の――竜騎士の身分を得て、アナスタシア・ロンとして生きていくことを決めたのだろう彼女の姿に絶望した。
アナスタシアが腕の中から消えてから、一歩も進むことの出来ない己との違いに絶望した。
結婚しよう―――大人になったらね。
結婚しよう―――卒業したらね。
結婚しよう―――……。
欲しい返事は、どれ程待っても返ってこない。
待って待って待ち続けて、その結果、他の男に掻っ攫われてしまうくらいなら。
どれほど嫌われ拒まれようと、無理やり手に入れると心に決めた。
「だからもう、逃がさない」
ヒュンケルの周囲に風が渦巻いた。轟々と音を立てて吹き荒れる。
多属性に才のあるヒュンケルだが、やはり得意なのは風の属性である。契約竜であるルディに引っ張られたのかもしれない。2頭の竜は主同士の争いだと判断したのか、会場の空に陣取って悠々と羽ばたいていた。
会場内にいるのはヒュンケルとアナスタシア、そして強固な防護壁に守られた審判の3人のみ。観客席にも防護の術式が施されている。遠慮はしない。怪我をさせても構うまい。死にさえしなければどうとでもなる。
渦巻く風に炎がちらつく。大量の酸素を巻き込んだ炎は徐々に強さを増していき、風を纏い渦巻きながら燃え盛る。
「他の男の嫁にはやらない。騎士でいるのももう許さない。いい加減、逃げずに約束を果たしてくれないか」
「…………そうですね。私はもう、逃げるのを止めると決めましたから」
炎に包まれたヒュンケルをしっかりと見据えながら、アナスタシアもまた、周囲に風を発生させた。
極限まで温度を下げたその風に、水の属性を乗せていく。凍り付いていくそれは、ビキビキと硬質の音を立てながら周囲を極寒の世界へと変えていった。
「俺と結婚しよう、アナスタシア」
「――私に勝ったら、お受けしましょう!!」
炎と氷。
対極にある2つの力がぶつかり合い、そして。
この日一番の歓声が、王都を包んだ。




