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復讐のアリアドネ  作者: 岡出 千
幼少期:8歳
55/57



 1、2、3……6体。


 前後左右、上下に一体ずついるウィズは、それぞれ攻撃の構えに入っている。ヒュンケルはルディの腹を蹴りつけ、大きく羽ばたいて上昇する。その勢いのまま上空の一体に炎をぶつけると、水飛沫として四散した。残り5体。

 取り囲む5体から勢いよく水球が放たれる。絶え間なく吐き出されるそれを巧みにかわしながら、風の刃で一体を粉砕した。4体。


「ちょこまかと! 往生際が悪いですよ副長!」

「ぬかせ!」


 4体のウィズの背に乗る4人のアナスタシアが声をそろえて叫んだ。口うるさいお小言で慣れているが、それが4倍ともなると姦しいものがある。

 さらに一体を尾で叩き下ろすと、水で出来た実体のある幻が目の前で弾けた。土砂降りの雨のように視界を塞ぐ。風切羽根が水に濡れてぐっしょりと重くなり、高度が下がった。火を起こしてルディについた水分を蒸発させようとするも、アナスタシアがそれを許さない。

 風の刃に炎を纏わせたものに一体が包まれて燃え落ちる。2体。 


「貴方は昔からそうです! 嫌なことがあるとちょろちょろちょろちょろ逃げ回って!」

「おいいつのこと言ってんだ!」

「今だってそうでしょう! 貴方がため込んだ書類の処理を、一体誰がやっていると思うのです!」

「ちょっ、おい、それは今関係ないだろう!」

「あります!」


 風の刃が胴体を切り裂いた。残り1体。


「私が竜騎士でなくなれば、誰が貴方を支えるのです!!」


 アナスタシアの叫びに、ヒュンケルは目を見開いた。

 一瞬だけ、全ての情報が遮断される感覚。手元が狂ったのは仕方のないことだったのかもしれない。


「―――――は、」


 御前試合は真剣勝負とはいえ、命の危機に陥るようなことなどない。

 高貴なる身分の貴族や、穢れとは遠い場所にいなければならない王族が見るのだ。死に至るような傷や、それに準ずる傷などは、負わせた方も罰せられることがある。本人たちの降参は勿論、審判によるもしもの場合の勝敗のジャッジは推奨されている。

 しかし今回は、ジャッジする間もなく。


 ウィズの首が飛んだ――アナスタシアの胴体も巻き込んで。

 水鏡で生み出した実体のある幻を、全て消し去った後の残った一体だ。本物だ。それが示す事実は、ただ一つ。


 会場でその様を見つめる全ての者が息を呑んだ。

 何が起こったか分からない。理解が追いつかない。異常な光景に悲鳴すら上げられない。よほどの切れ味だったのか、血の一滴すら飛んでいないこともこの非現実な光景に拍車をかけているのだろう。

 アナスタシアもまた、ぽかんとした表情で、手綱を握ったまま落ちていく。ヒュンケルと目を合わせたまま。 


「アナスタシア!!!!」


 ヒュンケルは叫んだ。驚きの呪縛から解き放たれた会場から、つんざくような悲鳴が上がる。

 ルディの手綱を操って地面に向けて急降下する。この高さだ、受け身も取らずに落ちたらどうなるのか。想像は容易い。そもそも、受け身をとれたところであの体では――…。


 ただ落ちていくだけのアナスタシアに、ヒュンケルは必死に手を伸ばした。

 呆然とする表情を崩さないアナスタシア。痛くはないか。それとも、もう痛みなど感じない体になってしまったのか。心ばかりが急く。

 次の瞬間だった。

 アナスタシアの唇がにんまりと笑みを象った。そのままどろりと水に溶けるように、地面に落下すると同時に吸い込まれて消えていく。


「っ!」


 ヒュンケルはルディを急停止させ、上空を見上げた。

 宙に残ったままのウィズの胴体と、彼女の半身がぐらりと傾ぎ、水菓子のようにふるりと揺れて――弾けた。水飛沫の中から姿を現したのはウィズだった。アナスタシアの姿はない。

 

「どこに――…っ」

「隙ありです」


 すぐ後ろから声がした。

 驚いて振り向く寸前に襟首を掴まれて地面に叩きつけられる。すぐさま馬乗りになったのは能力開放したアナスタシアだった。瞳の色は黄みの強い緑へ変化し、肌には薄紅の花の文様が浮かび上がる。

 人よりよほど獣に近い血を持つ半人であるアナスタシアは、ヒュンケルよりも気配に敏感だ。消すこともうまく、本気で気配を遮断されたら見つけることは難しい。それを利用された。


「……っかくれんぼが得意だな?」

「おかげさまで」


 気道を圧迫されながら、ヒュンケルは冗談交じりにそう言った。内心で舌を打つ――見誤った。

 よくよく考えれば分かることだった。アナスタシアが初めに生み出した水の球は5つ。


 開始早々、場内に水気で満たすのに使用した一つ目。

 暴風から身を守るために発動させた水の盾で二つ目。

 ヒュンケルが発動させた火の術式から、ウィズを守るのに三つ目。

 そして乾燥した場内を再び水の気で満たした四つ目。

 その時点で、すでに水の球は消えていた。一つ足りない。


 つまり、唐突に表れたアナスタシアこそが最後一つの水の球の使いどころ。水と光の屈折を利用した水鏡と同じく、周りの景色と同化して潜んでいたのだろう。

 最後の一体――本物だと思い込んでいた偽物があっけなく倒された瞬間、不意打ちで姿を見せて意表を突く。予想以上にうまくいったと言っていい。


 しかし、それで全てがうまくいくほど、竜騎士団副長の座は安くない。

 ヒュンケルはぎりぎりと締められる腕を外すことを諦め――その身を燃やした。立ち上る炎にアナスタシアは距離をとる。そのままでいれば、締め堕とす前にこちらが燃え尽きるからだ。

 さっさと締め堕とせばよかった――。


「チッ」

「おいおい、お行儀がよくないぞアナスタシア。そんなんじゃ嫁の貰い手がないなぁ」

「ご心配なく。恙無く、婚約まで事は運びそうですので」 

「それは困る」


 軽口を叩きながら睨み合い、距離をとる。

 ヒュンケルは反りの強い短剣ダガーを両手に構えた。体術に優れたヒュンケルにとって、手の延長とも言える短剣は使い勝手が良く、自らの強みを最も生かせる武器であった。

 アナスタシアもまた、腰に下げていた剣を抜き放つ。細く長いが、レイピアよりも軽くて扱いやすく、半人の中でも最速を誇るアナスタシアの動きを邪魔しない。

 じりじりと距離を測る。間合いの異なる二人にとって、どちらが先に動くか、どう間合いに踏み込むかは、戦いの勝敗を分けるものだ。呼吸を読み合う。隙を探る。

 

「いいか、アナスタシア。お前をどこぞの豚の嫁にはやらない」

「はぁ」

「俺は近く陞爵しょうしゃくして侯爵の地位を与えられる。領地もだ。何の苦労もさせないと誓うし、おまえの欲しいものならばなんだって与えてやる。ドレスも宝石も美食も、何もかも」

「はぁ……」

「だからそろそろ約束を叶えてくれ」

「……」


 アナスタシアの肩からすとんと力が抜けた。整ったかんばせから表情も消えた。

 ヒュンケルはそれに気づくことなく続きを紡ぐ。


「だから、俺と結婚しよう」

「お断りします」


 なにが、「だから」なのか。

 アナスタシアの中で何かが燃える。ゆらゆら、めらめら、ぐらぐら燃える。

 これは――怒りだ。


「貴方の、そういうところが嫌なのです!!」


 怒りに任せた叫びは、レイピアの刺突と共に。

 怒りが揺れる黄緑の瞳のその中央、黒色の瞳孔が大きく開いている。刺突を危なげなく短剣で防いだヒュンケルは目を白黒させている。

 なぜアナスタシアが怒っているのか、何一つも分かっていない。そんな顔だ。


 ヒュンケルが分かっていないのも仕方ない。

 彼は公爵家の次男だ。竜騎士団の副長だ。上級社会に産まれて、上級社会で生きてきた、生粋の貴族だ。

 施しは貴族の役目の一つだ。常識だ。子供の頃から当たり前にやってきたことの一つだ。

 施された方がどう思うかなど、彼には何にも興味関心はないのだ。


「貴方は何も分かっていない! 貴方に金で買われたと分かった時、どれほど……、どれほど惨めだったか!」


 激しい剣戟。アナスタシアの一方的な刺突を、ヒュンケルは困惑の表情でかわしていく。


「貴方には、分からない……っ!」


 瞼の裏に熱が点る。

 あつくてあつくて仕方がない。振り払うように瞬きをすると、熱と共に涙が零れた。


 16歳。学生だったあの日を最後に、枯れたと思っていた涙だった。






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