結婚狂騒曲、フィナーレ1
数万という人が集まっているにも関わらず、恐ろしいほどの静寂が広がっていた。
誰しもが口を噤み、固唾を呑んで盤面で向かい合う二人を見つめている。
自らの契約竜・ウィズに騎乗したアナスタシアの心は驚くほどに凪いでいた。
これも全て、試合前にエルダと話したおかげだろう。言葉を交わし、思いを吐露し、ぬくもりを分けてもらったからこそ、アナスタシアは覚悟が出来た。
全力で戦う覚悟だ。
上官であろうと、高位貴族の子息であろうと、負ける気などさらさらない。全力で勝ちを掴みに行く。
竜騎士爵の返上を求めてきたヒュンケルに対し、アナスタシアが求めたのは『全ての情報の開示』だ。
なぜ戦いの場を用意してまで爵位の返上を求めたのか。なぜあんなに激怒したのか。ヒュンケル・イアル・ウィンプソンという男が何を考え、なぜそう動いたのか、その全てを知りたいと思ったのだ。
何も言わずとも全てを知っていた、理解できていた子供の頃と今とでは何もかもが異なる。だからこそアナスタシアは知りたいと思った。
そして、自分も全てを伝えよう、と。
審判役の騎士がヒュンケルを見、そしてアナスタシアを見て、天へと真っ直ぐに腕を上げた。
――始まる。
向かい合う騎士たちは、ゆっくりとした動作で腰に履いていた剣を鞘から抜き放った。
徐々に露わになる刀身が日の光を浴びてぎらりと輝き、天へと伸ばされた。
「自らの武の技と知略でもって戦うことを、我が王と誇り高き竜の神に誓います」
御前試合の前に唱和することを決められている一節を、声を合わせて朗々と宣言する。
誰の助けも邪魔も入らない、一対一の戦いだ。ぐるりと囲うように人の目があるため、ずるも出来ない。頼れるのは自分の体と頭だけ。自らの誇りと技をかけ、正々堂々と戦うことを誓うのだ。観客に、神に。
わああああ!! 爆発したような歓声が上がる。全身に降り注ぐそれは、まるで雨のようだ。
一瞬だけ、アナスタシアは目を閉じた。深く、深く息を吸い込む。海に潜る直前のように、深く、深く。そして肺の隙間に空気を詰め込むように、短く浅く、速く、何度も。
「はじめ!!」
審判の声と共に、上げていた腕が振り下ろされる。
試合開始の合図とほぼ同時に動いたのはヒュンケルだった。契約竜であるルディが空高く飛び上がる。濃緑の風羽が風圧を受けて広がり煌めいた。痛いほどの静寂から一転、歓声がこだまする。
邪魔するものは何もない試合場の空は、風の属性を持つ風竜であるルディに利がある。対して、アナスタシアの契約竜のウィズは水竜であるため水場では圧倒的な有利を誇るが、水気のないこの場所ではかなり不利であった。
しかしそんなことは百も承知。陸地には陸地の戦い方がある。遅れて、アナスタシアもウィズと共に空へと飛んだ。
「ウィズ!」
アナスタシアが高らかに相棒の名を呼ぶと、それに応えるように嘶いた。
仄青い光を帯びた魔術式が空中に展開し、渦巻くように水が湧き起こる。水の無いところから創り出すのは、かなり高位の術式を用いる。それを可能にする知識と魔術量こそがアナスタシアが唯一、ヒュンケルに勝っている部分だろう。
人の頭くらいの大きさの水の球が五つ、アナスタシアの周りを浮遊する。
そのうちの一つがぱぁん、と弾けて、霧のようにウィズを包み込んだ。
水場に生息し、湿気を好む水竜の一番の敵は乾燥だ。水に濡れてしっとりとした鱗を保つことで、水竜本来の力が発揮できるようにしてやらねばならない。
心地よさげに一鳴きし、口内に魔素を溜めていく。渦を巻きながら収束していくそれが、水の弾丸となって上空を飛ぶ巨体へと猛スピードで向かって行く。
「ルディ、右に旋回!」
ヒュンケルは鐙を踏んだ足で軽く右腹を蹴りつけた。それに合わせて手綱を引く。
隙間に風が吹き抜けるような高く細い、しかし嫌ではない鳴き声で応えると、その巨体からは想像もつかないほどの素早さで空を翔ける。ばさりと大きく羽ばたく翼も、遅れて揺れる風羽も、どこか優雅だ。
幾度も続けざまに放たれる水の弾丸を、全て危なげなく避け切った。人間同士の剣戟ではあり得ない派手な攻防に歓声が上がる。
竜騎士とはその名の通り、竜に騎乗して戦う騎士のことである。
契約竜の体躯により、背や首元など竜騎士が乗る場所は変わるが、その体のどこかに鞍をつけ鐙を踏み手綱を引いて、人馬一体ならぬ人竜一体となって戦うのだ。
竜は力も速さも普通の馬とは比べ物にならない。それを乗りこなす騎士の負担もまた然りだ。
空中を駆け、旋回し、急停止急発進する負荷から守ってくれるものは、竜騎士の纏う鎧と、鍛え上げたその体以外にない。落下しないよう跨る下半身に力を入れ、制御を奪われぬよう手綱を握りしめなければならない。
竜を得るまでも困難だが、得てからも困難を極める。
竜騎士の名に恥じぬよう、鍛練と訓練を積むのだ。
「術式展開!」
ヒュンケルの声と共に、ルディの巨躯にびっしりと魔術式が浮かび上がった。普段は目に見えない、風の属性を混ぜ込んだ特別なインクで描かれた術式は、鼓動に合わせて仄白く明滅する。
ルディを中心にして暴風が吹き荒れた。向かってくる水の弾丸も何もかも、全てを巻き込んだ嵐は会場中に吹き荒れて、あまりの風圧にウィズの背に乗ったアナスタシアの体が揺れた。持っていかれそうになる体を必死にウィズに寄せて、下半身の力を強める。
吹き荒れる暴風の中に、空気を凝縮した刃が混ざった。大きいもの小さいものが入り混じったそれは、アナスタシアの遠近感を狂わせる。避け切れない刃がアナスタシアに、ウィズに細かな傷をつけた。ぱっと飛び散る鮮血に、アナスタシアは顔を歪める。
「くぅ……っ!」
水の球が盾の形をとって風を防いだ。刃を受けるたびに削られて水が飛び散る。
会場からも悲鳴が上がった。水や炎といった魔術攻撃や、それによる瓦礫などの物理的な攻撃から観客を守る魔術防壁が存在するが、ただの風は――これが魔術の含んだ風の攻撃だったら別だが――防がない。煽られて飛ばされた帽子が宙を舞った。
はじけ飛んだ水の粒がきらきらと光を反射する。
いくらかダメージを受けたが、霧のように会場中を満たした水の気は、ウィズに有利になるものだ。
泳ぐように巨躯をくねらせて、ウィズは上昇してルディに接近する。水の盾を発動させたまま突っ込んだ。応戦したルディの体躯と真正面からぶつかり合う凄まじい音がした。
ぎりぎりと力が拮抗する。
アナスタシアはヒュンケルを見据えた。ヒュンケルもアナスタシアを見る。
静かな瞳だった。凪いだ海のような、静かな青だ。
顔を合わせたのは随分久しぶりのような気がする。実際久しぶりだった。ヒュンケルが激怒し、決闘を申し込まれたその日から会っていない。席を同じとする仕事は免除され、単独での細々とした仕事ばかりをこなしていた。
あんなに怒り狂っていたのが嘘のようだ。
アナスタシアの心もまた、凪いでいる。あれだけ感じていた恐怖はどこへ消えてしまったのだろうと思うほど。
目が合ってアナスタシアは笑った。面食らったような顔をしたヒュンケルに、また笑みが込み上げる。
「――負けません」
聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟いて、アナスタシアは至近距離で術を放つ。うねる水の鞭がヒュンケルに向かって蛇のように伸びた。
手のひらに燈した炎でそれを握り潰すと、にやりと笑う。
「勝つのは俺だよ」
手のひらの炎は勢いを増し、ヒュンケルを、ルディを丸々呑み込んだ。
燃え移る前に即座に離れる。いつまでも力比べをしていたら、水竜のウィズはすぐにやられてしまうからだ。横腹を蹴って距離をとった。
巨大な火の玉となったヒュンケルたちの周囲の水の粒が蒸発していく。あまりの熱波にウィズがか細く鳴いた。炎は大敵だ。湿気を纏ったウィズの鱗が渇き切ってしまうと、戦うことは困難になってしまう。アナスタシアは浮遊する水の球をウィズにぶつけた。もう一つを再び霧状にして会場内に充満させる。やるべきことはやった。残りの水球はない。
水の蒸発する蒸気と、新たに生まれた霧で視界は白く濁る。こうなってしまえば視覚はほぼ役に立たない。
聴覚、嗅覚は勿論、肌に触れる空気の動き一つを正しく読み切らねばならない。読み違えた者が先にやられる。
ゆっくりと停止飛行するウィズが、ぴくりと動いた。
ボッ、と空気砲が横っ腹にぶつけられ、衝撃によろめく。蒸気の中から現れたルディが、口腔内に魔素を集中させていく――ブレスを放つつもりなのだ。
「終わりだ!」
「――まだです!」
ルディのさらに後ろに現れたのはウィズだ。会場中を満たす、霧の中にもその影がいくつも見える。
「水鏡か!」
充満した蒸気によって光の屈折を起こし、ウィズの姿を至る場所に映し出していた。魔力を注ぎ込んだそれは実体をもって浮遊している。それを消すには本体を叩くしかない。
ヒュンケルは周囲に素早く視線を走らせた。




