結婚狂騒曲、間奏
歓声が聞こえて、アナスタシアはびくりと体を震わせた。
御前試合の参加者たちは、自分の試合があるまでは一人一室、控室を与えられる。一人ならば十分な広さの部屋だ。寛ぎも、素振りなどの訓練もすることが出来る。
柔らかなソファがあるにも関わらず、アナスタシアは部屋の隅で床に直接腰を下ろして膝を抱えていた。
(どうしてこんなことに)
自らの上司が激怒したあの日から、考えるのはそればかりである。
怒りに染まった青い瞳を思い出す。
幼い頃から見知っている、幼馴染と言ってもいい間柄の彼があんなにも怒りを露わにするのは初めてのことだった。基本的に明るく朗らかで穏やかな気性の持ち主だ。怒るのはどちらかというと、気の短いアナスタシアの役割だった。
何がいけなかったのだろう。
投げつけられた手袋を拾い上げてしまったことか。
ヒュンケルの副官についてしまったことか。
ウィズと契約して竜騎士になったことか。
軍事演習に参加してしまったことか。
そもそも、身分の異なる家の子息と出会って想いを育んでしまったことなのか。
アナスタシアには分からない。考えても考えても答えが出ない。
(イアル……)
幼い頃に呼んでいた名を、音も出さずに口にした。名前を呼ぶと、いつだって笑って呼び返してくれていた。幼い頃はルージュと。長じてからはアナスタシアと。
いつだって笑って名を呼んで、手を伸ばしてくれたのだ。
その手を振り払ったのは、紛れもなくアナスタシア自身である。その報いが今なのかもしれない。
「ロン少尉、入るわよ」
「カルカロフ少尉……」
軽いノックの後、答える前に扉が開いた。入ってきたのは竜騎士軍の参謀役を務めるエルダ・リマ・カルカロフ少佐だ。下級兵から辺境伯爵夫人かつ少佐の地位にまで昇りつめ、第二子妊娠中に契約竜・ソイールを得たという女傑である。
彼女の存在が男性至上主義の軍部での女性の地位を押し上げたといっても過言ではない、女軍人たちの目標とも言えるような女性だ。それはアナスタシアも例外ではなく、年が近いのに夫も子供も軍部での地位も何もかもを持っている彼女を尊敬し、また羨んでいる。
「貴女ってばそんなところに座り込んで! 女の子が腰を冷やしちゃいけないって言っているでしょう」
「少佐、私はもう女の子という年ではないのですが……」
「そういう事じゃないのよ、ばかね」
聞き分けのない幼い子供を窘めるようにそう言って、膝を抱え込んでいたアナスタシアの手を取って立ち上がらせると、近場のソファへと座らせた。柔らかいソファはアナスタシアの体重を受け止めて深く沈む。柔らかすぎて、沈み過ぎて、どこまでも沈んでいってしまいそうだ。
しかしそんなわけもなく、アナスタシアの肩を抱き込むようにして彼女も隣に腰を下ろす。どうやら体がひどく冷えていたようで、隣り合ったエルダの体温がじんわりとアナスタシアに伝わった。
ミルクの匂いがする。竜騎士として十数年もの間国中を飛び回りながら、母として5人の子供を育て上げた彼女は、四十に足を踏み入れてから再度我が子を産み落とした。昨年の春のことである。幾度も幾度も乳飲み子をその胸に抱いた、面倒見の良さは母性故か。
甘い香りを深く吸い込んだ。安心する香り。優しい匂い。アナスタシアは知らず知らずのうちに入っていた力を抜いた。
「あぁ、あぁ、もう。爪のあとがついちゃってる。どれだけ強く握ってたの」
「……すみません」
「怒ってるんじゃないって分かっているでしょう」
ばかね。再度、歌うようにエルダはそんな言葉を唇に乗せる。
握り締めたままがちがちに固まってしまっていた手をふんわりと包まれて、優しい手つきで――しかし力強い指先で――一本一本指を解されていく。
心地のいい無音の空間に、ぽつりとした呟きが落ちる。
「こわい?」
首を縦にも横にも触れず、アナスタシアは俯いた。紫の瞳に影が差す。
これからの試合が怖い。
衆目のもと戦わなければならない――負けねばならない。
同じ竜騎士ではあるが、元々の地位も何もかもが違い過ぎる。公爵家の次男であるヒュンケルと、生まれは伯爵家とはいえ奴隷上がりのアナスタシアでは、何もかもが違う。
実力以外の何物も勝負の場に持ち込んではならないとされている御前試合ではあるが、それは建前というものである。多かれ少なかれ家や階級、所属などの要素にそれぞれの思惑が絡んで、違和感を与えないように勝敗が決まるのだ。
勿論正真正銘、正々堂々と全力で戦い合って勝敗を決める試合もある。それは御前試合の最初の数試合で行われる、新人同士の試合であることがほとんどだ。
ヒュンケルとは本気で戦ったことはない。学生時代、訓練と称して剣を交えたことはあった。竜騎士となってから、横並びで戦いに赴いたこともある。
アナスタシアの契約竜であるウィズと、ヒュンケルとその契約竜のルディと連携することも多いので、戦い方や癖はよく知っている。しかしそれは相手も同じこと。
副団長とその副官。上司部下という関係ではあるが、竜騎士としての実力は拮抗している。水竜であるウィズと風竜であるルディの力はほぼ互角であり、それを操る騎士の能力も五分五分だ。
しかし万が一にも勝利してはならない。
アナスタシアの勝利など誰も望んでいない。
王族が、貴族が、民衆が見たいのは、竜に跨り空を翔ける美しき青年の雄姿だろう。
負けたアナスタシアに突き付けられるのは、竜騎士爵の剥奪だ。
竜騎士になったことで市民権を得た半人のアナスタシアは、それを失った時点でまた奴隷身分へと堕ちることとなる。それ以前に、竜騎士が竜騎士でなくなることが許されるのは死した時のみであるため、死を強要されるかもしれない。
一度契約を交わした竜は、死んだ契約者の血肉を喰らうまでは新しい契約を交わすことが出来ない。そのため、のっぴきならない事情がないにも関わらず竜騎士であることを放棄した者には、死という制裁を与えられることが多いのだ。
人に力を貸すことを一度は許した竜たちは、比較的好意的に次の契約者を選ぶので、国としてはそんな竜を契約者不在で放置することは我慢ならないことだろう。
ヒュンケルは基本的には穏やかで優しい男だ。
時と場合によっては、非情になることも厭わない男でもあるが、それでもその本質は善である。
何の考えもなく、アナスタシアの破滅を望むとは思えない。
「こわい……」
こわいかとエルダは問うた。
戦うことが怖いのではない。衆目のもとに曝されるのが怖いのでもない。
怖いものは、恐ろしいものは。
「わからないんです……、あの人が、何を考えているのか……」
なぜあんなに激怒していたのか、なぜこんなことを言い出したのか、分からない。
分からないからこそ恐ろしい。
エルダはアナスタシアを抱き寄せた。
豊満な胸に頬が触れる。硬い軍服越しに感じる柔らかな胸に頬を寄せた。心臓の音が聞こえる。
「大丈夫よ」
剣ダコのある手がアナスタシアの赤髪を梳いた。何度も何度も繰り返されるそれは、凝り固まったアナスタシアの心も解していくようだった。
「男ってのは、言わなくても伝わるだろう見ればわかるだろうって仕方のない生き物だから、言って欲しい伝えて欲しいって考えちゃう女とは、たま~に、どうしようもなく合わない時があるものよ。
貴女もあの子も意地っ張りで、あんまり言葉にしないから、躓いたりもしちゃうけれど。でも大丈夫、なんやかんやで上手くいくわ」
「ふふ、なんですか、それ」
「なんやかんやはなんやかんやよ」
あまりにも軽い調子で言うものだから、ふふふ、と笑いが込み上げた。
「いい機会じゃない。貴女は普段、周りに気を使ってばかりで自分の本音とか言わないんだから。こういう時くらい、今までためてたものぜーんぶ吐き出しちゃいなさいな。あの子はそれくらいで揺らぐような軟な子じゃないんだから、大丈夫」
「もし、上手くいかなかったらどうするんですか?」
エルダの胸の中で気持ちが上向きになったアナスタシアが、少しだけ意地の悪い質問をした。
今まで思っていたこと、ため込んでいたことを全てぶちまけて、上手く収まったらいい。しかし、そうでなかったら? うまく収まるどころか、もっとどうしようもないことになったら?
問いかけるも、その顔はけして暗くない。
ぶつかってみようか。
アナスタシアの全部でもって、ヒュンケルに。
ぶつかって砕かれなければそれでいい。砕けたなら砕けたで、それでいい。
「う~ん、そうねぇ」
エルダは少し考えるように斜め上に視線を走らせて、にんまりと笑った。
「その時はうちの子になっちゃいましょうか」
うちのバカ息子達のお嫁さんでも歓迎するわよ!
ぱちり、茶目っ気たっぷりにウィンクを一つ。
どこまでも軽い調子の上官に、アナスタシアはその日初めて声を出して笑った。




