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じゃき、じゃき、じゃき……
耳のすぐ横で音が鳴るたび、自慢の赤毛が地面に落ちる。鋏を入れる前から毛先はがたがたで、見るも無残な有様ではあったけれど、砂や泥に汚れるその色を見るとどうしようもなく虚しくなった。
ざんばらになったままではさすがに売り物としては見目が悪すぎると、応急処置くらいの気軽さで鋏を入れられた。
長い髪。ここまで伸ばすのに、どれくらい時間がかかったか。
すぐに傷む髪を毎日丁寧に梳いては油を塗り込め、枝毛も切れ毛もないようにして。
まっすぐで、さらさらで、きれいだ、と。
言ってくれたから、頑張ったのだ。
着心地の悪い生成りのワンピースはごわごわとして、どうも落ち着かない。見知らぬ誰かの使いまわしか。あちこち汚れ、臭いもひどい。
内臓が破裂するんじゃないかと思うくらいに締め付けるコルセットも綿の実が爆発したように膨らんだパニエも苦手だったが、今のこれよりかは幾分かマシだった。
きれいだよ、と。
真っ白なドレスを身に纏って、目いっぱいおめかししたアナスタシアに、真っ赤な顔で夢を見るように囁いた。
いつも手放しで褒めてくれたから、苦手なドレスも楽しみだった。
学院は退学になった。
なった、というよりも、父と母の意向で自主退学という形にされた。卒業まであと数ヶ月だったのに、惜しいものだ。学びたいことも、やりたいことも、まだあったのに、それももう遥か遠く。
あんまり強くなりすぎないでね、と。
騎士科への進学を決めた時、拗ねたように唇を尖らせた。かっこよく守らせてよと言った顔が、かわいくて、かわいくて。
王宮の医学研究所に努めるフリッツには結局会えなかった。
勤め始めてまだ日が浅いにも関わらず、数々の結果を残す優秀な兄は、アナスタシアが軍事演習に参加する数日前に他国に留学に行った。きっとまだ、知らせは届いていないだろう。むしろ知らせているのだろうか? 分からない。届いていたとしても、易々とは帰ってこれない。
会えないままアナスタシアは誰かに買われていくのだろう。
―――アナスタシア、俺と――…
その約束は、もう、守れない。
首筋が寒い。短くなった髪が頬に当たってくすぐったい。ちくちく、ちくちく、髪が刺さる。痛い。
痛い。
痛い。
首筋に冷たいものが宛がわれた。奴隷の首輪だ。
これからアナスタシアは競りに出される。元貴族令嬢であり、容姿も、学も、申し分ない。おまけに剣や魔術の心得もある。半人ではあるがかなりの高額が予想されるため、アナスタシアが呼ばれるのは最後である。
27番。
それが今の、彼女の名前。
周りを見渡せば、同じような襤褸を纏って首輪をはめた、項垂れながら座り込んでいる多くの人がいた。
番号が呼ばれるたびに減っていく。一人、また一人。出ていくたびに、天蓋の外から歓声が聞こえる。値がつり上がっていく者、中々上がらない者。様々だ。
泣き声が聞こえる。あちこちからすすり泣きが聞こえる。肩を震わせて泣きながら、奴隷商人に突き飛ばされながら天蓋の外へ出ていく。そうして何度も何度も繰り返されて、そして。
「27番。立て」
彼女の番がやってくる。
力任せに立ち上がらせようと伸びる手を避けて、彼女は自分の意志で立ち上がった。
「自分で行きます」
べたつく床を踏みしめて、彼女は天蓋の外へと向かう。
泣いてなんかやるものか。
傷ついてなんかやるものか。
約束はもう守れない。けれどせめて、貴方が好きだと言ってくれた私のままでいよう。
背筋を伸ばして、真っ直ぐ前を向いて。
彼女は歩く。
天蓋の外は明るかった。
太陽は大分傾いてはいるが、昼間のうだるような熱さはまだ残っている。強い日差しに目を焼かれて眉を寄せた。
歓声が上がる。貴族だった頃の彼女を知っている客も多くいるのだろう。学院でも指折りの優秀な生徒で、公爵家次男の元婚約者で、医学の名家である伯爵家の娘でと、有名人だった自覚はある。
司会の男がスタート価格を声高に叫んだ。そして始まる数字のやり取り。
自分の奴隷を持たなかった彼女は、競りの作法をよく知らない。彼女の立つ舞台を要として、半円状に広がる客席には多くの貴族や富裕層の平民が腰を据えている。
高々と上げた右手の指は数秒ごとに形が変わり、数字が変化するごとに空に伸びる腕が減っていった。
その光景をじっと見ていた。
目線は真正面に固定して、どこの誰だか知らない男の、胸元に輝く大粒のサファイアを見つめていた。純金だろう台座に固定されたそれ。
彼女がよく知っている青は、もっと濃くて、もっと澄んでいて、もっと。もっと。
カンカンカンッ
木槌が打ち鳴らされる音で彼女は我を取り戻した。落札! 司会の男が声を張り上げて落札額を告げると、どよめきと共に拍手が鳴り響いた。
平静を装いつつも、彼女は内心で目を剥いた。金を使うことが仕事とも言える貴族でも、中々動かない金額だ。自分にその価値が――あるのだ、と言い聞かせて、彼女は淑女の礼をとった。
みすぼらしい姿だ。髪は短くなってしまったし、素足だし、化粧だってしてない。そもそも淑女ではなくなった。ただの奴隷の女になり下がった。
しかしこの心だけは、汚れも折れてもしてやらない。
顔を上げ、ぐ、と唇を引き結ぶ。
最後の商品の競りが終わった。最後の拍手は見世物が終わった合図でもある。ぞろぞろと会場を後にする客たちを尻目に、彼女は奴隷商人に番号を呼ばれて天蓋に戻った。
お前を買ったお方だと、引き合わされたのは。
「アナスタシア……ッ!」
「ひゅ、……っ」
婚約者であった、ヒュンケルその人だった。
抱き寄せられる。強い力だ。いつだって優しく触れてきたその手は、強く強く、背骨が折れそうなほど強く、彼女の背をかき抱いた。
ぴたりと耳にくっついた首筋からは、早く、強い鼓動が伝わる。小さく聞こえる、硬いものがぶつかり合う音は、歯の震えだろうか?
「アナスタシア、アナスタシア……ッ! ああ、よかった、おまえが、無事で――っ!」
ひときわ強く抱きしめられた後、わずかに体を離して顔を覗き込まれる。
大きな手が頬を包み込み、確かめるように指先がなぞる。その指先は震えていた。元婚約者を見つめるサファイアは熱に潤み、今にも零れ落ちてしまいそう。
(嗚呼)
この世で最も美しいその青に映る女の、なんと惨めなことか。
「セグル砦でお前が戦に巻き込まれたと聞いて、俺がどれ程恐ろしかったか……っ! ああ、間に合ってよかった、本当に! 生きた心地がしなかったんだ……! ああ、アナスタシア、よかった、アナスタシア……ッ!」
皺ひとつない真っ白なシャツ。首元にはアメジストがあしらわれたタイが飾られている。
暗い室内に揺れる蝋燭の仄赤い光を受けて、なおも輝く金の髪。同色の金糸で緻密な刺繍が施された黒いベストとスラックスは、最高級の生地と職人の手で造られた一級品。履き古してなお艶めく革のブーツも、嫌味がなく完璧に似合っている。
美しい男だ。優秀な男だ。優しい男だ。愛情深い男だ。泣き虫な、男の子だ。
知っている。知っていた。
全てを知ってなお、愛していた。
ヒュンケルは微笑む。そして。
「アナスタシア、俺と結婚しよう」
―――ルージュ、ぼくと、結婚して
幼い頃の少年の顔が目の奥に焼き付いている。
頬を紅潮させて、恥ずかしげに、けれど青い目をきらきらとさせて。必死さを滲ませて、けれど断られるとは微塵も思っていない、純粋で強欲で残酷で――なんて愛おしい。
(嗚呼、嗚呼、嗚呼……っ)
はく、震える唇が戦慄いた。
酸欠の金魚のように、はくはくと、声にならない叫びが喉を焼く。
「……アナスタシア?」
ヒュンケルが名を呼んだ。彼女が腕をつっぱって、抱擁から抜け出したからだ。薄暗い室内では俯いた顔は見えない。
それでいい。顔なんか見えなくていい。
アナスタシアは、死んだのだから。
「どうぞ、よろしくお願い致します。……ご主人様」
嗚呼。今、笑えているだろうか?
***
「そうして過去最高額でヒュンケル殿に競り落とされた後、無印奴隷としてここ――公爵邸で働いたのが二年。彼はまだ学生でしたし、卒業できなかった妹を学院で仕えさせるなんて酷なこと出来ませんからね。その間は兄であり友人である僕が後見人を務めていました。あ、そのつながりで自由民となった際に、ロンを名乗ることを願ったらしいのですがね?
そして妹は、ヒュンケル殿が卒業する直前、単騎で竜の生息地である東南地区の森林地帯へ赴き、今の相棒であるウィズを得ました。めでたく竜騎士として召し抱えられ、奴隷身分から脱却。その後、それを知ったヒュンケル殿もまた周りの反対を押しのけて竜を求めて生息地帯に単騎突入。見事竜騎士軍に入り、今に至ると。そういうわけです」
ハイおしまい、軽い調子で締めくくられた話は、とても重いものだった。
兄であり友人であるとはいえ、他人から聞いてよかったのかと思ってしまうほど。シェヘラザードやアリアドネだけならまだしも、ここにはおしゃべりなセイレンナーデや噂好きな侍女たちもいる。
人の口には戸はたたない。この話はすぐに広まってしまうだろう。
(この人は……なぜここまでぺらぺらと……)
愉快犯な気があるのはよく知っている。
家格上、主従関係ではあるが親しい友人でもあるヒュンケルをからかっているところもよく見る。しかし、この話に関わっているのは彼の最愛の妹であるアナスタシアだ。
竜騎士という名誉ある地位にある彼女が半人であることは周知の事実ではあるが、そこに至るまでの経緯など、こんな大っぴらに他人に知らされたくはないだろう。
アリアドネだって、尊敬する師のことを好き勝手噂されたらいい気はしない。誰だってきっとそうだ。
何か考えがあるのだろうか。
「ロン少尉は……」
ずっと黙って話を聞いていたシェヘラザードが小さく零した。
「ロン少尉は、どうしてお兄さまの手をお取りにならなかったのでしょうか」
「……そうよ、だってそのまま頷いていれば、元通りだったんじゃないのかしら。婚約者のままでいられたのに、どうして? 意味が分からないわ」
「さてね……、私にもそれはさっぱり分からんのですよ。君はわかるかい?」
新しい茶を出すタイミングを見計らっていたアリアドネは、話が一区切りしたことで紅茶をティーカップに注いだ。
4人分。
「ねぇヒュンケル殿?」
「フリッツ……おまえ、いつから気づいてた?」
「さぁ」
扉にもたれかかるようにして立っていたのは、今しがた話の中心となっていたヒュンケル・イアル・ウィンプソンその人だった。
どことなくげっそりとした顔で、呆れたようにフリッツを睨みつける。どこ吹く風といった体でそれを受け流し、淹れ直した紅茶に口をつけた。
「お、フルーツ入りのハーブティーかい? 腕を上げたじゃないか、生意気にも」
「お褒め頂き光栄でございます」
アリアドネが空いていた席を引いて示すと、ヒュンケルは困ったように視線を泳がせ――溜息一つを零して席に着いた。すかさずティーカップを置くと苦虫を嚙み潰したような顔をされた。
お前もいつから気づいていた? そう問われているような目だ。目礼で返す。回答拒否。
それに慌てたのは妹たちである。
勝手に兄の過去を聞き出していたのだから、叱られても文句は言えまい。
「あ、あの、お兄さま、その……っ」
「も、申し訳ありません、勝手にこんな、あの、あの……」
「ああ、いい、いい。気にするな。諸悪はこいつだ」
「酷いなぁ」
隣に座るシェヘラザードの髪を梳きながら交わされるやりとりは気安い。古くからの幼馴染らしい仲の良さが窺える。それでいてしゅんとする妹達にも気を配っているのだから、本当によく出来た男だ。
「聞きたいと言ったのは令嬢たちだよ」
「そりゃあレディ達は色恋の話に敏感だからな。こんなに素敵な兄がいるんだ、浮いた話の一つや二つ知りたいだろうさ」
「おや、一つや二つで済んだかな?」
「ははははは」
「ふふふふふ」
(まぁヒュンケル様も男性だからな……)
好いた女に手を出せない状況でも溜まるものは溜まる。浮いた話はそれほどなかろうが、その事実は少なからずあったのだろう。
肉体年齢はまだ幼いが、精神年齢はすでに成人済みのアリアドネは知識として知っている。しかし年端もいかない少女たちの前でする話ではない。
渇いた笑いを交わすところに咳払い一つ。
「で、どうして僕の可愛いアナスタシアはお前を拒んだと思う?」
「…………俺が知るかよ」
ぴたりと笑いを止めたかと思えば、フリッツはそんな爆弾を投下してきた。
タイミング悪く紅茶を口にしていたセイレンナーデが大きく肩を揺らした。咽ている。しかし貴族令嬢として、大っぴらには咽こめない。
「あの時おまえがちゃーんと僕の可愛いアナスタシアを捕まえていれば、こんなことにはならなかったのになぁ」
「だから俺は―――……何かあったのか?」
けほけほ、こんこん。
咳き込むセイレンナーデの背をフリッツは優しく叩く。その姿は紛れもなく『兄』だった。
「アナスタシアの結婚話が出た。――やられたよ、領地に押し込んだから手が出せないと思ってたのに」
「――――――はぁ?」
後にシェヘラザードは語る。
その時に見た兄の顔は、まさしく悪鬼羅刹のそれであったと。
ご拝読ありがとうございます。
私事ですが法事に参列した関係で、もしかしたら今後更新が乱れるかもしれません。申し訳ございませんが、宜しくお願い致します。
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